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バタイユの眼球譚:エロス&タナトス

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.2

質問を読み終わって考えていると、あるメロディーが頭の中に流れ出しました。 そのタイトルは、 <Komm, susser Tod (甘き死を来たれ)> その曲は、新世紀エヴァンゲリオンの中で、確か、、、他者と生きることをシンジが決心したとき、リリス(レイ)が羽を広げ、球体が赤と緑の光線に覆われるって描写の時に流れていた曲だったと思うんですね。 シンジの場合、精神が衰弱して植物人間のような状態になったアスカの胸がはだけたのをみて、マスタベーションをしました。 一方的で独りよがりの快楽を味わったわけで、「俺は最低だ」ってシンジは思ったわけです。 あなたが書いた本は読んでいないのに言うのもなんなんですが、、、、 (「読んでもいないのによく言える」と前も別の質問の時に他の人から言われたんですけどね・・・苦笑) それでも読んでる人限定と書かれていないので、書かせていただきますと、、、、 あなたが言うには、その本の中で「それは精神的な痛みを伴う快楽である事をふたりはここで認めています。」となっているんですよね。 目の前にあるものと同質の必然的に避けようもない死を実感したので、死の拒絶からリピドーが二人に起こったんじゃないかと。 (違うかなぁ) お互いが、死する運命の生きものであるという共通の痛みを抱いたわけですよね。 ATフィールド(他者を隔てる心の壁のこと)が不要。だから交わることができる。 一方的が壁を作って拒否しているのに強引にやるのはレイプで融合とは違う。 >ここでバタイユは死を通して両極にエロスを表現してるんですけど エヴァンゲリオンのカオル君(終わり)に言わせると、生と死は同一なのだそうです。 ミサト(やはりエヴァゲリの登場人物)に言わせると、人は生と死の間にいる と。 調べてみたんですけど、この物語の眼球とはバタイユの父親のことだそうです。 淋病にかかり、バタイユが生まれたときは半身不随で盲目になっていたそうです。 >僕はバタイユはこのエロスとタナトスという両極の(binary opposition)間に性行為という表現を使いliminal space(リミナル・スペース)をつくり出したと思っています。 リミナリティーって人間の不確実さ とかいう意味でいいんでしょうか。 宗教では神は絶対ですよね。 人間のような不確実なものではなく絶対者と<人間>は定義している。 <息子>にとっても、<父親>は絶対者であって欲しいわけです。 その絶対者の父親が半身不随で盲目。 バタイユは生まれながらに指導者を持っていなかった。 人は、目からの情報に主に頼って現実を認識している。 直じゃなく、数多くのフィルターを通してしか、この世は触れることはできない。 父親を目で見ると、望まぬ姿。 でも、本当の父親は視覚からの情報ではなく、直に父親というコアに触れることで、父親がなんたるかがわかる、、、とかそいういう事を考えたのかなぁ・・・って思いました。 彼がはまった宗教では「父(神)は全能で、いつでも<見て>います」と言っていますから。 しかし同時に父(神)は不可知とも定義している。 神は不可智(不可視)、ならば目で見るのではなく触れてそれを知ろうとする みたいな。 実は彼の素性は↓から得ました。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0145.html <バタイユのエロスはロマン・ノワールではない。禁制を破り、おのれをその只中に拡張するところの、まさにアナキズムなのである。このことは、ほんとうにそうかなとおもうほど逆説めくのだが、バタイユはエロスから自由なんかは生まれないと考えている有罪者なのである。> エロスをリピドー(生きることを選択する とか 生の欲望)と置き換えてみたらどうでしょう。 <生きている限り自由は無い> ならば 甘き死よ来たれ? 死においてこそ 初めて人は自由になれる? なんでシンジは植物人間まがいになったアスカにやっと欲情できたんでしょうね。 生きているアスカは怖かった? 死んだアスカなら怖くない? しかし、勝者ではなく敗者だと思い知らされ、「俺って最低だ」と言う。 一字的な勝利感は偽物だと気づいたんでしょうか。 バタイユが欲しかったもの 自由=死 だったのかも。 それも憤死じゃなく 甘い死。 本人は最後まで気づかなかったかもしれませんが。 でも、先のリンクにありますように、死んでも自由は得られない みたいなことをことは「マダム・エドワルダ」で述べているようなんですね。 眼球譚は彼の処女作なので、処女作の時は、死こそ自分に自由を与えてくれると思っていたが、後に死んでも自由人になれないと考えを変えたみたいです。 といいますのも、リンク先の内容で娼婦だけが快楽を味わったって書いてありますよね。 私その箇所を見たとき、古代の神話の内容を思い出したんです。 古代 パレスチナとかそこいらあたりにあった風習。 地上に不作が起こると、王が生贄というか贖罪として殺されていたんですね。 民族の代表者である王は儀式で、紫の衣を着せられ、女神の地上の体現者の女たちと数日交わったあと、紫に衣を剥ぎ取られ、鞭で叩かれ、天と地に間に吊るされ、槍で刺される。 そして王の血が大地に流れ、女神の力の復活となる。 複数パターンはありますが、まあ こんな感じ。 女神が復活すると、大地が緑に覆われる。(豊穣) だから、生命の源=赤、豊穣=緑 なので、エヴァゲリで球体の表面を赤と緑のプラズマが走ったのかな~ って思いました。 で、王がもし女神を喜ばせなかったら、不作というか食べ物が取れないと思われ、王は精力を失ったとして新しい精力のある王に殺されていたんです。 これが息子が先王を殺すって話として残っています。(父親を殺す息子 って感じですね。) ただし、血のつながりはなくても、父とその息子って呼ばれていたんですね。 女神を喜ばすために王はせっせとがんばっているのに、精力が衰えた途端 殺されていた。 女神の体現者に擁護されている間は、民族の最高指導者という地位で、快楽で身を喜ばすことができるが、精力(勢力)が衰えると死でしたから。 ちなみに女神の体現者とされた巫女たちは神殿に住んでいたんですね。 で、神殿<娼婦>と呼ばれていた。 聖書にも神殿娼婦が誰でしたっけ? ラハブだったと思いますが、ヨシア(イエス)を助けて、彼らを勝利に導いたって書いてありますから。 ラハブは神殿の側に住む娼婦だったと聖書に書いてある。 いえいえ 神殿に住まう巫女だったのでしょう。 日本だと遊女の原型がそう。 人々は土地に縛られていたのに、彼らだけは自由人でどこでも行けたし、帝すら物言いができなかったし、帝と結婚もしていたし、帝が住む園に彼らは住んでもいた。 非人とは人以下の動物という意味じゃなく、神と人の間に座する仲介者みたいな意味、だった、が後にある制度が中国からやってきて、彼らの地位を落としてしまったんですね。 で、それ以降は娼婦として疎むように制度で決めてしまった。 イエスを生んだとされるマリアの概念も、神殿娼婦 つまり巫女というのを適用したから、イエスの死の淵にマリアがいて、イエスの復活の時もマリアがいたって話が作られたんじゃないかと。 (運命をつむぐ3人の女神 ってのが神話にあったとはず。) 話それてすいません。 で、 >実際、バタイユ自身は死と性(生)についてどう考えていたのでしょうか? http://club.pep.ne.jp/~faucon/bungaku/chronolo.htm 受容というか死を超越するため、神秘主義者となり研究していたが、<死の床の中でバタイユは「こんなもんさ」と語っていたという>。 せっせと昇華しようと努力していて、やっと死を得るときが来て、、、死ぬとはこんな感じなんだぁ とわかったのでしょうか。 <『内的体験』の中でバタイユは「結局、死への転落は汚らしいものだ」と書いていた。>とあるので、昇華に失敗したら死で、彼にとって死は是非避けたい転落として拒否する対象と考えていたんじゃないかと。 彼は正常かといえば、正常でもあるが狂気も内在しており、ハンニバルのレクター博士のように知能がとても高く(ハイデガーは彼のフランス一の知能を持つものと評価したそうです)、それゆえ悩む必要が無いと思える範囲まで悩まざるを得ず、父(神)を一生涯探していたんじゃないかと。 父の元にいけたら永遠の命を与えられ永遠の至福に至れる が、失敗すれば死 みたいな。 悪魔学をやる人も、悪の限りを尽くしたらもうその先は善しかない とか考えていたみたいですし。 サイコ系の分析家だとまた違う捕らえ方になるのかもしれませんが。 彼が現代に生きていたら、「新世紀エヴァンゲリオンを見てみたら?」って教えてあげたかも。 昇華し生まれ変わったシンジはみんなに「おめでとう」って言われるんですね。父を乗り越えたので。で、監督はそれで終わりではなく、魂は繰り返すってメッセージを出しています。 何度も魂は生まれ変わる。コアと合体したらそれで終わりじゃなく、その先はまた苦悩が始まる世界。 それが生きているということだと監督は言いたいんじゃないかと。 バタイユの場合、生は死を免れるまでの猶予期間で、どんなに努力しても、失敗者したら死を受け入れるしかないと考えていたんじゃないかと。 で、死は刑だと考えていたんじゃないかと。

ken-deleuz
質問者

お礼

kigurumiさんはじめまして。そしてお礼文が遅れてしまったこと、申し訳ありませんでした。 興味深い視点での回答、本当にありがとうございました。 以前からこのカテでkigurumiさんを見かけていました。kigurumiさんは神学にお詳しいんでしょうか。そこで少し質問があります。kigurumiさんの紹介して下さったURLでの引用です。 17歳のバタイユは入信して敬虔なカトリック教徒になったが、27歳のときはすっかり信仰を捨てた。バタイユは棄教者であり、背教者なのである。 バタイユはおそらくニーチェの影響で信仰を捨てたのかもしれません。この背教者になることのレッテル(罪?)みたいなものはあるのでしょうか。これは僕のまったくの興味からの質問ですので、全く勘違いな事を言っているのかもしれません。 エヴァンゲリオンは懐かしいですね。子供のころ見た記憶があります。当時の僕には意味がさっぱり(笑)でも今回のkigurumiさんの解説はとても興味深い物でした。これ以外にもkigurumiさんはエヴァンゲリオンの回答をなさっていますよね。拝見させていただきました。そこからのバタイユへの視点がとても面白いです。”生は死を免れるまでの猶予期間で、どんなに努力しても、失敗者したら死を受け入れるしかないと考えていたんじゃないかと”は説得力があり、参考になりました。 最近、僕は大学でちょっと前まで人気だった日本のアニメ『鋼の錬金術師』を分析してエッセイを提出したばかりです。※海外では人気がすごいんですよ。僕はファンタジーの勉強を今回していたんですけど、その時に選んだテクストがこのアニメだったんです。 バタイユに関して、僕ももっと文献を読まなければならないのでkigurumiさんの紹介されたURLは役に立ちます。 ありがとうございました

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