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遣隋使、小野妹子が国書を煬帝に渡した都市は。

607年(推古15年) 第2回遣隋使、小野妹子らは、「日出処の天子……」の国書を持参しました。 この国書を煬帝に渡した都は洛陽ですか、それとも長安ですか。 Webではどちらの説もありますので、お手数ですがWeb以外で教えていただきたいと思います。 よろしくお願いします。

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  • isa-98
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回答No.1

まあ、中国がこう言っているのだから仕方が無い事で。 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/24rakuyou/24rakuyou.htm >Webではどちらの説もありますので、 覆したいなら中国へ飛ぶ。 研究したいなら図書館で隋書などを借りる。

goo-par1732
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 中国は、「洛陽」と言っているのですか。 日本は「蛮夷の国」であるから、首都・長安で会うほどのことではない、ということでしょうか。 遣隋使が「何という名の宮殿の、何の間」で、どんな礼儀(跪坐?)で皇帝に会ったのだろうかと想像して、長安(大興城)の都を調べ始めたのですが、まず、どこの都市で会ったのだろうかと疑問をもち、質問しました。 「研究」にはほど遠い、単なる興味本位の質問ですが、質問すればいろんなことを教えて頂けるので喜んでいます。

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