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「反抗期」というものがあるとすれば
今あまり聞かなくなりましたが、「反抗期」と言うものがあるとすれば、それは本当に子供本人の問題なのでしょうか。つまり、親が本当に愛情と理解と誠意を持って子供に接すれば、それは起こらないのではないかと言う気もするのです。そういう、不満感を何か理由をつけて、子供の成長によって「反抗」が起こるのだと問題を転換させているのではないか、と言う気もします。 たとえば、子供が何か不満不安悩みなど親に話したとき、「それはお前の考え方がおかしい」「そんな事考えないでやる事をやれ」みたいに、つまり「お前の考えは価値がないんだよ」と遠まわしに言われるようなとき、子供は傷つき「反抗」するのではないかと。逆に同じ問いかけをしたときも「確かにそうだ、それはわかる」という応答があって「それだけど、こういう風に考えなきゃいけないんだよ」というふうに諭すなら、問題はないし「反抗」もないのではと思っていしまうんです。 実際のところどういうものなんでしょうね。
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#2です。ご返事ありがとうございます。 確かに、どういう壁であるかが問題ではありますね。 「>親が本当に愛情と理解と誠意を持って子供に接すれば」とおっしゃっていますが、 「愛情」「理解」「誠意」などに関して、親がどのような認識を持っているかということも検討される余地があるでしょう。 「壁」は必ずしも悪意に満ちた抑圧とは限りません。 愛情豊かで誠意に溢れた親の姿勢であっても十分壁として機能し得ます。 悪意に満ちている場合は、たとえ壁を乗り越えたとしても何らかの引っ掻き傷は残るでしょうが、愛情の裏打ちがあったとしても何らかのねじれは残るでしょう。 しかし、その傷やねじれをどのように昇華していくかで個人の人間性が決まっていくようにも思います。 手を差し出して支えていた赤ん坊が歩き始めるようになり、ある時期に差し出した親の手を払う、これも一種の反抗と呼べるでしょう。 比喩的なので、第一、第二を問いません。 >「確かにそうだ、それはわかる」という応答があって「それだけど、こういう風に考えなきゃいけないんだよ」というふうに諭すなら、問題はないし「反抗」もないのではと思っていしまうんです。 :反抗期であれば、 『「それは違う」と一言言えば済むのに回りくどい説明をして、俺を馬鹿だと思っているのか』などと考えるでしょうね。 また、 >「それはお前の考え方がおかしい」「そんな事考えないでやる事をやれ」 :ではなく、「お前の考え方が正しい」「お前の言う通りだ」と全て肯定されても反抗期があるのが自然だと思いますよ。 つまり、反抗期の目的は、正しい理屈を理解するということではなく、自分が庇護されてきたという引け目を持たざるを得ない親という者に対する、不可避的な独立宣言だと考えて良いのではないでしょうか。 子供のキャパシティを(本当に)超えるような壁であることもあるでしょうが、それは親の責任と言うか、巡り会わせが悪かったとしか言う他ないでしょう。 しかし、そのような親は責任の意味さえわからないはずであって、 「>本当に子供本人の問題なのでしょうか。」と問うことすら虚しいことになってしまいます。 子供は子供(自分)の生を生きていくしかないのですから。 親にとって大事なのは、愛情・理解というよりは、一個の人格として対等に扱えるかどうか、という点でしょうね、おそらく。 生んだ以上は育てるのが当然の責任であるのに、自分が育ててやった、という意識が抜け切れない親が多いのが問題の本質にあるような気はします。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんにちは。No5です。ご返事ありがとうございます。 「反抗期」という言葉の定義、あるいは、「反抗期」という言葉からイメージするものが 人それぞれ違うので、回答が難しいですね。 個人的には「反抗期」という呼び方は、あまり好きではないです。 欲求や考えや不満を「表現する」というのは、子どもにとっては至極健全で当たり前の ことであって、本来、できる限り受け取られ、喜ばれ、歓迎されるべきなのですが、 「親にとって都合が悪い」という理由で「悪いもの」「忌まわしいもの」「排除すべきもの」 として名付けられた感じがするからです。 と言いましても、常に受け取り喜び歓迎していられるマリア様のような親も稀少ですが・・。 子どもが「表現する」ようになる、ということは、子どもが自分で自分の欲求を汲み、自 分で自分の欲求を満たすことができるようになる、ということであり、つまり、親から 自立する、ということだと思います。 このことを、喜び、歓迎する親を持った子どもは、いわゆる「反抗期」をスムーズに抜け ることができるかもしれませんね。 ところが、このことを、喜び、歓迎することができない親がいます。 子どもが自分の支配下・庇護下から「巣立つ」「離れていく」のですから、親の側にも 「喪失感」が伴います。 問題は、この「喪失感」に耐えられず、この「喪失感」を子どもを使って埋めようとする 親だと思います。「ママから離れて行かないで。ママを見捨てないで」とばかりに子どもの 「表現」を押さえつけたり、逆に子どもの奴隷になって子どもの言うことを何でも聴くことで、 子どもの自立を妨害し、自分の思い通りにし続けようとする「淋しい親」です。 さらに問題なのは、このような親が、「自分が子どもの自立を妨害している」ことに 気づかず、愛のムチだなどとほざいていることだと思います。 このような親に対してもケアが必要かもしれませんね。 ご質問は、「親が子どもを私物化したり軽蔑したり無視したりせず、『尊重している』なら、 子どもも親を軽蔑したり親に対して破壊欲を持ったりすることなく、親を尊重しつつ 自立することが可能なのではないか」というようなことでしょうか。 そういうことなら、その通りだと思います。 ただし、親にとって都合の悪い「主張」を全くしないということはあり得ないでしょうね。 それでは。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 親の態度もまた難しいものだと言う事ですね。一連の動きには、それをうまい昇華に持っていくためには、相互の認識とか生き様とか大事なんだなと思います。子供の自立親の自立ってやはり必要なものなのでしょうね。 今回改めて考えさせられたのが、一般に言う反抗期の形態はわかりましたが、どうも私自身にそういう認識とか体験が乏しかった、あるいはなにか正常ではないような形のものを通ってきたのでないか、それで、反抗期の認識についてしっくりいかないものがあったんです。どうも私自身にはなかったんじゃないかと。 どうも親の悪口はあんまり書きたくないですが、思春期当時の私の家庭の雰囲気と言うのがあまりいいとは言えず、親によってストレスを結構与えられていたようです。やたらに酒癖が悪いとか、いつも不機嫌とか。そういう状況ですと、あまり独立したいとか親の庇護下を脱したいとか言う気持ちよりも、もうちょっと平穏に暮らさせてくれとかやたら心が落ち込む状況が続いて、まず精神の安定と言う事にのみ心を奪われると言う時代だったようなのです。で、「あまり酒飲むな」「繰言ばかり言うな」「ちょっとは子供に楽しい思いをさせろ」とかそいういう不満が「反抗」なのかなと、ずっと疑問だったわけです。それで、世に言う、あるいはここで回答していただいたパターンには何かしっくり来なかったと。今もってしっくり来ないんですよね。こういう「不満」をぶつけるのも一種の「反抗」なのかなと。
- yu-to-mo
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現在心理系の大学に通うものです。 反抗期について卒論を書いています。 反抗期は第一反抗期、第二反抗期とあります(第三反抗期もあるという説もあります)。 第一反抗期は幼少期にあらわれるもので、今までは親が服を着せたりしていたけど、子どもが「自分でできるもん!」という自我の芽生えです。 第二反抗期は中高生にあらわれるもので、いわゆる思春期です。 第一反抗期が身体的な自立で第二反抗期は精神的な自立です。 しかし、第二反抗期にあたる子どもは、なぜ自分がイライラしたり、反抗したりするのかわかりません。 心と体のバランスが取れていない状況です。 思春期の反抗の原因は、自分はもう大人であると思っていても親からは子ども扱いされることに対する反発、つまり尊重されない、認められないことへの不満であるとされています。 これを踏まえると、質問者様のおっしゃるように、親子の関係性が大きく関与していると思います。 しかし、反抗期がない子どもは自我が十分に発達していないという指摘もあります。 私の卒論では反抗期の有無と独立性に関する研究をしました。 その結果、男子は反抗期を経験した人は独立性が高く、経験していない人は低い結果になりました。 女子は反抗期経験と独立性に関連は見られませんでしたが、女子は依存性が高いので、反抗期経験もない、もしくは経験があってもそれほど強い反抗ではなかったということが関係しているのではないかと思います。 とは言っても、反抗期がなくても独立性の高い人もいるし、反抗期があっても低い人もいます。 一概には言えません。 でも反抗期は親子の登竜門みたいなもんじゃないかぁとも思います。 反抗期がくることで、親は「子どもだと思ってたけど、もう子どもじゃないんだ」と思うし、子どもは親を客観視できるようになります。
お礼
私はどうも、第二反抗期と言うのは、かなり親の非があるのではないかと思ってしまいます。アル中、マナー違反(会話態度)社会的姿勢(ずるい世渡りとか)そういうものを多くもった親は、立派な親よりも「反抗」されることが多いのではないか?そう考えてしまいます。つまりそうなると、これは成長の問題よりも、家族力学の問題と言うか、哲学になっていくのではと思うんです。 ご回答のアンケートですけど、反抗するということはやはり親とは違った事をやりたいと言う現われではと思いました。しかし、反抗期があることがなにか人間の大きさと関連しているとはどうも考えにくいんですよね。
お悩みの問題は心理学の本より児童保育の本のほうがわかりやすくためになります。 反抗期はあります。 自立に必要です。 子供時代素直でいわゆる良い子だったほど反動が大きい傾向があります。 仕組みははっきりしており、葛藤を内面だけで解決する子供もいますが、むしろ反抗するのが自然です。
お礼
私はどうも納得いきかねます。親の非に対しての隠れ蓑に悪用されるのではないかと。そして、実は「反抗」などという心理的葛藤を得ないでも、終始親を尊敬しつつ社会的自立を達成する事は可能だと思ってしまうんですね。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんにちは。 「反抗期」といわれるものは、成長の過程で、なくてはならないものだと思います。 ただ「反抗期」という言葉は、親から子どもを見たときの「親の主観的な」ネーミングで、 子どもに言わせれば「精神的誕生期」とか「自分確立期」とか「主張訓練期」なんて名前になりそうな気もしますが。 親が子どもを育てる苦しみについてはよく論じられますが、「子どもが育つ苦しみ」 というのも、あまり語られないだけで、確実にあると思います。 まず「第一次反抗期(2歳ぐらい~)」といわれているものについてです。 生まれたての頃は、一人では何もできませんから100%親に依存しています。 おなかがすいたときの不快を泣いて訴えお乳をもらい、オムツが汚れたときの不快を 泣いて訴え処理してもらい、眠いとき・淋しいとき・怖いときの不快を泣いて訴え 抱いてもらい、すべて親に欲求を満たしてもらいます。 生後数ヶ月までの赤ん坊は、自分と他人の区別がついておらず、親と一体化しています。 ですから、この頃は「他人に欲求を満たしてもらっている」という自覚がありません。 成長するにつれ、「あれ?ボクはおなかがすいてるのにママはお乳をくれないぞ(怒)。」 「あれ?ボクは淋しいのにママは抱っこしてくれないぞ(怒)。」 「あれ?ボクはあのおもちゃを触りたいのにママは取ってくれないぞ(怒)。」 「あれ?ボクはお日さまに当たりたいのにママは連れてってくれないぞ(怒)。」 という経験をして、親が自分とは別の人間であることを少しずつ自覚するようになります。 赤ん坊と親は別々の人間ですから、当然、別々の欲求や感情を持っています。 こうして赤ん坊は、欲求を満たすためには、それを訴える必要があることに気づきます。 さらに成長し、体の機能も発達し、感情の種類も増えてくると、「やりたいこと」「好きな もの」なども増え、欲求が増え、「主張」が増えます。ところが、同時に、「やりたくても できないこと(してはいけないこと)」も増えますから、「不満」も増えます。 この、「主張」「不満の発露」が「第一次反抗期」といわれているのだと思います。 これが行われないということは、自分の欲求や感情に気づくことができない、あるいは、 気づいても訴えることができない、ということです。 つまり、「自分として」生きることができない、ということです。 もうひとつ「第二次反抗期(16歳ぐらい~)」といわれているものについてです。 このころまでは、多くの人が、主に、親の価値観の中で生きていますが、だんだん 行動範囲が広がり、対人関係も広がり、外部の人間と時間・空間を共有することが増え、 色々な人の価値観を吸収し始め、親から吸収した価値観から脱出し始めます。 吸収しては、いらないものを手放し、自分なりの価値観を作っていきます。 このときの「狭いところ(親の価値観)から出してくれ」という叫びが「第二次反抗期」 といわれているのだと思います。 これが行われないと、いつまでも狭いところで守られ安住しつつも、窮屈な思いをする ことになります。 >親が本当に愛情と理解と誠意を持って子供に接すれば、それは起こらないのではないか :親が子どもの奴隷にでもなれば、起こらないかもしれませんが、 それは愛情とは言わないと思います。 親の役割として大切なものが3つあります。 (1) ホールディング(包容) (2) 限界設定 (3) 解放 たしかに最近、(1)ばかりが強調され、(2)(3)がおろそかにされがちですが・・。 「理解がありすぎる親を持った子どもはたまらない」と言った少年がいるそうです。 下着盗みをして捕まった少年が、その後のカウンセリングのときに言ったそうです。 子どもには「ぶつかるべき壁」が必要です。ぶつかったときの「不満」「くやしさ」などに よってこそ、自分を知り、現実を知ることができます。 「子どもがぶつかるのもよく分かる」と言って、壁になることをしない親は、実は 「ぶつかられたときの衝撃(子どもの不満など)」を避けているのではないかと思います。 この「壁」がないと、「壁」を探すべく、外部にぶつかる子どもがいます。 上記の少年がその例です。 それにしても「愛情」の定義というのは、本当に難しいですね。 それでは。
お礼
「子供が育つ苦しみ」ですね。 言いえて妙だと思います。 第一第二確かに存在しますね。問題は第二です。 ご回答のように、理想的なというか、申し分ない親の場合には、(1)から(3)の設定はよろしいかと思います。しかし教科書どおりにいくものなのか。その「壁」が果たして正当なものなのか。これは親の反省と謙虚さによってしか達成できないでしょう。 たとえば、親の酒癖が悪く、家族に対して不快感を繰り返し与えるような場合、あきらかに衛生や言動にマナーを欠く場合、金銭に対しとても見本になるような態度がない場合など、なにかしら批判されるべきものを親は持っています。それを非難されて「これは反抗期だ」なんて屁理屈問題転化されてはかないませんよね。非情に危険な概念だと思うんです。 その多くは「愛情」があればカバーできると思うんですけどね。
- hagiy
- ベストアンサー率0% (0/1)
児童心理を勉強したのは、昔のことだったので、細かいことは忘れましたが、反抗期といっても、第一、第二、第三と、いくつか種類があり、人が大人になるまで何度か経験する物です。 その一つは、動物を例に考えてみれば明らかですが、もし、親にたいして反抗的な感情を全く持たなかったら、子供はいつまでたっても親元を離れずにいて、その事によって、その地域の食料が足りなくなったりとか、様々な不都合が起きてしまう事があるでしょう。 その様に、現代のヒトの生活でも反抗期がなければ正常に成長できないものです。子供がまともな社会生活ができるようになるためには、上手に親が子供の反抗期とつきあうことだと思います。そのつきあい方の善し悪しが、子供の人格に大きく影響する事でしょう。 反抗期の反抗とは、論理的な物として起こるのではなく、その元にある物は、ただ近くにいるのがうっとうしい、とか、もっと認めてほしい、とかいった物です。子供の方もある程度社会性を持つと親に反抗するためには、屁理屈でも何かの理屈をつければならないので、よけいなことばかり言われてうるさいとか、何も言ってくれなくて腹が立つとか、お父さんはクサイとか、ダサイとか、何か親の方に非があると言って反抗してくるわけです。 ですからあまり理論的に説得しすぎてしまうと、生真面目で責任感の強い子供などは、自分で自分を責めたり、心の内面の厳しい所に送り込まれてしまう事にもなりかねません。 昔のように家族が大家族だったときは、自然に(動物たちの様に)うまく行ったのでしょうが、少子化の現代では、反抗する側も、反抗を受け止める側も難しい事になっていると思います。犯罪の多い今日のような社会は、このことが大きな鍵になっているように思います。
お礼
子供の成長には、つき物だと言うことは合理性があるように思います。そして親の態度に対し「もっと認めろ」という姿勢は、当然の成り行きでしょうね。 ただ、ご回答にもありますように、親の態度も子供の態度も難しい局面に来ています。 たとえば >よけいなことばかり言われてうるさいとか、何も言ってくれなくて腹が立つとか、お父さんはクサイとか、ダサイとか、何か親の方に非があると言って反抗してくるわけです。 こういうことも、度が過ぎると親の過失になっていきますよね。マナー違反とか道徳違反、親が犯罪者のような場合、当然人格を認められないでしょう。 そういう過失があるにもかかわらず「これは反抗期だから」なんていう理屈を隠れ蓑にして、非の転換をされてはたまらないわけですよね。こういう危険性を持った概念だと思うんです。どうなんでしょうね。
- mojitto
- ベストアンサー率21% (945/4353)
心理学はかじった程度の知識しかありません。 私の考えでは反抗期はもちろん環境にも起因しますが、子どもの問題です。 反抗期の前には大きな心理的・身体的成長があり、それに裏付けられた自信を周囲から否定された場合に起こると思います。 ○幼少期の反抗期では、近所のお兄さんを真似て、ジャングルジムで遊んでいたら親から「ケガをするからやめなさい」と注意される。 ○思春期では自分にギターの才能があると思っていても、親の実体験・周囲の経験などから「現実は厳しいぞ」とギタリストの夢を否定される。 つまり自分でできるようになったと思っていたのに、「やってはいけない」「危ないからやめなさい」「それは無理だろう」と親の経験則や目測、心配で否定されてしまうので、反抗してしまうのでしょう。 さてここで親が子どもには無理だと思っていてもやらせることが『本当の愛情と理解と誠意』かどうかが問題になりますね。 もちろんチャレンジをさせることは非常に大事でしょう。 しかし無謀なことをさせるのが愛情かどうかは、議論の余地があると思います。 また解決策として質問者さまが『諭す』を挙げましたが、そもそも子どものポテンシャルに対する理解が親子ですで違います。 どう議論しても子どもは100%できると思い込み、親はまず無理だろうと思っているのですから。 言うなれば異教徒間で神について議論するのと同じことです。 個人的には反抗期で得られる反骨精神や悔しさは、将来に必要な大きなバネになると思います
お礼
主に青年期の反抗期について質問しました。 親の認識と子供の認識に差によって「親はわかってくれない」というような不満感から反抗するというような筋書きはわかります。 そのような親の理性的経験的判断から子供に接する場合は、言い方さえ間違えなければ実に的を得た適切な態度であると思います。 ただ、どうも長年疑問なのは、親が客観的にみてあきららに批判される節があるという場合どう考えるかと言うことなんです。 たとえば「アル中」で家の中でうるさい、不快で家族にとって精神的苦痛である。あるいは極端な場合、親が犯罪者で、学校で親についてうわさされいじめにあう。そんな時、子供の反抗を「これは反抗期だから」などといって親が合理化するような事態が起こった場合、はなはだ迷惑で、そういう悪用がこの言葉にはつき物だと思ってしまうんです。その点どうなのでしょうね。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
素人の私見ですが・・・。 無重力状態にいる宇宙飛行士などが全く運動をしないと、筋力が弱り数週間後に地球に帰還した当初は立つことも難しくなるそうです。 筋力は地球の引力に逆らう(反抗する)ことで維持され、あるいは強化されると考えて良いと思われます。 仮に一生を無重力状態で過ごすとしても、筋力自体は(不要になる傾向を持たされるので)早く衰えるのではないかと思います。 筋力を心理面における自我の比喩とすることは許されると思いますが、やはり鍛えられなければ強くはなれないでしょう。 仮に強くなくても生きていける環境が整えられたとしても、それが必ずしも幸せにはつながらないように思われます。 鍛えるということは何かを乗り越えるということでもありますから、何らかの抵抗、あるいは壁となるものが必要です。 心理面での引力に相当するものは、親の存在でしょう。 親というのは、無抵抗の赤ん坊の時から自分の命を委ね、全てを頼らなければ生きてこれなかったという引け目の対象として存在せざるを得ません。 存在自体が壁であるという一面があると言って良いでしょう。 そして親(母親もそうですが、特に男親)は、一定の時期までは壁であり続けなければなりません。 子供が自分の力で乗り越えるべきものとしての価値を維持するためです。 (誤解を怖れずに言えば、親の生き方の是非よりも親の自信の方が大事だという考えを私は持っています。) 過保護はこの壁を取り払おうとするものですから、自我を鍛える機会を失うわけで自立を阻害することになるのは当然です。 逆に過度の抑圧や規制(あるいは虐待)は、壁ではなく自己の生命を脅かすものとして機能することになりますから、乗り越えるのではなく破壊しようという考えになるのも、これまた当然のことと言えるでしょう。 「>親が本当に愛情と理解と誠意を持って子供に接」する、というのは、 このようなバランスを維持した壁を必要な時期に乗り越えさせる経験を積ませるということのように思います。
お礼
そのような「壁」というものの必要性は確かにあると思います。成長にとって必需です。しかし、それと「反抗」というものをどうも結ぶのは難しいと思ってしまいます。 たとえばご回答の中に >逆に過度の抑圧や規制(あるいは虐待)は、・・・ のところで、親が「壁」ではなく本当に障害になる場合、その場合も 「これは反抗期だから」などという理屈で片付けられてはたまりません。そういう線引きが難しい問題であると思うんです。
- gatetsu38
- ベストアンサー率36% (65/179)
浅い知識ではありますが、 反抗期とは 発達途上にいる子どもが、社会的な認識の未熟さと独立心の芽生えから、 親や周囲の大人に対して反抗を頻繁に示す時期のことです。 一般には2~4歳頃を第一次反抗期とし、 思春期-青年期を第二次反抗期とする考え方が知られています。 第一次反抗期は、 自我意識の芽生えた幼児の自己主張や自己顕示として理解され、 主に親からの指示や禁止への抵抗というかたちで示され、 第二次反抗期は、親以外の大人や権威、体制にまで対象が及ぶ。 親や体制からの心理的自立を促す働きがあります。 という訳で、 自立の第一歩であり、誰にでも必要なことだと思います。 反抗期のない子供は自立しない、とか 30歳~40歳に遅れてやって来る為、 単なる「ヒステリー」と混同されやすいという デメリットがあります。 親や教師の問題ではないように思います。 どう接しても反抗するんです。
お礼
そうですね。学問的には2段階ありました。私の疑問は2番目のほうです。しかし、いまだにそれが成長にとって必要なのか、大変疑問です。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 親の子離れとか親の大人度とか大事でしょうね。 今回大体世に言う「反抗期」の形態はわかったのですが、どうも自分にはあまり当てはまらない気がしました。 >『「それは違う」と一言言えば済むのに回りくどい説明をして、俺を馬鹿だと思っているのか』などと考えるでしょうね。 >「お前の考え方が正しい」「お前の言う通りだ」と全て肯定されても反抗期があるのが自然だと思いますよ。 こういう気持ちになったことがないんです。 あまり家庭的にいい雰囲気とはいえない状況で、「もっと気持ちよく暮らさせてくれ!」っていうのがほとんどを占めていたんですよね。だから、独立したいとか庇護下を脱したいと言う感覚(これは究極的にそうあるべきでしたが、そこまで気持ちが持ち上がりませんでした)にならない、一般的に言う「反抗期」の状態にならなかったと思うんです。これが、世に言う「反抗期」の定義にしっくり来ないという理由だったようです。いまだに、こういう「もっと気持ちよく暮らしたいよ」という文句も反抗期に入れるべきものなのか否か、わからないですね。