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バターン死の行進について

sudacyuの回答

  • sudacyu
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回答No.6

 No1.3の方の回答が最も適当ではないかと思います。  日本は、第1次世界大戦でドイツ・オーストリアと戦い、これらの国の捕虜4700名ほどが日本の捕虜収容所で暮らしました。  それぞれ断片的ですが、以下のサイトに記された参考サイトなども訪れて見れば、大体全体像がつかめると思います。  ​http://www.geocities.jp/kraumjp/reisenaruto2newpage7.html​  ​http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/huryo.htm​  ​http://homepage3.nifty.com/akagaki/furyo.html​  人道的に扱われましたし、後に日本に帰化した人もいたくらいです。  これが、第二次世界大戦では一変します。  アメリカと開戦した時点で、中国戦線が既に泥沼化し、前線へ補給物資が届きにくくなり、食料の現地調達はかなり一般化していました。この頃既に前線では日本軍の「捕虜の保護」は、実際上かなり困難になっていました。(普通の国の軍隊なら、この段階で撤退するわけです。)  しかし、そのまま国力の限界を超えて戦争の継続をし、人道的配慮をすることができなくなり、そのうち人道的配慮をしないのが普通となってしまった結果、当時の日本軍の基本的考え方・処置が、「当時の国際的基準から見て異常である」という状況が恒常化してしまいました。    更に戦況が悪化してから日本軍の行ったインパール作戦やガダルカナル島攻防戦(餓島と言われました。)などは、被害者が日本軍であったために人道問題になっていませんが、異常そのものの作戦です。  こんな作戦がアメリカで立られ実行されたとしたら、作戦指導した者は軍法会議で確実に責任を取らされ、餓死者に対しては一般の戦死者の遺族年金だけでは済まず、慰謝料請求の裁判沙汰となるはずです。  餓死が待っているような戦場に親族を送り出した、一般の日本国民の意識も異常となっていたように思います。  インパール作戦では、徒歩主体の日本軍の進行速度を早くするために携帯する食料は5日分とし、その後の食料はイギリス・アメリカの中国援助ルートの拠点であったインパールを占領しているから、多量の物資が手に入り問題ないとの計画でした。(もちろん、インパールは占領できませんでした。)  このインパール作戦の立案をした参謀は、ノモンハン事件(当時、小競り合いという印象を与えようとして事件という名前をつけたようですが、立派な対ソ連戦争です。日本軍の機械化・機動力・補給能力の不足を露呈した戦いでしたが、その後の戦争に生かされることはありませんでした。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2658227.html )で関東軍参謀として作戦計画を作成しました。  アメリカの行った日本国内に対する無差別爆撃・原爆投下も明らかに戦争犯罪です。(無差別爆撃は、日本が中国の重慶に先に行っています。アメリカが、日本に対して無差別爆撃を行っていなかったとしたら、重慶爆撃も南京大虐殺と同じように問題化したでしょうね。)  戦争の後半には、アメリカも長期にわたる総力戦と戦死者の増加で経済的・精神的余力がなくなってきて、異常が目立つようになります。

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