• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:宣統帝の退位)

宣統帝の退位について

このQ&Aのポイント
  • 宣統帝の退位について、袁世凱はなぜ「退位協定」のような柔弱な条件を出さなければならなかったのでしょうか?
  • 馮玉祥と袁世凱の間には何らかのつながりがあったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

”柔弱な”条件 清が完全に打倒されていない状況だったことにつきます。 日本の幕末において、大政奉還の段階では、慶喜は、将軍職を離れても、最大の大名である徳川家の当主であった事(結局は、打倒が必要という薩長に打倒されましたが)と同様な構造だと思います。 袁世凱自体は、民国側に権力基盤が無く、清国政府内に権力基盤(手下達)がありましたので、清国を根こそぎにする事ができなかったことがあります。清国を根こそぎにすると、自分の手下の権限が無くなり、対民国側への発言力が無くなります。 皇帝を飾り物にして、旧清国の権力を継承することが袁世凱の戦略となります。 馮玉祥と袁世凱の関係というと、軍閥の親分は、袁世凱が清国の体制の中で作り上げた軍隊の中で育ちましたので、元部下となります。 日本史で言えば、袁世凱が織田信長で、馮玉祥達が、秀吉や勝家という感じです。袁世凱も最後は天下取りに失敗(=皇帝を名乗ったが、反発され失敗)中国版秀吉が出てこず、グダグダになったという感じでしょうか。

soramist
質問者

お礼

的確なご回答有難うございました。

関連するQ&A