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江戸の銭湯と武士

noname#25898の回答

noname#25898
noname#25898
回答No.3

銭湯の絵などは、比較的多く残っているようです。 まず、湯殿と、脱衣所の間に仕切りがあり、入り口が、ごく、小さく作られています。 お湯をたっぷり使うというより、蒸気で、蒸して、汚れを浮き立たせてから、最小限のお湯で、洗い流すという、方式だったのでは、ないでしょうか。 湯女、垢かき女もいたようですね。 女性は、明るいうちに、銭湯へ、行ってお侍さんとかち合わないように、という不文律もあったようです。 お侍さんのうちには、男湯へ、かよう人もゼロでは、ないと、思いますが、まげが町人と、違うので、無用な、トラブルは、避けられると思います。 家が密集しているところでは、内風呂は、ダメだったかもしれませんね。 武士のお内儀と、町人の娘さんが、ひとつのお風呂に入ることも、当然あったでしょうね。 男女とも、洗髪は、自宅でしていたのでは、ないでしょうか。 鬢付け油が、ありますから。 夏だったら、自宅で、行水でも、OKですね。

you-san
質問者

お礼

なるほど、そうですか。銭湯の女湯に武士が入るとなると、女性は明るい内に行って侍と会わないようにする・・・これも智恵ですね。 湯殿と脱衣所の仕切りを柘榴口と言ったというのは何かで読みました。それと、odachanさんがおっしゃるように、江戸の宝永頃からは湯船に湯を張って入ったそうですが、それまでは蒸し風呂だったそうですね。 男は湯褌、女は湯巻を着けて入ったとか。裸で入るようになって、風紀が乱れたとも書いてありました。私の質問の本筋からはかなり外れますけど(笑)。いろいろ参考になりました。ありがとうございました。

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