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バタイユの眼球譚:エロス&タナトス

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.5

No.2,4です。 気になったのでもうちょっともぐってみました。 http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/reportdb.nsf/08b5ae3651e3f31649256cda00432165/053a1ffcf9fee97349256cda0047d5a2?OpenDocument <バタイユ自身が語る所によると、修道院で瞑想を続けていた際(バタイユはこの頃、神秘主義に傾倒していた)、神よりも偉大なるものの体験をしたからであるらしい。かれはこの後は強烈な「反キリスト者」となる。> <バタイユはその雑誌に寄せる論文の中で「聖なるもの」を探求する。 バタイユは客体事物が「聖なるもの」だとはしていない。むしろそれに面して人間の内奥から沸き起こってくるものを「聖なるもの」としている。 フロイトやニーチェに大きく影響を受けているバタイユはそれを、無意識の熱き大海、非理性的で非道徳的な快楽原則の領域、マグマのような人間の恐ろしげな闇、生の力(フォルス)、などと表している。それは不定形でつかみ所の無いパワーなのである。  バタイユはこの「聖なるもの」に無上の価値を与え、終生、これを追い求めつづける事となる。> <バタイユは、人間の真の目的は「企図」ではないとし、むしろそのような理性的行動を破壊する、純粋な贈与、戦争、遊戯、生殖目的の無いセックスこそが人間にとって価値のあるものとする。なぜならそのような「消尽」を通してこそ「企図」的な理性では捕らえきれない非合理的な領域、すなわち「聖なるもの」が人間に現れるからである。>   ↑ これは、子供、退職者、ホームレス、精神障害者こそ聖なる者に近くなる という神秘学と同じですね。 タロットでいけば、崖に足を踏み出しているのに全く気にせず進もうとする愚者のカードでしょうか。 <「無頭人」という言葉には二つの意味がある。一つはいわゆる組織の頭(かしら)を置かないということであり、もう一つは頭(あたま)に象徴される知性、理性、合理性を排除するということである。つまり、「企図」を切り離した「聖なるもの」による共同体なのである。> そういえば、新世紀エヴァンゲリオンの別フルバージンの最初の方で、石像の頭が取れて、赤い水に落ちる描写がありました。 <バタイユは共同体を構成する根本的権威として「悲劇的なもの」と「死」を置いた。 「悲劇的なもの」はニーチェの言う「ディオニソス的なもの」であり、それは苦痛と恐怖と共に恍惚と陶酔をもたらすものである。そして、それはまさしく「聖なるもの」なのである。一方、「死」は供儀、すなわち儀式的な死を指す。> そして ここですね。     ↓ <死は誰が体験するのであろうか。それは死にゆく私ではない。死にゆく者にもはや体験などありえないからだ。体験するのはむしろそれを見る者、すなわち供儀する者とそれを見物する者である。> そして <痙攣し、衰弱する者を見て、いわば死をシュミレートするのである。「死のシュミレーション」。この矛盾に満ちた行為はどのような結果をもたらすのか。まず、それは自己の純粋な贈与にたどり着く。自己の死、つまり存在の消滅においては「企図」の概念など成り立つはずが無い。そして「死を生きる」ことによる矛盾からの理性のズレによる「聖なるもの」のおとずれ、すなわち「至高性」の惹起である。そして理性(ロゴス)は消滅する。そしてロゴスによって立つ主体(私)が消滅するのである。> エヴァンゲリオンのシンジもそうでした。 自分が消滅した というか全てと一つになった。 日本神話のイザナミも、形が崩れましたよね。 エヴァンゲリオンのレイも形が崩壊してグロテスクなものになり、目がまだ融合していないシンジをギロリと睨んだ。 シンジは死にながら死を体験する。 <そこにおいて私は他者と繋がろうとしているのではない。主体の消滅により私が霧散し、他者との連続性が成り立ってしまっているのだ。>   ↑ シンジもどこからが自分でどこからが他人かわからなくなった。 ATフィールドが消えたので、自分と他人が連続している状態になったから。 <内的体験のうちで体験する自己の極限状態、恍惚と不安、希望と恐怖にさらされた時、バタイユは自らのその有りようを、災禍、愚行、犯罪において下劣であり、心優しくもあり、何よりもさまよっている人類そのものの象としてみたのである。>   ↑ おお まさしくエヴァゲリの世界! <「聖なるもの」の体験はロゴスを打ち破り、主体性を消失するものである。そして他者と一つになり連続性を打ち立てる。しかしそのためには他者がいないといけないのである。その点において「聖なるもの」の体験は本質的に他者に向けてのものであるのだ。しかし「聖なるもの」の体験は現れてはすぐに消え去り、私と他者は再び連続性に引き戻される。しかし、この連続性を欠いた者どうしが再び連続性を欲し、互いに共感を覚える事で友愛が生まれるのである。バタイユはこれを行う媒介として書物を重要視し、書物の中で幾度となく友愛への呼びかけを行っている。>   ↑ やっぱりエヴァゲリです。 で、バタイユの思想をエヴァゲリの世界と同一だとしたら、エロスとタナトスは同一。 対極するものではなく同一のもの。 同じところから出ている。 で、人間は、その究極のとろこにおらず、その間に常に座している。 生=死ーーー人間ーーー死=生 人の形が崩壊すると、究極に到達するが、それが終わりではなく人間の始まり。 じゃないかなー と思うんですけど。 本を読んでいないので、詳しい描写がわからず、違うかもしれないけど、自殺した人を見て欲情して性交するのは、バタイユは儀式としての性交を描いているんじゃないかと思います。 例えばダ・ビンチ・コードではイエスの血筋を受け継ぐ女性が登場し、祖父の儀式を見て(性交)、驚いてそれっきり祖父と疎遠になりましたよね。 それが儀式だと知らなかったから。 乱交だと思ったので、祖父を軽蔑して疎遠になってしまったが、祖父の死後 それは儀式だったと知ったわけです。 ということで、死の恐怖からリピドーが起こったという描写ではなく、生贄として殺される人を見守ることで、死を疑似体験し、至福に至るという古代の考えと同じじゃないかと。 自分を失う痛みと同時に自分は失ったが、他人と融合することで、今まで孤独だったものとおさらばして安心感を得られる みたいな。 で、それで終わりじゃなく、再び分裂が引き起こる。 その繰り返し。 シンジの母親はさびしいけど一人でも生きていく という道を選び、シンジは 一人じゃイヤだ と融合したのに、また分裂を引き起こした。 分裂を起こしたことで、自分の形を取り戻した。

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