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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇)

長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇

suicyoの回答

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  • suicyo
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回答No.1

類似の質問が以前ありました。 http://oshiete.homes.jp/qa2740833.html ご質問の主眼が以前のものとは若干違うような気もしますが、私も回答しているので、いちおう紹介しておきますね。

buchi-dog
質問者

お礼

ご指摘有難うございます。 以前の質問について、質問文と回答3件を拝読いたしました。 質問文で「大広間下段の右側の列は越前宰相忠昌、毛利長門秀就、毛利宰相秀元、細川越中忠利、鍋島信濃勝茂・・・の順になっています」とあります。 石高を度外視すれば、毛利宰相秀元は、「関ヶ原の合戦以前に正三位参議の官位を得ている人であり、従四位下少将の秀就より官位が上です。正四位参議の松平忠昌よりさらに位階が上であり、参議叙任は遥かに前です。毛利家関係者は関ヶ原で「敗北した」あとも官位はそのままだったわけなので、席次をどうするか、幕府の担当者は頭を悩ませたでしょうね。

buchi-dog
質問者

補足

私なりに考えてみたのですが、「長府家三代綱元の長男の吉元が毛利宗家を継いで、毛利宗家が秀就流から秀元流に移った」事実があるのですね。吉元は徳川将軍家の吉宗(以後、将軍位は吉宗の子孫のみが継承)に当たる存在で、吉元の後の毛利宗家当主は全て吉元の子孫、もしくは吉元の曽祖父である秀元の子孫であるようです。 幕府としては、破格の厚遇をしていた長府家(毛利秀元の直系子孫)が毛利宗家を継いだことで「毛利宗家と長府家が合体した」と看做し、長府家への厚遇を段階的に廃したのでしょうか。 インターネットを調べますと、 「毛利宗家を継いだ吉元の長男の元朝は長府家を継ぎ、吉元の嗣子は元陳であったが、元陳が早世したので、長府藩主の元朝が毛利宗家の嗣子となって、吉元の弟の元矩が長府家を継いだ。但し、元朝は毛利宗家を継ぐ前に早世したので、結局吉元の六男の宗広が宗家を継いだ」 などと、「秀元系に移った毛利宗家」「秀元系が継承している長府家」「秀元の三男元知が初代の清末家」が錯綜して実に複雑ですね。 とりあえず、長府家の六代匡広以降は「毛利宗家(秀元流)の庶流」であることがはっきりしたので、石高相応の扱いになったと考えれば良いみたいです。

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