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遣隋使はあったのですか。

日本書紀に小野妹子は大唐国に行ったと書いてあります。遣唐使があったというのは判りますが、遣隋使があったという根拠が判りません。本当に遣隋使はあったのですか。 『隋書』に「開皇二十年倭(*)王姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩倭彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」 とあります。 でも、日本の天皇に、阿毎、字は多利思比孤、阿輩倭弥と号づく、なんて尊王はしゃらしゃらなかったのでないでしょうか。あるいは、私の知らない他の書物にそのような天皇のお名前が出ているのですか。 また『隋書』の「東夷傳倭國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とありますが、それと日本の天皇との関係が判りません。私が高校時代に教わった教科書によると、それを送ったのは日本の天皇だと書いてあっただけですが、「東夷傳倭國傳」の文面からはそうだとは確証できません。 一豪族が派遣しても遣隋使と言うのでしょうか。だったら、もっと前に中国に派遣されていた外交団があったのではないでしょうか。あるいは、中国人には天皇の本当の名前を言わなかった(あるいは隠していた)とでもいうのでしょうか。昔の人達が今の人達の違って合理的でなかったとは思えません。 実際に書いてある物を否定するには余程の根拠があると思うのですが、その根拠とは何ですか。誰か偉い方が遣隋使があったと言ったからというような根拠ではなく、実証的に教えて下さい。 (注)「倭」に当たる*の正文字は「教えて!goo」になし。

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  • buchi-dog
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回答No.4

「古田武彦氏の問題提起以降、何か進展があったのですか」 というご質問については、 九州王朝説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC に 「歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいないこと、考古学の資料分析の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとみなしており[29]、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、現在では主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されることなく無視されている。 その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれ、現在も研究がなされている」 という説明で正しいと考えます。 歴史に敏感な高校生であれば「タリシホコ」とか「倭の五王の比定」を習って「何だそりゃ?」と感じるはずです。日本書紀の記述と整合させるために滅茶苦茶なこじ付けをしている、としか思えません。私も、九州王朝説は「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と考えています。 ただ、古田氏の問題提起をさらに深めていく学者は今の所存在せず、古田氏の著書も絶版になり、いずれは九州王朝説は忘れられてしまい、高校生が「タリシホコ?倭の五王?」と首を捻る状況がずっと続いてしまうのか、と思うと残念です。

cyototu
質問者

お礼

私は理学系の研究生活を続けている者ですが、この分野には二通りあり、直接役に立つ工学系に近いテーマを選んだ人達は、どちらかと言うと皆の評判を気にするようです。もう一方の、私のようにはじめから工学的にはすぐ役に立たないテーマをやっている連中は、学会でどういう評判が立つか気にしない者が多いようです。  不思議なことに、理学系では役に立たないことをやっている連中ほど威張っているようで、例えば一番役に立たない宇宙論をやっている人達が、「どうだ!」という顔をしているようです。 歴史学や考古学では「我が道を行く」で生き残るのが大変なようですね。 この問題に関しての最近の動向を知ったことは貴重でした。有り難うございます。今後とも宜しくお願い致します。

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回答No.3

「随倭国伝」では、大業4年(607年の第3回目遣隋使の翌年) 随の煬帝は小野妹子と共に使臣「斐 世清」を倭国に派遣している。 「日本書紀」にも両者が九州・筑紫に到着したと有る。 ここに2ヶ月滞在してから、倭王は 小徳阿輩台に従者百名を引率させて 使者を難波に案内し、10日後には大礼哥多昆が20騎で倭国の 首都大和に案内し倭王に相見させている。 隋書・記紀にも、何故か倭王の名も、女帝か男帝かの記録もない。 斐 世清が九州・筑紫に2ヶ月も滞在したのに、大和には1週間位しか 居なかったのも不思議である。 斐 世清は”阿蘇山”について詳細に報告し、倭国には「如意宝珠」があり、 夜青白い光彩を放つ。鶏卵大で魚の眼精だと言っている。(詳細不明) また、新羅・百済が倭国は大国で敬仰しており、珍物が多いので頻繁に 往来していると伝えている。 それは、地理的に見て島伝いに海を渡ればすぐ到着できる 北九州王朝の事だと見ている。 斐 世清の主たる目的は九州王朝の多利思比弧に面会するためであったのだろう。難波、大和はついでに訪れた。 旧唐書・(607~907年)の歴史書に因ると、 北九州には倭国の王朝があり、奈良には大和王朝の日本国があり、 完全に別個の国として存立していると言っている。 その後、倭国伝と日本伝の両者が記録されている。 ”日本国は倭国の別種なり”と、書いている。 ついでに、 「白村ノ江(ハクスキノエ)の合戦」(660年代) 三国史記によると、新羅・唐混合軍の百済侵略を救援するため倭国が 2万7千余名の軍隊と170艘の軍船を送って、錦江河口の白村ノ江で交戦し、殆ど全滅した。 恐らく、南鮮の倭人と北九州王朝派遣の連合軍と思われるが、       天智10年(671年)唐が捕虜2千人と軍船47隻を北九州に送還している。 捕虜の中に「筑紫の君・薩野馬」(→九州王朝の最後の倭王らしい)がいた。 総指揮官・筑紫の君・薩野馬が捕虜になり大敗したため、 北九州王朝は勢力を失い、大和朝廷に完全に併合された。 為に、「日本書紀」(大和朝廷の歴史書)には全滅の状況や援軍指揮官や 捕虜の事は殆ど記載していない。 「日本書紀」には、白村ノ江の合戦の援軍は大和朝廷が派遣したように 書いてあるが、全滅の状況や援軍指揮官や捕虜の事は殆ど記載していない。 実際は北九州王朝が派遣したもので、もし大和朝廷が派遣したもので有れば、大敗の状況から見て大和朝廷も天智天皇も平穏無事では居られなかっただろう。そして、 670年天智天皇(第38代)9年に「日本国」と定めた。 ”倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す”(旧唐書) ”倭国更めて日本と号す、自ら言う日出ずる処に近し”  (三国史記) 近畿天皇家の大和朝廷は北九州王朝の支派の一つであったが、 その後に勢力を増大した大和朝廷は、白村ノ江の合戦で勢力を失った 北九州の倭国を併合して、 倭国・倭人という馬鹿にされた名前から「日本国」という美称に改名した。

cyototu
質問者

お礼

大変詳しいご説明、有り難うございます。昔教科書で習ったのとは随分違った説明で、いろいろ勉強になっています。今後も宜しくお願い致します。

  • Antithese
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回答No.2

 隋書に記述がある以上、遣隋使があったのは間違いないでしょう。日本書紀は第一回遣隋使よりも100年以上(?)後になって編纂された(らしい)書物ですから、隋を唐と間違えて記述することもあり得たのでは? >倭(*)王姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩倭彌  「倭王」はそのまま倭の国の王という意味。  「阿毎 字多利思比孤」は、当時の日本での倭王、つまり後に言う天皇の称号だったのではないかと言われています。  そして「阿輩倭彌」は「倭彌」が王の妻の称号だったことから、皇后(もしくは女帝)という意味合いで使われていたのではないかと思われます。  つまり推古天皇のことでしょう。  日本の使者は日本の王「天皇」の使いと伝えたところ、中国側が「天皇」という名前の日本の王の使いだと勘違いして記録したのではないでしょうか。

cyototu
質問者

お礼

早速のアドバイス有り難うございます。私の質問の仕方に不備なところがあったので、その旨を#1さんへの補足質問に書き加えておきました。今後とも宜しくお願い致します。

  • buchi-dog
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回答No.1

質問者様の疑問に対する正面からの答が、古田武彦氏の「九州王朝説」ですね。大陸から「倭」と呼ばれて日本列島を代表する政権と看做されていたのは、大和王朝に吸収されて滅びた九州王朝であり、隋に使節を送ったのも九州王朝であると。 「失われた九州王朝」という本に詳述してありますので、古本か図書館で探して下さい。

cyototu
質問者

お礼

有り難うございました。

cyototu
質問者

補足

懐かしい名前を思い出させて下さいました。私は多分20年以上?前に古田武彦の「邪馬台国はなかった」を読んでいます。上の私の質問に不完全なところがありましたので、お詫びを申し上げます。 上の疑問はそのとき以来強烈な印象が残り、その後、遣隋使のことに触れた物を読む度に不満を感じていました。でも,この質問を書いたときにはその疑問がどこから来たのか,はっきりとは意識していませんでした。「教えて!goo 」なら、このもやもやをすっきりさてくれると思ったのです。 私は分野の違った領域で研究生活を続けておりますが、その経験で「適切な質問をする方が、適切な回答をするよりも難しく、かつ重要である」ということは、重々承知していたつもりでしたが、上の質問ではその部分を蔑ろにしていたようです。お恥ずかしい次第です。 そこで質問ですが、古田武彦氏の問題提起以降、何か進展があったのですか。始めから、このように聞くべきだったのですが、もしなにか情報をご存知なら、お教え下さい。

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