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仏教の修業で悟れる?

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

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回答No.3

>>仏教の修業で悟れると言う人がいるんですけど、私の知る限り、この世で悟れたのは仏教の開祖であるお釈迦様だけでしょう?  そんなことはありません。お釈迦さまもガヤでの成道(悟りを開かれたこと)のあとサルナートに向かい、つい最近まで苦行を共にしていた五比丘を訪れ、初転法輪(初めての説法)によって五人の比丘は釈尊と同じ悟りに入ったとされます。また、釈迦の十代弟子といわれる人のほとんどは、釈尊のお墨付きをもらっています。 有名な話は説法第一といわれる 富楼那という仏弟子がいました。彼は、弁舌巧みな布教者でした。あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになり、旅立ちにあたり、お釈迦様が質問しました。 「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」 「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」 「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」 「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」 「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」 「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれた』と思うことでしょう」  これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。こうした問答の後お釈迦様は、富楼那の悟りを認め旅立つことを許したといわれます。  しかし、釈尊滅後それではだんだんと都合が悪くなってくるようです。お釈迦様を特別な存在にしておきたい人々が現れます。それが大乗仏教のと呼ばれる仏教を提唱する人々です。その時に大乗仏教たちがそれ以前の仏教にたいして「小乗(劣った乗り物)仏教」と呼び始めたに過ぎません。 >>どうも悟りの階段は、想像を絶する程に厳しいようです。 とありますが、そういった大乗仏教教団ができる以前は、確かに厳しいい境地ではあるのでしょうが、お釈迦様以外誰も悟っていなかったということはなかったと思います。だって、お釈迦様がオッケー出してるんだから文句のつけようがありません。  阿羅漢という言葉がありますが、インドの宗教一般で、「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだようです。初期仏教では修行者の到達し得る最高位をこのように呼び、学道を完成しこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」ともいいます。それ以下は、不還果・一来果・預流果を「有学」(うがく)位といいます。  しかし、大乗仏教では声聞を阿羅漢と呼び、批判的に仏と区別した。 しかし、大乗仏教では二乗と呼ばれて、阿羅漢と独覚(どっかく)は「仏」になれないとされ、さらには「地獄」へも堕ちることができず、その位のまま輪廻が繰り返されるとする論書さえあります。 >>そのため、悟ることのできない修業の仏教は小乗と呼ばれるのでしょう? とありますが、その認識は大乗仏教からみた小乗仏教の認識であり、小乗仏教からする認識とは違います。そして、今小乗という言葉は大乗仏教からの差別用語に当たるため「原始仏教」や「上座部仏教」と呼ぶのが適切でしょう。    さて、仏教の修行で悟れるのかというご質問にもどりますが、私は浄土真宗を信仰している身ですからその立場からお話させていただきます。浄土真宗の立場からすれば、修行の仏教では悟りに向うことはできません。そういったことも含めて浄土真宗について説明したいと思います。  まず浄土真宗の根本経典である『浄土三部経』という三つのお経を簡単に説明します。お経というものは昔話ですからそんなに難しいものではありません。 1、『仏説 無量寿経』  昔々あるところに法蔵菩薩(若かりし阿弥陀仏)が仏道修行に励んでおられました。この法蔵菩薩という方は「自分ではなかなか悟れない」そんな人も救う仏になりたいよ48の目標(四十八願)をお立てになります。その中でもっとも大切なのが18番目の目標(第十八願)「私が阿弥陀仏という仏になって、私の創った極楽という世界に心からうまれたいと思って、私の名前を呼ぶ(念仏)人があればどんな者でも救いとります。そして、念仏したにもかかわらずもし救われないものが出れば、私は仏をやめます」そこまでおっしゃってくださっています。  それから気の遠くなるような長い時間修行なさいまして、やっとの思いで目標を達成できる力を得て法蔵菩薩という修行者の姿から、阿弥陀仏という修行の完成者へとポケモンで言えば進化なさいました(笑)  こうして、阿弥陀仏のお名前を呼ぶ「念仏」は、極楽往生の行いとなったのです。 2『仏説 観無量寿経』(一部『涅槃経』)  昔々王舎城にアジャセという王子様が住んでおった。この王子は自分の父ビンバシャラ王を殺し王様になろうとします。その時にアジャセの母イダイケという方は、夫が殺されては大変と王様をかばいます。しかし、その努力もむなしく大様はアジャセに殺されてしまい、イダイケ自身も牢屋に幽閉されてしまいます。  幽閉されたイダイケはもがき苦しみます。そんな時、お釈迦様は霊鷲山(りょうじゅせん)という山で多くの信者にまさに『妙法蓮華経』のお説教の最中でありました。しかし、お釈迦様はそのお説教中断しイダイケのもとへ、アナン尊者という方をお供にテレポーテーションで飛んでいきます。  すると、イダイケは「ちょうどよい所に来てくださいました、どうかお助けください。」とお釈迦様に救いを求めます。するとお釈迦様は「よしわかったイダイケよ。これより心で仏を念ずつ「念仏」という修行を教えよう。」とおっしゃって、イダイケに「念仏」という瞑想を教えます。すると、心の中で阿弥陀仏や極楽浄土を思い浮かべることで心落ち着けてゆき、最後には「心落ち着きましたと」お釈迦様にいうと、 お釈迦様はにっこり微笑んでお帰りになります。  この帰り道お釈迦様は連れて行ったアナン尊者に一言付けさされています。「アナンよ。今私は心で仏を念ずる念仏を教えてきた。しかしお前が後の世まで伝えなくてはならないのは、阿弥陀仏の十八願にある「南無阿弥陀佛」のお念仏ですよ。」と、誰に乞われるでもなく釈尊のご意思で一言アナンに付け足されます。釈尊は後の世のために念仏であると説いておられます。 3、『仏説 阿弥陀経』  このお経は極楽の世界を現し、クライマックスでは東西南北上下(全て)の世界の仏が現れ、べろを見せてくれます。なぜべろを見せるのかというと、その頃のインドにおいては、べろを見せるというのは真実の証明としては最上級だそうです。今でもそういった風習は残っているそうです。では、それだけの仏はどんな真実を証明してくれているのかというと、阿弥陀仏の本願力(救いの力)は本物であることです。このように『阿弥陀経』では、全ての仏様が念仏することをすすめます。 このようなわけで、念仏は阿弥陀仏だけでなくお釈迦様や全ての仏様が勧めてくださる行いなのです。ですから、念仏とはしっかりと仏様が定めてくださった「正定業」なのです。       浄土教と末法思想  まずは時代観についてご説明しましょう。それは「末法思想」というものが関係します。わかりやすくいえば、お釈迦様がなくなってから長く立ちすぎて、教えを聞いていた人間にとっての賞味期限が切れてしまい悟りを得られない時代ということです。この末法という思想は鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の祖師たちは影響を受けています。これに関して、法然や親鸞は素直に受け取り、悟れない時代の仏教を求めました。  それが、阿弥陀仏の極楽浄土を目指す。浄土教です。    浄土教の人間観  そして、もう一つ大切なのは、時代背景を踏まえた救われる側の心構えです。それは、「自力」は悟れないことの自覚です。自力で悟れると思っている人であれば、別に念仏という方法を取る必要はありません。他の修行法で悟ればよいのです。だからといって、自力で悟れる人が、念仏してはいけないわけではありません。   しかし、日本浄土教の祖師は自力で悟れる人の念仏ではなく、自力では悟りに到達することができない者が阿弥陀仏の「他力」によって極楽浄土にいかせていただく、悟れない者のための「他力」の念仏を説きます。ですから、「他力本願」の他力は他人という意味ではなく、阿弥陀仏一人に向けて使われる言葉です。          まとめ  短くまとめてきましたが、浄土教に関してはこんなところです。浄土教にとって、悟れない時代に悟るための教えは「ご利益という点では優れているけれども、自分の理解という点ではほとんど理解できない」絵に描いた餅になってしまうことになる。ですから、この娑婆世界(悟れない世界)で悟りをめざす道ではなく、阿弥陀仏のお創りになった極楽浄土という学校に入学して、阿弥陀仏や観音菩薩・勢至菩薩という先生について悟れせていただく道が浄土教です。その極楽浄土への入学願いのようなものが「南無阿弥陀佛」なのです。  ながなが書き連ねましたが、小乗仏教を悟れない仏教とする考えは賛同できません。仏教は「自覚の宗教」と呼ばれたりするそうです。私は自分は悟りの境地に立てないおろかな人間だと自覚しています。そんな私にとってはどんなにすばらしい「悟るための仏教」の経典があろうとも何の意味もないものになってしまいます。自分自身が何を根底に置くかが大切です。しかし、その前にはしっかりと知識をつけることも必要です。お釈迦様も「自燈明(自分に由りなさい)法燈明(その自分は教えに由りなさい)」とおっしゃっています。  的外れな回答かもしれませんが、参考にしていただけると幸いです。

pas26
質問者

お礼

とても詳しい説明によるご回答とアドバイスどうもありがとうございました!

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