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ほにゃらか形而左右学 記憶

「『心』とは生物が進化してくる道筋の、どこかある時点で生まれてきたに違いないと思えてくる。それならば、どこで? 生物に「記憶」が誕生したときからというのが、これから話そうとしている仮説である。これははなはだ奇妙に聞こえる。心の起源というからには、もっと堂々としたものが出てきそうなものなのに、何の変哲もない『記憶』とは。」心の起源 木下清一郎 何の変哲もない『記憶』と表現されていますが、記憶はなかなか一筋縄では理解できません。 今回は、「記憶とは何か」と言った大層な質問は致しません。皆さんが持っている、記憶の内容自体に関する事です。 言葉や図形の様に、再現できる記憶と、再現できないが、知覚すれば同じであると同定できる記憶の違いに関する事です。 例えば具体的に説明すると、他人の顔は、以前、逢ったかどうか比較的に正確に記憶しています。しかし、記憶しているからといって、その人の顔を、絵に描いたり出来る為には、長い付き合いが必要です、さらに、その人の顔の映像を思い描いたりして再現する事はほとんど不可能な気がします(なかには出来る方が居るかもしれませんが)。 それに対して、私たちは日本語を記憶している表現は少し変なのですが、詩とか歌とかは通常、概ね再現できます。 再現できる記憶と再現できない記憶を、同じ記憶という言葉で定義しては、そもそも「記憶とは何か」と問う資格も無いのではなかろうかと、考え込んでいる次第です。 この違いは、短期記憶・長期記憶やエピソード記憶・運動記憶といった、記憶の形式的区分と違った存在論的な区分があるような気もするのですが、どうなんでしょう? 記憶の内容に関するこの二つの記憶の違い、という考え方に、思い込みや勘違いが無いか、教えて頂けませんでしょうか。 PS この質問は、ノンビリ一ヶ月ほど受け付けて居ますので、宜しくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • kigurumi
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回答No.3

>記憶の内容に関するこの二つの記憶の違い、という考え方に、 >思い込みや勘違いが無いか、教えて頂けませんでしょうか。 <ある>と思います。 が、本当に勘違いという分野で片づけていいのかとなると、もったいないと思います。 人はそっくりそのまま記憶できません。 例えばバナナ。 バナナとうタイトルだけでも、いろいろな情報が私の頭の中に既に情報として蓄積されており、バナナでいろいろな語彙が出てきます。 黄色、食べ物、カロリーが高い、お便秘解消グッズ、ビタミン豊富、あまずっぱい、おいしい、猿、同居のペット、ブーメラン、すべる、ロシア、焼きリンゴ、月、薬物、怖い、、、 まだまだありますが、こうやって眺めると、何故バナナから??というものがいくつかありますよね。 説明を求められれば誤記憶ではなく、全てバナナに関連することだと答えることができますが、そういう余裕が無い場だと、「バナナは体にいいという話しているのに、バナナ=危険だなど 勘違いもいいところだ。 君の考えは全くの的外れなので退場!」(笑)と即座に処分されてしまうという。。。笑 人間はバナナ自体はそっくりそのまま記憶できないので、沢山の情報をそれぞれの定められた領域にそれぞれ記憶として蓄積していくのですが、孤島のようなものではなくリンクがつけられる。 匂いの分野・図形を記憶する分野・味覚を記憶する分野、、、、 それにかかわりのあったエピソード。 蜘蛛の糸にように沢山のリンクが張られる。 それで、バナナという単語だけで、今までバナナに関してのリンクがどっと海馬あたりにひっぱりだされる。 太いパイプが優先的にひっぱりだされる。 出力係数が弱いものは、なかなか意識の上に出てこない。 何故バナナが健康にいいという話の時に、私の海馬に「バナナ=怖い」というリンクが引っ張り出されたのか。 薬物が危険だから。 危険は健康の反対だから。 バナナに振りかけられた薬物の怖さを知っているから。 自己防衛本能みたいなもによってなのかわかりませんが、バナナ=危険という太いパイプがつながれていて、<健康にいい>という言葉により、奥にあったリンク、わたしがバナナに対してもっているクオリアの一つ<怖い>が引っ張り出されてしまったのだと思える。 <進化しすぎた脳> http://www.amazon.co.jp/gp/product/4255002738/sr=11-1/qid=1165131448/ref=sr_11_1/250-0192322-3547429 <苦い、砂糖、クッキー、食べる、おいしい、心、タルト、チョコレート、パイ、味、マーマレード、甘酸っぱい、ヌガー、イチゴ、蜂蜜、プリン> スクリーンに映し出され、これをしばらく見てもらったあと隠して、別な話をしばらくした後、さっきどういう単語があったか言ってもらったところ、誰も答えられない。 ヒントとして選択肢<堅い、味 甘い> のどれか。 すると「甘い」という答えがかえってきた。 もう一度見ると 甘いという単語が無い。 にもかかわらず、甘いがあったと思ってしまった。 甘いを連想する単語が沢山はいっていたから。 このように人間はそのもの自体を直接ではなく、関連ずけることで記憶していっている。 アバウトに記憶する。 逆にこれによって、人間は新たなものを創造できるわけです。 曖昧に記憶することで、沢山のことが記憶でき、新しいものを作り出せる。 何故人間はあやふやにしか記憶できないのかは、上に書いたようにそのものを記憶しているわけじゃあないから。 シナプスによって、それぞれに記憶されたものがリンクされ、一つのバナナというクオリアを作っている。 反復的に何度か呼び出すと強いリンクが作られるが、あまり呼び出さないと、奥の方にしまわれる。 でも、危険のリンクが張られていると、呼び出しやすくなる。 でも、どうして呼び出されたのか、自分でもわからない場合もある。 何故危険とリンクされたのか、記憶を辿らないと理由が自分でもわからない場合もあるでしょう。 このリンク(シナプス)が病気などによって通行不能になると、クオリアを呼び出せなくなる。 私の場合、バナナに対して、バナナにかかっている薬品を散布していた従業員が思い病気にかかっているという報道番組の<エピソード>と<怖い>という領域、どちらにもリンクが張られており通行可能なので呼び出せますので、何故怖いと感じるのか説明できますが、壊れてシナプスが通行不能になってしまった人は、誤まった記憶だと思うしかない。 とまあ、人間の記憶のメカニズムの一端を私なりの考えで紹介してみました。 甘いとスクリーンになかった語彙を答えてしまったのを、単純に思い込み・勘違いとしていいのか? 私のバナナは怖いは説明がなければ、勘違いだとされてしまうのか。 あ、もう一つありました。 私の<バナナは怖い>は 勘違いしていているお馬鹿さんと一蹴されてもそんなに実害が無いですが、下記は生命・名誉・自由に関わる深刻な問題です。 人は記憶を塗り替える。 http://luckypool.hp.infoseek.co.jp/ufo/ufo4.html http://hotwired.goo.ne.jp/news/20001108206.html

fishbowl66
質問者

お礼

<ある>と思います。 お見事、言い切ってくれましたね(笑。 ご紹介頂いた本は、数年前に読んで、印象に残る良い本でした。 確か最後に、デジタルな数列から記憶を再現する例が有ったような気がしますが、これが難解でしたが、尤も、これも別の本との勘違いでしょうか? 「バナナ」そのものを記憶できないから、特徴や関連をたくさん蓄積する、バナナを見ると色んな関連が次々に出てくる、これも確かに記憶の面白い所ですが、最初、「バナナ」を見たとき、それが何かと判断する、最初の照合はどの様に行われるのか?もし、初めてバナナを見た人は、バナナの記憶をどの様に保持するのか? 顔のときのように、特徴やエッジで記憶するのか、二本のバナナを二人で分けて、どちらのバナナが私のもので、もう一つがあなたのものだと記憶は出来るのか?私の千円札が、私の物だと言うのは、一度手放したらもう記憶できない。そもそも其の必要もない。 顔そのものは記憶していないのに、同じ顔だと分かる、バナナの表象(この言葉は色々な使われ方をしますが、視覚的現象、といった程度の意味です)を記憶していないのに、バナナを見てバナナだと判断する。バナナを食べて、林檎の味がしたら(クオリアは記憶(再現)できない)のに、違和感というより驚くはずです。 心理学的な記憶の連想というよりは、記憶と再現の関係を勘違いしてるのかもしれませんね。 面白い頁も参考になりました。 それと、ご回答を読み返していて、言葉はコミュニケーションの道具とよく言われますが、記憶の道具という考えも面白いかなと思いました、そうすると、言葉の記憶と再現は何か別の見方が出来そうな気がしますね。 もう少しノンビリ考えてみます。 ご回答有難うございました、御礼が遅くなり申し訳ありませんでした。 過激な補足でしたが、大したことは有りませんでした、お恥ずかしい次第で。

fishbowl66
質問者

補足

いわゆる、突然ですが 眼が充血して、来週までご勘弁下さい #2さんも申し訳ありません。

その他の回答 (4)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

>私が「クオリア」という言葉を使うとき、単独で再現出来ない生の感覚。 はい、バナナというだけでも単一ではなく、非常に多くの情報を持っています。 情報はその担当個所にそれぞれ蓄積されますので、単独のデータではそのものを表わせない。 もっとも、人間は記憶となる情報の元である知覚すら、100%正しく知覚できないという特徴を持っているので、知覚でズレ、記憶でさらにズレているわけです。 そのズレた情報を引っ張り出しているわけです。 それぞれの情報が刺激が加えられると、蓄積されたデータがひっぱりだされ、形が作られ、それがホムンクルス。 ホムンクルスをそれだと思っている。、、、んじゃないかと。 問題があれば修正しますが、何度も問題がなければ、それが実体だと思うしかない。 >ところが、幻視や幻肢はどこからとも現れる。 これはですね。 人間の脳に電磁波みたいなものを当てると、実際に体験していないのに、体験したときの同じ感覚を覚えたりする、って話し知っていますよね。 人間の脳はいわば、、、電光パネルのようになっていて、発火によりホムンクルスの形が変化する。 電光パネルを他に例えると、点滅するクリスマスツリーのイルミネーション。 赤ん坊は物を振り回したりして、だんだん知覚を形成していき、こうなると、こう、、、、ってホムンクルスと知覚をだいたい同一だと考え、よほど問題にならなければ、経験として蓄積していく。 幻肢は実際には喪失しているのに、痒いと感じたりする。 <かゆい>というパネルと<足>というパネルの部分が、なんらかによって発火したことで、無いはずの足がかゆくて掻きたいとなる。 これは障害により誤作動が起っているのだと思います。 足フェチっていますよね。 足を見るとムラムラしてしまう人がいる。 健康な男性は女性の足を見るとムラムラっとするのかもしれませんが、特に足に異常にこだわり、他の部分より足に異常な執着を見せる人が稀にいますよね。 わたしが思うには、性的な部分と足の部分が脳の中で隣同士なので、発火がとなりの領域 つまり 性的な感覚を催すパネルの部分まで影響を及ぼしているのではないかと。 幻視は、、、一つはシャルルボネ症候群になった人。 脳が補ってしまうので、無いものがあると知覚してしまう。 もう一つは興奮物質が過剰で、ものすごい勢いなので、刺激が電光パネルの必要の無い領域まで止まらずに行ってしまい、だから別の世界が形成されてしまうから。 だからこの過剰な物質の出を抑える薬を飲めば、幻覚は見えなくなる。 じゃあ、幻覚を見ないとされている人は真実を見ているのか? ノー。 例えば人間は盲点があり、見えないところがあるはずなのに、私たちは生活をしていて、「あ、ちょうど盲点に入って見えなくてまっくらな部分がある」とは思いませんよね。 脳が無いものを修正して、存在していると我々に見せている。 >私の質問を簡単に抽象すると >記憶は単一なものか、あるいは均質なのか、それとも、記憶には >差異があるか、ですが、それに対するご回答は頂けたのでしょうか これは、、、すごい難しい言葉です。 簡単に抽象すると、、、とは?? 簡単に質問の特徴を説明するとって意味でしょうか。 だとすると、えっと 3つの中からどうしても選べといわれたら、      <記憶には差異がある> です。 どうしてかというと、No3でも申しましたとおり、直接そのままを記憶することは、人間にはできないから。 そして今回はその記憶の元となる知覚すら、正確にそのものをズバリ100%知覚することはできない、 と申しあげました。 さらには、やっかいなことに、脳は修復して知覚できていない部分すら、知覚したとしてしまう。 これらがわたしが<ある>と言いつつ、勘違いという分野で片づけるのはもったいない、といった理由です。 全く同一の知覚をする人は2人といません。 放物線のようになっていて、2という文字を見て2だと知覚する人が一番多い人にあわせて成り立っている社会なだけ。 真実にあわせた社会じゃあない。 もし、多くの人が2を見て赤だと知覚するのなら、世の中の赤信号は2という数字になっているはずです。 (止まれが何故世界共通で赤なのかは、ちゃんと理由がありますが) 多数派にあわせた世界にしかすぎず、<多数派=正しい世界を知覚している>わけじゃあない。 そう知覚する人が多いので、それを常識としましょう としているだけ。 それによって大体ほぼ問題なく、それぞれが持つバナナに対する共感覚によってコミュニケーションが取れているだけ。 そのアバウトな感覚で良しとすることで、100%真実とは一致しなくても、(誰も一致できない)、問題が起らないだけ。 共感覚が強すぎると、2を見て赤と認識する部分が発火する。 共感覚を持つ人とされます。 実際は、みんな共感覚を使って社会を成り立たせているので、みんな共感覚の持ち主。 ところが、さすがに2を見て赤と認識する人が少ないので、彼らがマイニリティーになっている。 その集団に我々が入ると、我々は2を赤と認識しないので、我々がマイニリティーになる。 多数派により成り立っている社会なわけで、真実に沿ってなりたっている社会じゃあないんです。 って、、、私って説明ヘタですね。 何を言いたいのか推測していただけると助かります。

fishbowl66
質問者

お礼

kigurumi様、ご回答有難うございました。 お礼が文字制限を越えたため、補足欄を使わせて頂きました。 改めて、考えてみると、私は記憶を生物・物理的に考えているようで、kigurumi様のように、ある意味で記憶を社会的に考える視点が欠けていたようですね、言語も丁度、社会と共に創られる様に、記憶にもそのような所があるのかもしれません、勉強になりました。

fishbowl66
質問者

補足

何度もお付き合いいただき、感謝します。 だんだん凄いことになりそうですね。 >私が「クオリア」という言葉を使うとき、単独で再現出来ない生の感覚。 はい、バナナというだけでも単一ではなく、非常に多くの情報を持っています。 すみません私も説明が下手で(笑。 これは、単一性・多数性の違いではなく、バナナの黄色のクオリアは、バナナの表面から発した、あるサイクルの光が、眼球の中の三色の錐体細胞を経由して多数の視覚野を通す過程の中で、黄色のクオリアが現れる。 此処には、まず光という物質がある事を強調したいのです。その物質を基にすると言えば良いのでしょうか、その刺激が必要で、原理的に物質の刺激なしに(単独)で再現できない。 以上の様な意味合いだったのですが。 幻視や幻肢のメカニズムはラマさんの本で読んでいます。 なるほど、ありえそうな仮説です、が 見る事と幻視は本質的に過程が違います、幻視には物質としての光が絡んでいない。 この点をどう理解したら良いのかが解らないかったんですね。 ご指摘の通り、盲点の件は、実は以前から私の悩みの種の一つでした。 ラマさんも「書き込み」という言葉を注意深く使っていますが、 ここでも(幻視・幻肢等と同様)記憶やクオリアは再現される。 ただし、幻視・幻肢等は障害であって、再現されてしまった。 それなら、ラマさんがシェークスピアの言葉を何故二回も引用した意味が解りますね。 随意的な再現と変更不能の不随意的な再現の違いに注目して、考え直した方がいいかもしれませんね。 盲点の問題は解決できませんが、脳の中について びっくりハウス・沸騰した鍋・ベルクソンの謎めいた「記憶は生きている」といった表現も理解できるのかもしれません。 すみません、もう一人で突っ走ってしまって、意味解らないですよね。 今回、ご回答とお礼がうまくかみ合わず、kigurumi様の脳の中を推測するのも侭ならず、お礼も大変遅れてしまいました、結局、ニューロンの発火やシナプスを見ても、実際の記憶が見えないことが悩みの種なのです。 さらに、記憶の再現と記憶の照合もよく考えないといけない、例えば、再現できない記憶は意味がありませんから記憶とも言えない、この辺りは、量子力学のコペンハーゲン解釈に近い所がありますが、記憶という高度な生命現象を、量子レベルに還元するのも、一寸無理が有るような気がします。出来るという仮説の本も有りましたが。 記憶は曖昧、確かに脳のなかのエネルギー節約のため、簡素化するのですが、電話番号なんかの短期記憶では、曖昧とも言えず、悩みの尽きないところです。この辺りの違いを突付くのが良いのか、或いは別の違いがあるのか、ともかく、記憶には色々な違いがあるらしいですから、どの辺りを突付くか、これからも考えたいと思っています。 なかなか噛み合わない対話になってしまいましたが、今後とも宜しくお願いします。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

>ご紹介頂いた本は、数年前に読んで、印象に残る良い本でした。 >確か最後に、デジタルな数列から記憶を再現する例が有ったような >気がしますが その個所を読んだ私の印象は、<人間はそっくりそのままを記憶できない(そっくり再現できない)という欠点があることによって、逆に新しいものを創造できる>ということを、数字を使って説明している でした。 >「バナナ」を見たとき、それが何かと判断する、最初の照合は >どの様に行われるのか?もし、初めてバナナを見た人は、バナナの >記憶をどの様に保持するのか? 最初に匂いだと思います。次に味。堅さ。 クオリアは視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚からだいたい作られていると思います。 赤ん坊は視覚・聴覚・触覚の後、臭覚・味覚として無意識に?あるいは知覚しようとして物を口に入れる。 昔のバナナは今のようにおいしいものではなかったそうですが、食べ物と判断したらひとまず食べたでしょう。 食べたとき、視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚のクオリアが脳にデータとして蓄積され、後にバナナエッセンスの入ったプリンを出されたら、形は違えどなんか覚えある、、、、バナナ?と認識するのではないかと。 理由はバナナと同じ味がするから。 実際は匂いですが味だと誤認識する。 (この人間の誤認識、そのものをそっくり記憶できない、を利用して、バナナエッセンスなるものは作られたのではないかと。) 逆に一部でしか認識できないもの、例えば月や星 は視覚でしか認識できないのですが、人間の持つ創造の能力により、神話がたくさんできちゃいます。 どれも本来の月を表してはいないにの、何故か手の届かない月に人格すらつけてしまいます。 人間おそるべし。 >二本のバナナを二人で分けて、どちらのバナナが私のもので、 >もう一つがあなたのものだと記憶は出来るのか? それは取り決めで「はい」って相手に渡して、残りをその場でモグモグと食べれば、自分のバナナは腹の中に入ったという記憶がありますので、相手の手の持つバナナを見て「俺のバナナだ よこせ」とは普通言えないはずですが。 もし、自分は食べてない 俺のバナナをよこせ と主張することが頻繁に起れば、脳に問題があるとなり、検査の結果 問題のレベルに応じて場合によっては後見人などと決めその人は保護されるのではないかと。 >顔そのものは記憶していないのに、同じ顔だと分かる、 脳のある部分に障害を持つと、人相を記憶できなくなります。 何度会っても初めてだとしか思えなくなります。 長年連れ添った夫婦でも、相手が見たことも無い他人だとしか思えなくなります。 脳の破損した部分によっては、人の顔に表れる感情を読み取ることが困難になり、泣いている顔の写真を見ても「・・・うーーん 笑っている  かな?」と答えてしまいます。 実際は喜怒哀楽の表情がわからないので、苦し紛れに 笑っている? と答えたにしかすぎない。 カプラグ妄想と呼ばれるものだったと思いますが、親の声だとは認識するのに、顔を見ると「あんた誰」になってしまう。 声も顔も親そのもの、だけど親ではないと断言する。 他人に対してはそれが無いのに、親に対してだけ起る。 それで肉親のクオリアの最重要なデータは、別なところにも記憶され、それを使って肉親だと、他人とは又違う強い執着を持つようになるのではないかと。 これって 脳の中の幽霊 に書いてあったと思います。 >バナナを食べて、林檎の味がしたら(クオリアは記憶(再現) >できない)のに、違和感というより驚くはずです。 はい、この前、肉まんをコンビニで買いました。 105円の肉まんではなく、210円の特製肉まんを買いました。 ほくほくして家に帰って ペラっと後ろの皮をめくるり、皮がわずかにオレンジのプツプツがあるのを「特製だからさすが少し違う」と思い「いっただっきまーーす」と噛み付きました。 一瞬 フリーズしました。 私の肉まんに対するクオリアが蘇らない。 ばかりか、ピザのクオリアが蘇った。 確かめるべく、私に目で見ろと指令がいったようで、口からその偽肉まんを引き離しました。 視覚により確認。  トマトペースト色。  一度もピザまんを食べたことが無い私でも、ピザは食べたことがあり、ピザまんなるものがあると知っており、それで「ピザまんだーーーー!」というジャッジが下せました。 驚きの後は怒りです。 だってピザまんは嫌いで、しかもわたしが払ったのは210円ですが、ピザまんは105円なんです。 店員は105円の肉まんは今切れているから、特製肉まんしかないといいながら、何故ピザまんを入れたのか。 すごいことやってくれました。 悲哀。 視覚でも判断でも、肉まんとは若干違う色(オレンジのプツプツ)だと判断できるのに。 彼の肉まんに対するクオリアは、どうなっているのか、私にはわかりません。 みんな疲れている・・・と思うことにしました。

fishbowl66
質問者

お礼

面白い体験談、思わずニヤニヤしながら拝読いたしました。 池谷さんの本、仰るような事が書いてありましたね、思い出したような気になります。 不思議な事に、あの本の読書録が見つからないのです、私の記憶も曖昧で。 当時は古いパソコンを使っていて、池谷さんのホームページも面白かった記憶がありますね。 全然勉強になっていないのですが(笑。もう一度読む価値ありですね。 二本のバナナの例えは不出来でしたね、別の比喩も思いつきません。 一番の問題点はクオリアですね。 脳のなかの幽霊には、シェイクスピアの 「ご馳走を想像するだけでは飢えの瀬戸際にある食欲を満たすことはできない」 という言葉を第五章と第十二章で繰り返し引用してクオリアそのものを再現させる事は出来ない、但し記憶は出来るらしい。ピザまんのクオリアという時に、味覚としての物質の知覚とクオリアの関係の理解の仕方が違うみたいですね。 私が「クオリア」という言葉を使うとき、単独で再現出来ない生の感覚。 しかし、顔と同じように、再現できないが、知覚すれば同じと認識できる。結局、記憶できる事になって、前回のお礼とニュアンスが変わってきますね。それでも、バナナの黄色は、バナナの表面ではなく、人間の視覚器官の中で生成されるでしょ。知覚を媒介として「クオリア」は生成されるとすると、記憶の役割はどこへ行くのか?私に黄色いバナナが見え、頭の中にはバナナという言葉と、関連概念がその後に続く。 ところが、幻視や幻肢はどこからとも現れる。 記憶と再現が混乱して、私も疲れているみたい(笑。 カプラグの件はラマさんの第八章かな、又読んで見ます。 ところで、kigurumi様 私の質問を簡単に抽象すると 記憶は単一なものか、あるいは均質なのか、それとも、記憶には差異があるか、 ですが、それに対するご回答は頂けたのでしょうか、それとも、私の理解不足でしょうか。 ご回答有難うございました、このお礼がピザまんに成りませんように。

  • moritan2
  • ベストアンサー率25% (168/670)
回答No.2

顔の記憶についてのみですが、答えさせていただきます。 人間の脳にはある、特定の形に対してのみ反応するする神経の回路があり、たとえば、三角とか四角、丸などに反応する神経の回路が存在します。顔の特徴は言葉で表現できなくても、人間の脳には人間の顔のいろいろな特徴に反応する回路が大量にあります。これらの回路を利用して、人間は顔は映像で記憶するのではなく、どんな回路が反応したかを記憶しています。これらは無意識の内に行われるので、言葉では表現できませんが、ある種の概念化を行って記憶しているということだと思います。 映像ではないので、情報量は少なくなりますが、見る角度が違ったり、髪型が変わっていても、特徴は似ているので同じ人だとわかります。また、少ない情報量にできるので、記憶が容易です。その代償として、再現ができません。

fishbowl66
質問者

お礼

御礼が遅くなり失礼しました。 顔の記憶に関してのご説明有難うございます。 顔ニューロンというものが有って特徴を記憶しているという説明は、色んな本で読んでいます。 ただこの様に、文章にすると分かったような気になるのですが、例えば記憶が、脳の中で記号に翻訳されているとすると、#1仰るような映像的な記憶が再現できる事が、理屈として解らなくなる。例えば「クオリアは記憶(再現)できない」これは正しい表現だと思うのですが(クオリアの意味は難しいですが、一先ず、赤さとか痛さとかの生の感覚・例えば眼を閉じて目の前を真っ赤にしようとしても出来ない為、生の感覚を再現することはできない)、ところが、幻視や幻肢の様な、存在しないはずのクオリアが再現されるのも事実らしいのです。 そうすると、正しいはずの「クオリアは記憶(再現)できない」と整合的に理解するのが困難になってしまいます。 後程、補足欄をお借りして、質問の意図の修正をさせて頂きます。 記憶の特徴を考えると、顔のような、同じだと気付く事と九九の暗誦の様に再現する記憶の差異を何か気がつきましたら又よろしくお願いします。 ご回答有難うございました、御礼が遅くなったことを重ねてお詫びします。

fishbowl66
質問者

補足

失礼します。この質問は投稿時に文字制限に引っかかって、文字数を減らしました。 その結果、哲学的というより、脳の生理学的な質問と受け取られそうなので、最初の引用を、当初の予定の文字数で此方に紹介しておきます。 「心」とは生物が進化してくる道筋の、どこかある時点で生まれてきたに違いないと思えてくる。それならば、どこで? 生物に「記憶」が誕生したときからというのが、これから話そうとしている仮説である。これははなはだ奇妙に聞こえる。心の起源というからには、もっと堂々としたものが出てきそうなものなのに、何の変哲もない「記憶」とは。しかし、また考えてみて欲しい。ここに記憶のまだそなわらない生物がいたとしたら、その生物にとって時間というものはなくなる。なぜなら、時間とは記憶が降り積もったものにほかならないから。またその生物には空間というものもなくなる。なぜなら、空間とは記憶の延長からつくられるものだから。「はしがき」 心の起源 木下清一郎 又、質問文の >その人の顔を、絵に描いたり出来る為には、 この表現のために、実際の行為を連想させてしまいましたが、この質問は総て脳のなかの、再現・記憶・連想に関しての質問です。#1様にも誤解をされ、この場をお借りして、お詫びと訂正をさせて頂きます。

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.1

私は、嗅覚や味覚の記憶も再現できません。 ただ、何回も読んでいた本を視覚的に記憶した経験はあります。 頭のなかで、視覚的に文字を見ることができたのです。 毎日毎日見ていたので、そういうことができたのですが、これがもし、簡単にできたなら、試験勉強も楽勝だったことでしょう。 実際にはなくて、ただ頭に浮かんだイメージを記憶することもできました。これは、記憶とは呼ばないかもしれませんが。 再現できるかできないかは、確かに重要なところです。 ただ、手が自由に動かないなどの理由で、再現できないとしたらつまらないことになります。 ですから、心理実験的な方法では、意味を見出せないかもしれませんが、

fishbowl66
質問者

お礼

>頭のなかで、視覚的に文字を見ることができたのです。 これが悩みの種(笑。見える人も居るらしいのです。 私の場合、眼を閉じて、毎日見ている顔とか、毎日乗っている車を思い浮かべてみても、確かに記憶していると感じる事は出来ても、表象と言う言葉が合うのか分かりませんが、夢を見るような形で再現できないのです。 確かに、人の脳のなかに入り込むことはできませんから、この質問は微妙な問題がありそうですが、試してみたかったのです(笑。 >頭のなかで、視覚的に文字を見ることができたのです。 これは文字どおり、眼を閉じて、文字が浮かび上がったのですか? 記憶の再現に関しては、ベルクソンも「記憶心像」という言葉を使っていて、私が異常なのかとも考えています。 貴重なご体験を含めて、ご回答有難うございました。

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    伺います。 大脳皮質の部分に現在の記憶があり、前頭葉などでコントロールしているというのは知っています。 人間が初めて歩行したり、火を使ったり、という原始からの記憶は大脳皮質の内側の原始脳の部分にあるというのもよく本に書いてあると思います(違う場合は言って下さい)。 忘れていたと思ったことでも、あとで、光景やそのとき聞いた言葉まで詳細を思い出すこともあります。コントロール部が認識していないだけで、どこかに格納されていたという事だと思います。 そうしますと、医学が進むと、初めて立ったとき、隣にいた原人の「ウォー」(仮名)とか「ガオー」(仮名)の顔、そのころの地表の様子など、原始時代の詳細などヴィジュアルもともなって思い出すことってできるようになるのでしょうか?

  • ほにゃらか形而左右学 テレビ

     先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。  まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。  少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。  さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。  質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。

  • ほにゃらか形而左右学 敬語(2)

    お騒がせします。 皆様、敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、 どちらか、ご存知でしたら、教えてください。 以下余白

  • ほにゃらか形而左右学 敬語(3)

    お世話になります。 敬語について、あれこれ考えてみたのですが、 沢山の有意義なご回答を頂きながら、敬語を掴み切る事が出来ません。 敬語は、思った以上に、手強く興味深い対象のようです。 例えば、 1)敬語は敬意を表わす、言語表現である。 2)敬語は上下関係を明示する、言語規則である。 3)敬語は内外の関係を明示する、言語コードである。 4)敬語は恐れを隠す、コミュニケーションの道具である。 5)敬語は第三者間の上下関係を表わす、言語記号である。 ・・・等々 後を、表現・規則・コード・道具・記号としましたがどれも間違いではないような。 そこで、敬語も言語の一つですから、記号論によせて、考えてみてはと思いつき、又してもお願いいたします。 記号論の伝統的定義は、記号は「他の何かを代表する何か」と言う事でしょうか。 但し、記号論は西洋の思想で、名詞句に関しては比較的分かりやすいですが、日本の敬語のように語尾変化・追加等々で敬意・意味に違いをつける場合、なかなか判りにくいですね。 拝見、愚考と言った謙譲語はまだしも、召し上がる、ご覧下さる、と言ったある意味重複しているような場合、はたして記号なのか、つまり、シニフィアンとシニフィエの対の関係もはっきりしません。また、する、を、しなさる、しなされる、と言い換えて、なぜ敬語になるのか。 成立の問題ではなく、意味論的に、例えば「れ」は敬意を意味するのか、とか。 今回の出発地点を要約すると、 詞と辞の違いは日本独特のようで、詞だけでなく、辞の意味作用をシニファイン・シニフィエの表裏と言う比喩で、解決できるのでしょうか。 以前の続きも歓迎いたします。宜しくお願いします。