• ベストアンサー

いろいろな物事がわかってくる感動と恐れ

自分は人生の半ばを過ぎております。すでに下り坂に入ってきている。そこで、いままで見聞したり練習したり訓練したり追及したり刺激を受けたり、いろいろ経験してきて、かなりのインプット自分に与えたものだと感じます。その結果、少なくとも若いときにはおぼろげにしかわからなかった感覚が、もっとくっきりとおそらく確からしく思われるまでになったことが多いです。自然科学人文科学の断片的知識とか、人間心理とか、スポーツを練習した結果のコツとか真髄とか、芸術の本質とかさまざまなものが、ある程度の確からしさを持って自分で把握できます。 また、自分の能力についても、若いときまるっきりだめだった(英才教育など受けていないので物心つくまでになにかこなせるようになっていたわけでもなかったので)のに、訓練によってつくものだなという感覚があり、自分自身の可能性というものにも一種の感動を覚える(もっともこんな低いレヴェルで感動しているようでは先が知れていますが)外国語能力とかスポーツの身体的動きとか、よくもこんなことできるようになったなという気がします。 そういう、いろいろなインプットで総合された、悟りのような感覚というのが、どうも感動的であると同時に、その背後に広がる世界の広さを感じて、恐ろしい感覚があります。天才のやることはすごい、でもその一端を垣間見る私という凡人は、そういう深みに対する恐ろしさがある、そういう恐ろしい感覚というのは、人間の成長に伴って付きまとうものなのでしょうか?本当に天才ならば、そんなのへの河童だといって、どんな真髄を見ても動じないのでしょうか?そんな、感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心を持っていてはだめなものでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.4

若輩者ですが、よろしくお願いします。 確かに、天才の残した作品や、長年の歴史に裏打ちされたものは、非常に感動的です。私の場合、哲学史や美術史に、特にそういった感動を覚えます。 多くの作品は、同じ人間が作ったものであり、究極的には理解が可能なものです。本当に理解不能なものは、作った本人も議論をまとめ切れていないのか、精神を病んでいる人が作ったのか、意図的に意味不明にしているのかの、いずれかです。まあ、統合失調症やその他の精神の病気の人が描いたアートには、時として、非常に感動的なものもあるのですが。 どんな天才も、感動する心を持っています(自閉症の数学的天才は除外しましょう)。哲学者カントはルソーの素晴らしさに圧倒され、規則正しい時間帯に散歩をする習慣を忘れ、ルソーに読みひたってしまいました。若い頃のヘーゲルはフランス革命のニュースに狂喜し、自由の木を植えました。晩年になってからも7/14(バスチーユ襲撃の日)は世界史上で最もめでたい日だと言って、晩酌をすることをやめなかったそうです。 感動する心を失ってはいけません。また、恐れる必要はありません。人間、無限の時間があれば、どんな天才の作品も、世界の真実の姿も、理解できるはずです。ただ、時間が有限なだけです。

garcon2000
質問者

お礼

たいへん実のあるお話ありがとうございます。天才も人間であり、感動もあれば恐れもあり、その底が非常に高いのだということなんでしょう。カントヘーゲルの話にフランス革命とか啓蒙派が絡んでいるのは面白いし共感できますね。民主化ということは天才にとってもうれしいことなんでしょう。

その他の回答 (6)

  • compequal
  • ベストアンサー率42% (61/145)
回答No.7

 わたしも、フォン・ノイマンの業績とかを見ると、「ああ、この世には、ほとんど人ならざる人がいるのだなぁ」とどこか恐ろしい気分に陥ります。質問者さまの質問は質問の呈をなしていませんが、その感覚はなんとなくわかるような気が致します。  我々は訓練によって、おそらく人類の99%ができないであろうことを難なくこなせるようになる感動を味わうことができる。それは同時に人類のうちの99.999%は、おそらく逆立ちしてもノイマンのような人にはかなわないのだろう、という限界を提示し、そのことに対する絶望をも与える。その両方の感情が同時に押し寄せてくる。そういった事実は確かに、我々になんとも言えぬ戸惑いを与えますね。  ノイマンは、世界最初のコンピュータとの計算勝負に勝ち「俺の次に頭の良い奴ができた」と言い、ナッシュ均衡の論文を見て「くだらない」と一瞥したそうですね。とてもではないけれども、我々と同じ人類とは思えない。  その戸惑いをいかにして処理すべきなのか。その戸惑いをどう考えるべきなのか、ということは凡人である我々にとっての尽きないテーマであるという気はします。  おそらく質問者さんより遙かに若輩者だと思いますが、二冊の本の推薦を持って回答に代えさせていただきたいと思います。 1.スティーブン・ピンカー『心は「空白の石版」か』上中下巻 http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E6%9C%AC%E6%80%A7%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-~%E5%BF%83%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%A9%BA%E7%99%BD%E3%81%AE%E7%9F%B3%E7%89%88%E3%80%8D%E3%81%8B-%E4%B8%8A-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4140910100  人間の能力が遺伝的なものか、環境的なものか。この論争がどのような形で受容されてきたのか。認知科学者が手際よくまとめたものです。 2.アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』 http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E6%9C%9F%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8A-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF/dp/4150103410  超有名なので既読かもしれませんが、もしお読みでなければどうぞ。圧倒的な能力の差、というものが半分のテーマになっています。

garcon2000
質問者

お礼

本を薦められたのですが、ちょっと読む気力がないかなと感じています。しかし、天災の力っていうのは、本人にとって普通なのでしょうが、凡人にとっては困ってしまいますし、驚愕に耐えない。お互い精神に悪いでしょうね。

noname#52347
noname#52347
回答No.6

色んな方がいるんですね~。 わたしは天才にはなりたくないです。そこまでの自由度を背負うのも受難だし 恐ろしく孤独な可能性があるし。 >感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心 少なくともこの心があるうちは自分を楽しんで生きていけるじゃないですか。「背負い水」っていう言葉ご存知ですか? 人が生まれたときに、自分の一生の間に使う分の水を背負って生まれてくる、自分の分というものを持って生まれてきている、分というものを大切にして生きなさいということですが 背負い水が枯れないうちは生きていけるじゃないですか。 何も感じない心になって生きていくのはほんとにしんどいと思います。 深みに恐ろしさや好奇心を感じて生きていけるのはメンタルにも均整がとれ、人間として知性を発揮してるということでベストな状態のように思われるのですが。うらやましい話だと思います

garcon2000
質問者

お礼

天才は孤独でしょうね。よっぽど気晴らしがあればいいんですが、自分のレヴェルに誰も達していないという寂しさというかもどかしさは、実は精神の毒なのでしょう。逆に何も感じないで生きるのもまたつらいでしょう。今度は周りと折り合おうとしても折り合えない。塩梅がいいという常態が一番でしょう。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

[感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心を持っていてはだめなものでしょうか?] [感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心を持つ」のでよいのだと思いますよ。ただ定点を持てばその定点から「不動心」を得ることはたしかですけど。 天才と狂人、月とすっぽん、天と地、光と闇、これらはすべて対比語ですが殆どの人はこれらを紙一重と見てしまうのですね。特に人間観察にかかわる部分では間違いやすいですね。その人間の思考の奥に広がるものが月なのかすっぽんなのか、あるいは光の世界なのか闇の世界なのかの識別が難しいからですね。だから畏敬や感動と同時に恐れがあって当然ですね。認識力というのは、どこかに本人が信じる定点(世界観)をもって観察することですが「一般常識」という定点観察では怖いものがありますね。「私は・・・を信じる」の信じるを何に置くかできまりますね。例えば、釈尊は「私の会得した認識を信じる」を定点にしましたが普通はそうはいきませんね。定点つまり認識力は悟りですからより高い悟りを目指すしかないんでしょうね。 参考程度に

garcon2000
質問者

お礼

自分を確立して、不用なあるいは過度な感動恐れなどをもたないことが、精神の健全化にはよろしいですね。おっしゃるとおりだと思います。

回答No.3

質問者さんの感じるままでいいと思います。 天才だから全てが正しい訳ではありません。 本当に物事が分かるとはその奥に何かあると感じることです。 これが出来ないようでは天才と言われている人でも表面的な部分しか見えていないと言う事です。 学問でもスポーツでもその道を究めるとは終わりの無い探求です。 探求が終わればその人はそこまでです。 常にその奥にあるものを感じられる事が本質を見ようという事に繋がると思います。 感じられなければそこで終わりですから。 そういう点では質問者さんは本質を見ようとする能力があるのではないでしょうか?

garcon2000
質問者

お礼

探求、それこそが確信であるかもしれません。はっきり言って、答えはないんですね。流動的な確からしい事はあっても確信はおそらくない。だから探求に陥っていく。感じられることは大事だと思います。

回答No.2

天才でなくても、それは訓練で身に付くものだと思います。 上澄みしか知らないのでは、ご自身の中で世の中はその程度で 終わってしまうのかも知れません。 半ばまで色々なことに挑戦されてきたことは素晴らしいですが、 支えになる基軸を持たれて来なかったように感じます。 今はご自身の見つめて来られた人生を、 より深める時期に来ておられるのかも知れません。 自ら深みを知れば、自ずと軟弱な心をも許せるでしょう。 インドには四住期という考え方があります。 まず人は学ぶ時期を過ごし、次に家庭を築く。 そしてそこから引退し、更に自らを高める旅に出る・・。 それが素晴らしいとされる人生の在り方なのだそうです。

garcon2000
質問者

お礼

ありがとうございます。 たいしたことはありませんが、私なりにやってきた総括をして、ちょっと意識を明るくしたいです。春夏秋冬的なたとえは多少無理がありますが、そう考えるとなめらかです。

garcon2000
質問者

補足

回答者の皆様には後ほどお礼を書きます。

  • mi-dog
  • ベストアンサー率6% (92/1479)
回答No.1

ある程度の確かならいいと思います。 善悪の加減、強弱の加減もできるので。 でも、反面、出ることも出来ません。 臆病になるとも、 若造がすみません。

garcon2000
質問者

お礼

逆に、確信がもてるので臆病じゃなくなるんですよ。若いときは出る杭は何とかという心持がありましたが、それは結局物事に暗いからなんですよね。

関連するQ&A

  • 何見ても感動しない

    感動物の映画とか、恋愛バラードとか、他人の感動話とか、スポーツの名場面とか。 世の中には感動する場面って色々あると思うんですけど、私はそんなのに触れても全く感動しません。 結局「所詮、他人事じゃん…」ってどこかで冷めてる自分がいます。 人として終わってますか? どうしたらもう少し人間らしい感情を取り戻せますか?

  • 初めて感動したのはいつですか?

    皆さん、こんばんは。 書物や映画、家族のふとした言動に感動しては、涙したり考え込んだり思いを馳せたりしている昨今の私(当方38歳です)ですが、本日、何となしに"自分自身の初感動は、いつだったのだろう?"と思いまして… じっくり考えた結果、自身が記憶してる一番遠い過去の感動は、卒園式でした。 ♪い~つの~こと~だか~思い出してご~らぁん~♪ ↑ この歌です。 曲調と歌詞が心に沁みて、まだ5歳でしたが(いい歌だな~)と感じ、担任の先生や園長先生の涙の意味を、子供ながら(なりに?)理解したと記憶してます。 そのせいか、今もってこの歌は感慨深く、耳にする度感動してしまいます。 "私の初感動"をカテゴリー分けをしてしまいますと、 ・映画→E.T(小学高学年) ・スポーツ→プロ野球(後楽園球場:高1) ・書物→落合恵子さんの「白い女(ひと)」(母の薦めで高1の時) ・言葉→「どんな状況であっても、人を責めるような事を言ってはいけないよ」(これ又高1の時に母に言われました。ギクッとしたと同時に、母の思いやりの深さに感動したものです) 皆さんの"初感動"はいつ頃で、それはどんな事でしたか? 是非お教えくださいませ(^ー^)

  • 訓練の結果得られたものに対する感覚

    スポーツ芸能職能、いろいろな後天的技術というものがあります。これらを0から訓練して身につけて、それらが自分の中に植わった感覚というのは、どういうものでしょうか? 私自身も、スポーツ語学などそういうことは多少やっています。それらをやっていると思うのは 「よくもこんなことが自分の能力として体に(頭に)定着したもんだな」 というような、多少驚きと戸惑いを感じます。もちろんたいしたレヴェルじゃないにしても、何もしなければ0なのを、訓練で持って多少とも特殊技能の形として定着させたのは、なんらかの特別なことだと感じます。もちろんプロのすごいレヴェルから比べると取るに足りませんが、では、そのプロたちは自分のかな定着した能力について、どういう気持ちを持っているのかまた興味を持ちます。。畏怖でしょうか驚愕でしょうか不安でしょうか。 考えてみると、母国語をできるようになるとか、そういうのも特別なことなのですがね。それとは違って、努力して辛抱して、そして身につけた特殊技能というものにたいして、人はどう言う感覚を持っているのかということを知りたいと思いました。

  • 頑張らねばという気持ちが強く物事を楽しめない

    うまく言えないのですが…、「楽しむ」という感覚が分からなくなってしまい悩んでいます。 同僚に「どうせ仕事するなら楽しくやらなきゃ」と言われ目からウロコでした。仕事や勉強とは辛く厳しいもの、それに負けずに歯を食いしばって頑張るもので、それが自分の糧となり自信に繋がるのだと信じ、そういう気持ちを支えに今までやってきていました。 思えば遊びや飲み会、恋愛なども含めた一般的に「楽しいもの」についても心から楽しめた覚えがなく、常にどこか自分の「修行」として頑張らねばという感覚で臨んでしまいます(コミュニケーション能力の向上の為、ニーズに合った自分を演出する力を向上させる為等)。むしろこちらの方が頑張りに比例した結果になるとは限らず、仕事の何倍も疲れたりします。 やはりこんな自分は間違っていて、何事も楽しんでやれる人が最終的には良い結果も残せるし、周りにも好影響を与えられるのだと気づきした。 思えばどんなに頑張っても未だに自分を許せる自信を持つことが出来ず、自分が疲れるだけでなく、周りも疲れさせ、頑張ることが何の意義もないように思えて急に絶望的な気持ちになってしまいました。 しかし自分には頑張ることしか取り柄がなく、頑張らなくなったら何もしなくなってしまいそうでそれが恐怖です。「楽しむ」ということは頑張ってできることではなく、どうしたらいいのかがもう分かりません。 もともと頑張る原動力が、劣等感の強い脆弱な自分を克服しなくてはならないというネガティブなところから来ているからかもしれません。 ひとりよがりの意味不明な文で本当に申し訳ありません。 なんだか本当に自分に絶望して自分のことがよく分からなくなってしまいました。 こうしたら頑張らねば癖から抜けられる、こんなところが間違っている等、ちょっとでもアドバイス頂ける方がいらしたらありがたいです。 

  • 人間の特殊な能力

    人間はどこかに障害があると、他の器官が発達するらしいですが、(例えば、目が見えない人は耳の感覚が発達したり、脳に障害があり知的障害があるが、絵の才能があったり計算速度が異常に速かったり記憶力がすごかったり)このような特殊な能力みたいなものって他にどんなものがありますか? スポーツにおける身体能力がアップするってことはあるのでしょうか?走るのが速くなった、みたいなことは聞かないような気がするのですが。 また、このような特殊な能力みたいなもので、科学では説明できないような不思議な力ってあるのでしょうか?

  • 人間の力、潜在能力。

    人間の力、潜在能力。 人間の力について聞きたいです。マジシャンをしている者ですが、本番に弱く、アマチュアで経験が少ないのもあるかもしれないのですが、ある人に「手品だけじゃないけど、練習で100%できていても人間は本番じゃ?割の力しか出せないんだよ。だから練習で200%位の気持ちでやるといいよ」と言われました。?はわかりませんが(1)なぜどんなに長けている人でも本番では100%出すのが難しいのでしょう? ?が何割かご存知の方いらっしゃいませんか? (2)本番に強い人と弱い人がいますがなぜなのでしょう?性格が左右するのでしょうか?また、訓練や場数を踏めば慣れてくるものなのでしょうか? (3)なぜ人間の脳は4分の1くらいしか使えないのでしょう?なんだかせっかく大きいのにもったいないですよね? (4)誰しも潜在能力、つまり自分では気づいていない才能などがあるのでしょうか? 

  • 過去と未来を繋げない様にする方法。

    時々、テレビ等で天才の子どもの特集等がされている時があります。 そしてその子ども達の特集とともに、その様な子どもを育てている親の教育法等も一緒に報道されている事が多くあり、私が以前見た天才の子どもの親は「子どもの想像力を豊かにし、自分で自由にやらすこと。 成長を妨げる様な事はしない」と言っていました。 この様な番組を見るといつも「羨ましい。。。自分もこんな環境で当時出来てたら、自分の可能性を十分に高める事が出来ただろうに・・・」ともの凄く辛い気持ちになったり、悲しくなります。 その当時というのは、中学時代部活をしていた時の事です。 当時私は初心者でとある団体のスポーツを始めたのですが、そこで陰湿なイジメをされていました。 とてもじゃないがのびのびと自分の可能性を高め、能力を向上させるという状況ではありませんでした。 決して努力しなかった訳ではありません。 部活外ではほぼ毎日自主練習に励んでいましたし、それを知っている友人もいました。 しかしその部活ではほとんど何も出来ず、楽しいと思いながら練習できた事等なく、ただただ精神的苦痛に毎日耐えるばかりの毎日だった為、自分を成長させるという事は本当に出来ませんでした。 その苦痛な部活を引退した後は、また別のチームでそのスポーツを出来る所を見つけプレーしていたのですが、そこではのびのびと練習することが出来て、何の精神的苦痛等を感じず、楽しく思う様にプレーする事が出来ました。 もちろん能力自体も飛躍的に向上しました。 ただその中学以来、先ほどのような番組を見る度に「自分もこんないい環境で出来てたらな・・・自分の可能性を存分に高められてたらなぁ・・・」そんな事を思っては当時の事を思い出しもの凄く嫌な気持ち、辛い気持ちと同時に当時の人間達を非常に憎み、そしてそんな人間達がいる環境にいてしまった自分の運の悪さを悔やんでしまいます。 こんな事をしても過去は変わらない。それは分かってるんです。 でも当時の3年間があれば自分の人生はもっといい方向に行ってたのじゃないかと思わずにはいられないのです。 皆様もこんな経験ありませんか? もしある方は、私がその様なテレビを見て悔しく思ってしまうのと同じ様な体験をしても、どうやって過去を後悔せずに過ごす事が出来ていますか? 過去の憎んでも憎みきれない人間を思い出さずに過ごせていますか? 回答お待ちしております。  

  • 物事の進め方、日常生活の送り方が構築できない

    物事の進め方、大げさ言えば人生の生き方について悩んでいます。 自分の頭の中で思い描いた行動や、やらなければならない事を、 なかなか実行に移せません。例えば風呂に入らなくてはならない 時に、入るまでにいつまでも心の中で葛藤しています。 入りたいのだが、入るのが面倒くさい、という風にです。 何か勉強したりするときも、やらなくてはならないのに なかなか実行できません。 自分はとても怠け者で、実行力、行動力に欠ける人間だと 思えてきます。ネットなどで、どうすれば物事を実行に移 せるか、いろいろ調べて実践してみても、長続きしないか、 効果が出せずに他の方法へ移ってしまう、ということを くり返しています。 もっと強い人間にならなくてはいけない、と思い、スパルタ式に 自分で自分に命令を出して、鍛え上げるような方法をやっても、 そんな気合を長続きさせることはできず、失敗します。 逆に、出来ることから始めよう、という精神で、ゆっくりした ペースで始めると、最初はうまく行っても、だんだんと怠惰に なっていき、最後にはやらなくなってしまいます。 物事を進めるに当たって、目標を持とうと思い、達成した ときの良いイメージを描いたり、作業を細かく分割して、小さな 目標を1つずつクリアしてみる、なども試しました。 もっと楽しんでやらなければいけない、と思い、自己暗示を かけて、楽しいぞ、と思いながらやっても、なかなか思い通りに 楽しめません。逆に、やる前にアレコレ考えすぎないように やってみるとか、やる仕事の内容やボリュームと、自分の能力を 客観的・合理的に、科学的方法のように判定してからやる、など も試しました。 そんなに大げさに考えず、自然体でやってみるとか、自分のなかで オーバーに考え過ぎず、問題化させない、などという方法もやって みました。 いろいろ試した結果、こんなことでこんなに大きく悩むなんて、 神経質過ぎないか?とも思っています。 物事をやるに当たって、または日常生活を送るに当たっての、 一貫したやり方が構築できない、ということでしょうか。 他の人に、この悩みがどう映っているのかを知りたいと思い、 書いてみました。ここまで読んで下さった方、どのように思われ ますでしょうか。お願いします。

  • 物事を素直に感動できるようになりたい!!

    いつも、お世話になっています。 質問はタイトルの通りなのですが、私はあまり「きれい」とか「おいしい」とかの言葉が出てきません。 決して、おいしいと思ってないわけではないのですが、なんと言うか・・・クチに出すほどではないようなんです。 おもしろいことなどは普通に大笑いしてしまうので(笑い上戸だと言われたこともある)、無表情と言うほどではないとは思うのですが。 先日、好きな人と会ったとき、「桜でも見ていくか。キレイなとこがあんだよ」と言って、桜のキレイな道を車で通ってくれました。 キレイだとは思ったし、わざわざそういう道を通ってくれたのが嬉しかったので「ほんとだ。すごいキレイだね」と言いました。 でも、どこかで「(自分の言葉が)なんかわざとらしいなぁ」と思ってしまう自分がいるんです。 向こうは「すげーきれいだろ?桜好きなんだ」と言っていて(私も花見に行ったりもするので見るのは好き)、一緒に「きれいだね!」と素直に表現したい、もっと見せてもらって喜んでことを出したいのですが・・・。 夜景もよく「あっち、夜景がきれいだよ」と言ってくれるのですが、きっと向こうが「喜んでくれてるな」というほどの反応が出来ていない気がします。 この人は、食事も「うめー!」とクチに出す人で、私も「おいしいよね」と言うのですが、これもわざとらしく感じてしまうのです。 まずいと思っているわけではないのに、すぐに「おいしい」と言えません。これは心から思ってないから言えないのでしょうか? 友達でも素直にきれい!とかいえる子がいてとてもうらやましいです。 無理して嘘ついて感動したフリをしているわけではないのですが、もっとストレートに感情を表せるようになりたいです。 もし、心から思ってないから言葉が出ないというなら、どうしたら感受性が豊かになるのかアドバイスいただきたいと思います。 変な質問ですみません。 よろしくお願いします。

  • 本当にできる超能力

    私は、自分みたいな一般人でも、超能力が できるようになるのか?!と考え 皆さんの意見が聞きたいです。 1.どんな能力か? 2.練習法、訓練法。 3.そのほかの意見。 馬鹿馬鹿しいですが、お願いします!