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長府毛利家
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html ↑こちらのサイトを見ると、長府毛利家は五万石の小藩で、しかも萩宗家の内分大名にも関わらず、四代藩主までは侍従や四品に叙任されていて、かなり優遇されているようです。しかし伺候席は柳間の様です。 どういった理由で官位だけが優遇されていたのでしょうか?
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長府毛利の初代秀元は、最初毛利輝元に男子がなく、小早川秀秋を秀吉から養子に押し付けられそうになったために小早川隆景が秀秋は自分の養子としてもらい、一族の中から秀元を輝元の養子としました。ただ、このときにもし輝元に実子ができたときには秀元は毛利家の家督は実子に返すという約束になっていました。 そのため秀元は毛利宗家の嫡子ということで秀吉政権下では参議になりましたが、その後輝元に実子の秀就がうまれたために嫡子の位置は降りましたが、関が原でも毛利軍の総大将でした。 その後、徳川政権になっても秀元は関が原の体験者(吉川に邪魔されて実戦には参加しませんでしたが。)ということで家光などからも一目置かれ、準国持大名として遇されたといわれています。 そのため宗元までは将軍の一字をもらい、官位も四品でしたが、宗元のあと直系が絶えたため(分家の清末から継ぐ)準国持ではなくなったようです。
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ご回答ありがとうございます。 確かに官位以外にも偏諱もされてますね。 大広間詰の准国持ちの家々ですら偏諱は賜っていないようですから、かなり優遇されていたのですね。流石に伺候席については、御三家連枝でもなく外様の五万石では大広間という訳にはいかなかったのでしょうね… 秀元は家光の御咄衆だったみたいですね。 確か弁当のおかずに鮭を持っていったとかいう逸話があった様な…