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なぜ人の命は重いのですか?

そういう建前がないと社会が立ち行かないからですか?

みんなの回答

  • rai317
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.15

あなたは、今、世界を認識していますよね。 その中に、あなた自身を感じますよね。 その貴方と、それを見ている貴方は確実に存在します。 (今、貴方が見て、そして見られています。) その貴方は、諸々の因果関係、自然、から完全に独立した、当に理性的存在者です。 そんな、理性的存在者を殺せないですよね。

  • tryouts
  • ベストアンサー率31% (126/404)
回答No.14

キリスト教の概念によるものです。 日本古来の神道や仏教などと違って、キリスト教では人間中心主義であり、神は人間のためにこの世界を作ったと考えています。 つまり他の生命への考え方が、大きく異なっているのです。 (仏教では生命は同等と考え、キリスト教では人間は他の動物の管理者と考えています。) 現在世界で主流となっている考え方は、キリスト教に基づく社会観です。 (常任理事国の5ヶ国中4ヶ国、先進7ヶ国G7では日本以外の6ヶ国がキリスト教の国。) 憲法で謳っている人権や平等も、発症の地である西欧のキリスト教の概念をベースにしたものです。 法の下の平等(日本) 神の前での平等(米国) 憲法でさえも上のように記載されています。 人間の命が重い理由は、聖書に自分を愛し、隣人を愛せよと記載されているからです。 自分を愛し→自殺することは罪 隣人を愛せよ→他者の権利と命を認める 日本の憲法や法律は欧米から移植されたもので、根底にキリスト教の精神が含まれています。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.13

とりかえられないからです。

  • hirosi3
  • ベストアンサー率50% (72/143)
回答No.12

>なぜ人の命は重いのですか? そういう建前がないと社会が立ち行かないからですか?  それぞれの立場の人が「人の命は重い」だから「○○である」「だから○○すべきである」と利用しているだけです。  「人の命は重い。だから、その重い人の命を奪う殺人犯は極刑・死刑を適用すべきだ」とか、「人の命は重い。だから、たとえ国家と言えども、ひとの命を奪う死刑は許されない」と両側の人が自分の主張のために勝手に利用しています。  教育界でも、「人の命は重い。だから人を殺してはいけない」、とか、「人の命は重い。だから自殺してはいけない」と教えています。でもなぜ「人の命は重い」のかは説明できないでしょう。  生物学・進化論・遺伝子論では少し違います。  「遺伝子は個の生存よりも、種の繁栄を優先させるように、メッセージが組み込まれている」とのリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子(THE SELFISH GENE) 』が支持されています。  危機にあったとき、母親が身を挺してこどもの命を救うのは、利他主義ではなく、個の命を犠牲にしても種の繁栄を優先させようとのことだ、というのが論旨です。そして、その考えは「自然界に福祉主義・人道主義はない」との考えになります。

noname#80187
noname#80187
回答No.11

なぜ?命は重いのか? 理由はありません。 そう思う人がいるから。理由なんてただのたわ事です。 命が散る、失う、消えていくのを見て、悲痛を感じる人がいるからです。もしくは、そう思い込んでいる人がいる。 それに後は、理由をつけているだけ。 何も食べなければ腹が減る。 疲れていたら、眠くなる。 これに理由はなく、そういうものだからです。 命の重みは、個人差があります。個人の中にも体調や価値観、経験で変わってきます。絶対と言えるような共通性が無い故に、理由によって確証を人を得ようとしますが、どんな理由であれ、理由に共感できない人にとってはただのたわ事です。 極限まで体を動かして、吐き気、眠気、心臓の痛み、疲労、足のもつれ、息苦しさ、頭痛、手足のしびれ、もうろうとして、、気力だけで何かをしている時に、所詮、感覚で満足した理由なんて、消えるものだと感じるはずです。極限の疲労状態の時には、どんなことも重みがなくなり、ただ、休みたいと思うだけです。  それと同じように、どんなに命の重みの理由を考え、見つけたところで、極限の疲労状態、死が日常的な状態になれば、そんな気持ち失せますよ。 だから、大切なのは、今、命は重いと感覚で感じるから重いということだと思います。 以上、参考になれば幸いです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

[なぜ人の命は重いのですか?] 昔、「人の命は地球より重い」とテレビのコメンテータが言っていました。言葉の遊びだと思ってみていましたが、その後テレビ局のカメラクルーが普賢岳の火砕流に会い腕時計のみになってしまってからは「人間は大自然の前には無力」というようになりましたね。つまり命に対しての言葉遣いに混乱があるということですね。命は大切にするものでその大切にする度合いを軽い、重いと表現しているのですね。別の言い方をすれば特に人間は動物と異なり自然に生きるようにはできていないのでそのままでは生存率が非常に低いんですね。一般の動物社会では20年も面倒をみる親はいません。動物は数年でひとり立ちします。人間の子供を数年で外に放り出せばみんな死んでしまいます。つまり、人間の子供は誰かが大切に面倒を見ないと成長できないのですね。そういう意味では誰かが大切に育てるという連鎖でしか生存できない生き物ですね。大切に育てられたから命は大切にしてまた次の命を育てる義務が生じるのです。これが社会を形成しているということですね。両親・家族・兄弟・村・町はこのようにして出来上がってます。 つまり、人間の生命は自然にたいして限りなくもろいので、お互いに協力して大切に育てる環境を形成しているということです。 その環境の中でいろんなことを互いに学ぶということのためにそのようなシステムがあるのです。生きるということは学ぶことですね。

  • Uginx
  • ベストアンサー率35% (98/280)
回答No.9

>そういう建前がないと社会が立ち行かないからですか? 私はそうだと思います。そして社会が立ち行くためには、命の重さの勘定が必要なのかもしれませんね。 しかし、人権なんて言葉がなくても人間はずっと生きてきましたから その建前がなくても何とかなりそうな気がしないでもないですが…(笑 "もし"、人の命は重い、そうあってほしい、が人の願いだとするなら いま現在、人の命は重くないのではないか、重いとは思えないのではないか… 実現していることを願いはしませんよね。 少し妄想してみました(^^; なにしろ人は言う事とやる事が違うから混乱してしまいます。

回答No.8

哲学的でなく申し訳ありませんが、 もう二度と逢えないからです

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.7

 自分の命と、自分が愛する人の命が、自分にとって大事だからでしょうね。  例えば、人を殺して、死刑判決を受けた人の命を守ろうとしていろいろやっている人がいます。その人たちが、例えばアフリカでなんの罪もなく死んでいきつつあるたくさんの人々の命を救うために何かしているふうには見えません。  いや「たくさんお金を寄付している」というような返事がかえってくるのかもしれませんが、死刑囚のためには寄付では済ませていないわけです。すくなくても、死刑囚一人のために割いているのと同じ時間をアフリカ人一人のために割いて行動しているとは思えないんです。  まるで、命を救いたい人がいて、それ以外の人の命はどうでもいいかのようだ、というか、寄付で済ませられる程度のものと考えているようだ、とは言っていいんだと思えてしまいます。でも、人間なんて、本音はそんなものなのかもしれない。  ですが、だからと言って、「そのほかの人の命なんかどうでもいい」と言えば、その「そのほかの人」から、「オマエの命なんかどうでもいい」という返事が返ってきます。反論できない。それでは困る。  で、自分の命と自分が愛する人の命を守るために、「みんな、人の命は平等に重いことにしよう」ということになったのではないでしょうか。  一種の、バーター取引です。私は貴方の命と、貴方の愛する人の命を大事にします。重いと言います。だから、私の命と、私の愛する人の命を大事にして下さい。重いと言って下さい、と。  ということで、暗黙のうちにできた合意が、お尋ねの表題のような言葉なのではないでしょうか。きっとそうだと思います。         バーター取引ですから、取引を拒否すれば(相手の命の尊重を拒否すれば)、        自分の命の尊重も拒否されてもしかたない。

  • chindon
  • ベストアンサー率26% (4/15)
回答No.6

人の命の重さは時代と共に変わります。江戸時代ではお家のために腹を切るとか、明治以降では国のために死ぬ、捕虜にならずに自爆するとかの「教え」が支配的でした。人の命の重さという点では皆、「そうだ」と言いつつも時代と共に「重さ」は変わるもの。 イラクやチェチェン、などの紛争地では人の命の重さは無いに等しい状態です。国家の利益、集団の利益の前では「人命」も虫けら同然に扱われています。日本では殺人罪で死刑になる人は国家によって殺害されるわけですが、彼らの命の重さは顧みられません。 したがって「人の命の重さ」一般がこの世に普遍的に存在しているのではなく、人間一人一人の存在を尊重する、という考え=思想が存在するわけです。  「人の命の重さ」を声を大にして言うアメリカ人がイラクやアフガンなどで行なっている行為は戦前の日本が東亜建設をめざして中国大陸で行なっているのと同じで「人の命の重さ」を知らないから行なっているのではありません。  「人の命の重さ」を考えるということは別の言葉で表現するならヒューマニズムを己の生死に貫くということだと思います。このように実践的に問題を立てて考えないと思考の遊びになってしまいます。いかがですか?

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