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日本の城の形態の変化について

日本の「城」は山城→平山城→平城と形態を徐々に変化させていったと聞きます。私は戦い方の変化に伴って城も変わったのだと思うのですが、実際のところはどうなんでしょうか。必ずしも正しい答えでなくても、「こうだからじゃないか」という感じで結構ですので。皆さんの考えを教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

城の形態を具体例で見てみましょう。 楠木正成の赤坂城ですが、山城でわずかの兵士でも たてこもることによって、足利幕府軍を翻弄した話は有名ですね。 武田信玄の場合、躑躅ヶ崎に館があって、 裏手に、たてこもるための山城を用意していました。 しかし、他国を攻めて、ほとんど必要なかったようです。 織田信長の岐阜城などは平山城です。 これは平地にある山を利用して造られました。 比較的堅固で、周りには大きな城下町を作り、各大名の政治・経済の 中心的な中世の都市を形勢していました。ですから、攻められると、 城下町も焼き払われました。 豊臣秀吉の大阪城、徳川家康の江戸城などが平城の代表です。 大砲や鉄砲攻撃などにより、城の規模が大きくなり、堀や川を利用した 城が中心です。城は防御拠点というよりも、領国支配の政治的 施設の意味が強くなり、天守閣などが消失しても、ほとんどの城では 再建はされなかったようです。城下町が大きくなりました。 江戸末期には、平城でも、敵から城内を見えないようにする築城法が 外国から入ってきて、「五稜郭方式」の城が2つ作られました。 これは、大砲などの精度が上がったため、目標物を狙われなくするつくり で、完全に戦闘用の城です。 以上

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  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.5

山城に関してですが山城は個々の曲輪が小さいのですが、鉄砲が普及 した結果、一カ所を制圧されると幾つもの曲輪が同時に敵の制圧射撃 の範囲に入ってしまいかねない問題があり、つまり戦闘能力において も戦国後期には山城は問題がありました。

  • sagiri_g
  • ベストアンサー率35% (41/116)
回答No.3

戦い方の変化に伴い、戦闘に加わる兵士の数も一つの要因です。 山城は、少ない人数で守る事が出来ますが、逆に大勢の兵を入れることが出来ないのです。 故に、大軍を城の中に入れて戦うには平地で土地の広い城を求めるようになったのです。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.2

戦い方もそうですが、城の役割の変化のほうが 重要でしょう。 山城の時代というのは、舘が別にあって 戦時のみ山城に篭るような戦い方をしていました。 彼らは地頭やら守護であったりするわけですが、 この場合、行政・生活の場となる舘と、 非常事態の隠れ場である山城を使い分けていたわけです。 険峻な地形に拠る山城は非常に防御に有利ですが、 反面、僻地にあり、日々の生活にも不便で、 都市/村落から遠いという問題があって、 貨幣経済が発展して、物流の拠点を押さえる必要がでてきた 中世の終わり以後にはほとんど姿を消します。 代わって登場するのが平山城ですが、 これは平地にある丘陵を利用して造った城で、 山城ほど堅固ではないものの、街道や町に隣接し 城下町をつくることができました。 ちなみに戦国初期のものは 平山城と山城がセットになっている場合もあって 平山城が尾根の先、尾根の頂上に山城という 組み合わせも全国に多々ありました。 平城の時代は、桃山や江戸時代、 一国一城に制限され、かつ平和な時代がきたことから 城は防御拠点というよりも、行政府あるは 領国支配の象徴という意味合いにかわってきて、 戦闘には役に立たない立派な天守閣がそびえる 今見る城のような形ができたわけです。 平城の登場には銃器の登場も影響しました。 地形に拠って敵を近づかせないのではなくて、 堀と石垣をはりめぐらして 銃眼を備えた白壁とつくることで 逆に敵をひきつけて迎え撃つ体制がとれるようになったからです。

00553345
質問者

お礼

非常にわかりやすいご説明ありがとうございました。とても参考になりました。

  • neKo_deux
  • ベストアンサー率44% (5541/12319)
回答No.1

PHP文庫の「旅順攻防戦の真実」(別宮暖朗著)という書籍で、中世以降の西洋の要塞の変化について、同様の記載があったように思います。 日露戦争なんかに興味があるのでしたら、面白く読めると思います。 > 私は戦い方の変化に伴って城も変わったのだと思うのですが、 こちらの認識は間違いないと思います。 山城: 例えると、 ベトン、セメントなんかで山一つ固めた永久要塞とか。 書中では「プレアルモン(?)式要塞」として、機能的に分類されていました。 大昔の儀礼的な戦闘ならともかく、近代戦になってくると、歩兵なんかが取り付く死角があるなどの欠点が見えてくるようになったそうです。 名乗りを上げて正面から突撃するのならともかく、素人考えでも夜陰にまぎれて接近し、破壊工作を行うなどのゲリラ的(?)な戦法には脆弱な気がします。 平城: 都市と一体化して塹壕を張り巡らせ、拠点にトーチカなどを配備した要塞。 日本では、近代まで火砲や榴弾砲などが使われる事が無かったですから、塹壕は戦線を左右水平に移動可能、騎馬の侵入を阻止する城壁に当てはめる事が出来るように思います。 敵兵の突出を許しても、突出部を包囲するなどの対応が取りやすいそうです。

00553345
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございました。日本のことだけではなく、外国のことにもすこし目を向けてみようと思います

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