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偶然性についてわからない

どうも、ときどき単なる偶然とは思えないことがあります。 たとえば今日(昨日)友人とある職業訓練施設について話をしていて、それに入るために世話になった人とか入ってから世話になった人とかの話をしていました。で、分かれてから一人でちょっと外食しようとして、いつもの帰りのルートより回り道をして買える途中、その施設で世話になった人に偶然会ったのです。そこにくる必然性はあえて何もない人です。なんとなくぶらぶら外食でもしようとしていたそうです。で、考えてみると、友人と話しているときに度忘れしていたというか、うっかり話題に出さなかったひとで、あたかも、「俺を忘れてるんじゃないだろうな」と言いたいために遭遇したという風にも思えました。 こういう偶然性はどう説明されるんでしょうか?

みんなの回答

  • e-toshi54
  • ベストアンサー率22% (728/3265)
回答No.3

昨日と今日、全く別の場所で同じクルマの後につきました。覚え易いナンバーだったし、くるまの車種も同じだったので間違えありません。最近自分に起こった最大の偶然です。 でも、”へ~珍しいこともあるもんだ”と思っただけです。 そういう偶然をどう思おうとそれはそのひとの自由、勝手であり、性癖、趣味の範囲だと思います。 どうぞご自由に・・・。

noname#41852
質問者

お礼

そうですか!すばらしいというか困ったというか、釈然としませんね。説明がないということがだめなところです。あるはずないのに。 ありえませんよ。こまりました。

noname#38363
noname#38363
回答No.2

こういうことは誰にでもありますね~。 いわゆるシンクロニシティ(共時性)というやつですね(オカルトではありません^^) すべての人は本当は繋がっているのでなにか自分にとって真実(若しくは学び、気づき)な瞬間、それが、今は科学では解明されていない関係性の仲を伝播する、みたいなものでしょうか。 (他人や他人の現実の時間を共に有する、名前のとおりですね) 人間は電磁的なで常に互いに共振しあっているので、考えてみれば不思議なこともなにもないのかもしれません。 信じてもらえないかもしれませんが、 このシンクロニシティと同じ現象として、いっとき家で物が移動したり あるはずのないものがある日そこにあったりという、超常現象的なことも起こった経験があります。それもシンクロニシティなんだそうです。 原子の周りを電子が回る(というか確率的に存在する)エネルギーも解明されていない現在の科学ではこういうことは単なる偶然と片付けられるのでしょうが、私はある種思考のエネルギーの存在を感じずにはいられませんでした。 ニューエイジ的にみればシンクロニシティが起こるのは 精神が今までの枠を超えて広がったり、自分に対する思惟が深まったりしたときですのでとても良いことではないかと^^

noname#41852
質問者

お礼

人知の及ばざることが「ある」と言い切ることが一般にできないでいますよね。その踏ん切りの悪さがいつまでもこういうおもいをのこすんですよね。もちろん、人知及ばざるところということから自動的に歯切れが悪くなるわけです。

  • djmitsu
  • ベストアンサー率25% (43/170)
回答No.1

私の考え方ですので気にする必要はまったくありませんが面白い質問でしたので投稿させていただきます。 確かにこの例は考え方によっては偶然にしてはできすぎた偶然な気がしますね。だからといってこの偶然が何らかの力によって故意に生み出されたと言うこともできないと考えます。 無数の人が住むこの地球上で噂をしていた人がいきなり目の前に現れる確立・・・数値化はできませんが限りなくゼロに近いはずです。しかしゼロではありませんよね。ゼロで無い限り起こり「得る」のです。 意識や何らかの導きや力無しには起こり「得ない」ことが起きた場合には何故それが起こり得たのか理由を考えなければなりませんが、可能性を探っていくうちに可能性がゼロではないことに気づいた場合それを議論することはナンセンスではないでしょうか。 確かにこの手の偶然を体験することは稀かもしれませんが、同時にその偶然がどこかで起こり得るだけの人間と機会が無数に存在しているのならばそれがわが身に起こっても不思議ではない。ならばそのことをとやかく考えても仕方ないのではないのだろうか。というのが私の考えです。 とはいうもののオカルト要素を含めて考えてしまうとこの考えは崩壊しますよね。そういう一般人には見えない力を抜かして、の考えです。

noname#41852
質問者

お礼

ご丁寧にご回答くださり、ありがとうございます。 限りなく0に近いこと、極限値はしかし0ではないという事実。それがなんら中の作用で起こってしまう。何かあると感じざるを得ません。しかし、0であることと限りなく0に近いが0でないということと、確かに差異はあるのですが、0でないというだけでそれが起こることも、また容認できないことです。 たとえば、私が人とそういう話題で会話するということは、一年のうちに一回くらいしかないです。その日にそういうことが起こった。もちろんよく道端で人と人とが偶然会って「まぁ!」ということは、傍目にもよくあります。これがあることさえ実は結構容認しがたいのですが、そんな意識を持ち上げた日に、なぜさらに容認しがたい確率が起こりえたのか?これは天文学的どころの話でないでしょうね。 これは割り切って次のように考えるしかないでしょう。 私には予知能力があった。無意識の深部であそこの店に行くとあの人に会うということがわかっていた(もちろん意識には微塵もあがってません)

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