• 締切済み

遣隋使1号は607年??

朝日新聞11月10日(土)文化欄に; 「遣隋使1号は600年?607年?」という記事が掲載されていました。 600年の隋書の記録が日本書紀には記載されていない、というのはその通りだと思いますが、それでは、607年に遣隋使1号というのは日本書紀に記載されているのでしょうか? 日本書紀には、(推古天皇15年)大礼小野臣妹子を大唐に遣わす、というのが初めての遣使記事であって、「遣隋使」とは書いてありません。なぜこの記事が「遣唐使」ではなくて「遣隋使」の記事となるのか理解できません。 推古天皇の15年が607年であるという確証でもあるのでしょうか?当時はまだ中国風の暦は使われていなかったはずですが。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数4

みんなの回答

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.3

推古15年は隋の時代ですから、遣隋使です。 推古8年の遣隋使は大国隋に対する、外交交渉の瀬踏みのような小規模のもので、日本でもたいした期待をかけず、隋からの返使も来なかったので、日本書紀では書かれなかったのは不思議ではありません。 推古15年の小野妹子が初の正使になります。

ringouri
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 『日本書紀』の年表(紀年)上は「推古15年は隋の時代」だから「遣隋使」というのは、常識的には、そうなのですが、何故『日本書紀』には「遣隋使」ではなくて「遣唐使」となっているのか?というのが質問の趣旨だったのですが。つまり、この時代の『日本書紀』の紀年(推古15年=607年:隋の時代)は信じられるのか?という疑問でした。

  • rabbit_cat
  • ベストアンサー率40% (829/2062)
回答No.2

>推古天皇の15年が607年であるという確証でもあるのでしょうか? もちろんあります。 単純に、確証がある年から、日本書紀に書いてある年だけさかのぼってけばいいだけです。

ringouri
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 「単純に、確証がある年から、日本書紀に書いてある年だけさかのぼってけばいいだけ」ですと、『日本書紀』の紀年(年表)をそのまま信じることになり、歴史学としての批判精神がまるで感じられない、という疑問から生じた質問でした。 何故『日本書紀』は607年「遣隋使」のはずのものを「遣唐使」と書いているのか?というのが質問の趣旨です。 「隋を唐と間違えた」という理解であれば、おっしゃる通りですが、またもう一つの立場である「年表が間違っているのでは?」という仮説も考えられると思い、「推古15年=607年の確証は?」と質問致しました。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

今までの常識では小野妹子の遣隋使が最初とされていましたが、どうも600年が最初なのではないかという説が浮上していますね。その根拠が607年以前に隋から日本へ使節が遣わされ、その歓迎に隋が定める正規の軍楽隊が演奏したという記述が中国で見つかったというのですね。  中国では臣従を申し出た国の使節に対しては軍楽隊を下賜するのが例で、日本もそれ以前に使節を遣わしていなければ正規の軍楽隊を組織できる筈がないというのがその根拠になっているようです。  それがに日本書紀に書かれなかったのは日本が中国に臣従する旨の言明をしたからで、これは聖徳太子の意に背くことになるので、無視することにしたというのです。  いずれにせよ、専門家によってそのが真否が明らかにされるのはそう遠い未来でははないでしょう。中国にはちゃんとその文献が残っているのですからね。

ringouri
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 質問の趣旨は、『日本書紀』の「遣唐使」(有名な小野妹子派遣:推古15年 = 607年:唐ではなく隋の時代)が何故「遣隋使」と理解されているのか?、推古15年=607年の確実な根拠は何か?というものでした。 また、中国の文献を読むと、『旧唐書』などでは、「倭」と「日本」と2つの国の記述があり、素直に読めば、日本列島側に別の二国があったようです。『日本書紀』は「日本国」の公的歴史書です。『古事記』に「倭」とある部分は殆どすべて「日本」に書き換えられています。したがって、中国の文献を読めば、そのままうまく理解できるような状況でもないような気がします。 つまり、「倭」、「日本」、「隋」、「唐」など当時の国家間の関係は、通常理解されているよりも、もっと複雑だったのではないか?、という疑問から生じた質問でした。 よろしくお願い致します。

関連するQ&A

  • 遣隋使はあったのですか。

    日本書紀に小野妹子は大唐国に行ったと書いてあります。遣唐使があったというのは判りますが、遣隋使があったという根拠が判りません。本当に遣隋使はあったのですか。 『隋書』に「開皇二十年倭(*)王姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩倭彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」 とあります。 でも、日本の天皇に、阿毎、字は多利思比孤、阿輩倭弥と号づく、なんて尊王はしゃらしゃらなかったのでないでしょうか。あるいは、私の知らない他の書物にそのような天皇のお名前が出ているのですか。 また『隋書』の「東夷傳倭國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とありますが、それと日本の天皇との関係が判りません。私が高校時代に教わった教科書によると、それを送ったのは日本の天皇だと書いてあっただけですが、「東夷傳倭國傳」の文面からはそうだとは確証できません。 一豪族が派遣しても遣隋使と言うのでしょうか。だったら、もっと前に中国に派遣されていた外交団があったのではないでしょうか。あるいは、中国人には天皇の本当の名前を言わなかった(あるいは隠していた)とでもいうのでしょうか。昔の人達が今の人達の違って合理的でなかったとは思えません。 実際に書いてある物を否定するには余程の根拠があると思うのですが、その根拠とは何ですか。誰か偉い方が遣隋使があったと言ったからというような根拠ではなく、実証的に教えて下さい。 (注)「倭」に当たる*の正文字は「教えて!goo」になし。

  • 遣隋使

    どうやら第1回目600年は日本書紀に記載なく、おまけに日本初の女帝には妻がいたとか隋書に記載されているようです。 隋書と日本書紀を比べて研究しているような本はあるのでしょうか? また、私見等お持ちの方お教えください。

  • 遣隋使、小野妹子が国書を煬帝に渡した都市は。

    607年(推古15年) 第2回遣隋使、小野妹子らは、「日出処の天子……」の国書を持参しました。 この国書を煬帝に渡した都は洛陽ですか、それとも長安ですか。 Webではどちらの説もありますので、お手数ですがWeb以外で教えていただきたいと思います。 よろしくお願いします。

  • 遣隋使の帰国方法

    遣隋使の小野妹子とともに中国へ渡った恵隠という僧は、新羅を経て帰国したそうですが、当時の新羅には、日本への定期便などは無かったでしょうから、一体、どのようにして、日本へ渡る船を確保したと思われるでしょうか?

  • 小野妹子はなぜ有名なのか

    小野妹子は使者として隋に行ったとして有名ですが、もし妹子が日本の全権大使みたいだったとしても、隋や唐には何回も遣唐使や遣隋使を送ってるので大使はいっぱいいたし、隋に行った人は南淵請安などたくさんいたし、日いずる国~の書にしても書いたのは聖徳太子で妹子は持ってっただけだし・・・妹子が特に何をしたという人ではないのになぜ教科書に載るほどなんですか?

  • 遣隋使の国書

    小野妹子は隋の煬帝からもらった国書を無くしてしまったと日本書紀にはあります。 しかしそれが本当なら小野妹子は何らかの処罰を受けそうなものですが、そのような事は何も書かれてありません。 そうすると実際は「無くした事になっている」というのが真相ではないかと思われます。 その場合 1.もともと国書はもらえなかったので存在していない。 2.国書はもらったが内容に問題があったか何かの理由で存在が抹消されている。 というような事が考えられます。 煬帝は「日出ずる処の天子…」という日本側の国書に激怒して、以後日本の使者は拒否すると宣言したはずなのに、返書を渡すというのは矛盾してるので1の方が可能性高い気がしますが、皆さんはどのように思われますか?

  • 西暦600年当時の天皇(中国では倭王)は男か女か

    西暦600年当時の天皇(中国でいう「倭王」)は、日本書紀では女子(推古天皇)ですが、隋書(倭国伝)ではどうやら男子のようです。 どちらが正しいのでしょうか。

  • 遣隋使の国書の表現について

    NHK高校講座で、遣隋使小野妹子が隋の皇帝煬帝に持参した「国書」の内容が、紹介されています。書き出しの部分だと思うのですが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と。 https://www2.nhk.or.jp/kokokoza/watch/?das_id=D0022120044_00000 この書に対して、隋の皇帝煬帝は不快感をあらわにしたということらしいのです。 素人考えですが、たとえば、隋の皇帝と日本の天皇が対等の立場であったとしても、こんな国書を受ければ、隋の皇帝煬帝でなくても怒るだろうと……。この書き出しは、外交文書として極めて失礼な印象を受けます。 教えてほしいのですが、この書き出しには日本側に何か意図があったのでしょうか???まさか「隋を挑発する」というような意図はなかったと思うのですが。それとも「特段失礼な書き出しでもない。」ということでしょうか???それとも当時の日本はまだ外交に疎かったということなのか???

  • 日本書紀の『呉国』とは?

    日本書紀の『呉国』とは? 自称歴史家です。 日本書紀の卷第十一大鷦鷯天皇(仁徳天皇)に、 「五十八年・・冬十月呉國高麗國並朝貢」(仁徳58年10月、呉國の使人と高麗國の使人が並立して天皇に朝貢した)とあります。 日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、 「六年・・夏四月呉國遣使貢獻」(雄略6年4月、呉國が使人を遣わして天皇に貢物を献上した)とあります。 日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、 「十四年・・三月命臣連迎呉使即安置呉人於桧隈野因名呉原」(雄略14年3月、臣連に命じて呉國からの使人を迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉坂と名付けた。)とあります。 日本書紀卷第廿二豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)に、 「十七年夏四月・・百濟僧十人俗人七十五人・・泊于肥後國葦北津・・曰百濟王命以遣於呉國其國有亂不入更返於本郷忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境」(推古17年4月、百濟僧十人ら合計85人の舟が肥後國の葦北津に入港して、「私達は百済王の命を受けて呉國へ行ったところ、呉國は戦乱状態で入国することが出来ず、帰国しようとしたが途中、暴風に逢って漂流し天皇の御国に流れ着きました・・)とあります。 中国の正史(宋書など)によれば仁徳天皇と雄略天皇は5世紀の時代の天皇です。また推古天皇は、日本書紀によれば593年から628年の時代に在位した天皇です。しかし、これらの時代、歴史の地図や年表を調べても、中国大陸にも朝鮮半島にも『呉』という名の国は存在しません。 ※三国時代の「呉」は3世紀(280年)に晋(魏の後身)に滅ぼされたので、仁徳天皇、雄略天皇、推古天皇の時代には存在しません。 日本書紀でいう『呉國』(呉国)とは何を指すのでしょうか?ご存じの方、教えて下さい。

  • 遣隋使 煬帝が裴世清を日本に派遣した理由

    遣隋使 小野妹子が持参した国書に煬帝が激怒したものの、裴世清を日本に派遣してますよね。理由は隋が高句麗との戦争を控えていたからということです。私が知りたいのは、高句麗と隋がどこにあったかということなんです。学校の図説とか調べても唐の時代の東アジア地図は載っていますが、隋の時代のものがありません。↑の時代の地図をみて確認したいのです。どなたかサイトなどで地図があれば教えてください。お願いします。