• ベストアンサー

小説「闇の奥」の斃猫という単語について

コンラッドの小説「闇の奥」の中の104ページ一行目に「あらゆる文明の斃猫」という文がでてくるのですが、斃猫(へいびょう)とはどのようないみなのでしょうか、斃は死ぬと言うことなので死んだ猫という意味なのかもしれませんが、だとしたらなぜここでそのような表現をつかったのか、どうしてもわかりません。文学の解釈に詳しい方おしえてくだい。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shiremono
  • ベストアンサー率70% (187/267)
回答No.1

コンラッド研究や文学理論については無知な、たんなる読者としての回答です。 Project Gutenberg のテキスト (どの版にあたるのかもわかりません) で調べると、「あらゆる文明の斃猫」 の 「斃猫」 は、いかにも 「死んだ猫」 (all the dead cats of civilization) です。 さらにこの作品中にあらわれる 「猫」 (cat) を検索してみると、5ヶ所ありました。 (1) ブリュッセルの貿易会社の採用面接で編物をしながら受付をしていた2人の女性のうち、年とった方のひざの上にいた 「猫」。 (2) 霧の中で船の見張りをしたマーロウ自身についてのたとえ。「猫」 がネズミを見張るように。 (3) 黒んぼ (niggers) が川岸から射かけてきた矢についてのたとえ。毒が塗ってあったのかもしれないが、 「猫」 も殺せそうにはみえなかった。   (4) 文明社会のあらゆる無価値なもののたとえ。ご質問の箇所。 (5) 船から姿を消したクルツを捜索するために上陸したときに浮かんだ、へんてこりんな連想。 (1) の 「猫」 をひざにのせた老婦人。そこからさらに、森にとけこもうとするおかしな空想がふくらむ。 こうしてならべてみると、「猫」 にこめられた象徴的な意味をみとめることもできそうな気がします。文明=ごみため=死んだ猫、というつながりは、かならずしもとっぴな比喩ではなく、一貫性があるようにも思われてくるのです。

ooesyundei
質問者

お礼

ありがとうございました。とても分かりやすく意味が飲み込めました。

関連するQ&A

  • 上流河区と言う単語の河区について

    ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」の中で、上流河区という言葉が出てきたのですが、河区とはどういう意味なのでしょうか。また読み方はカワクと読めばいいのかそれともコウクと読んだらいいのかそれも単語の意味と一緒におしえてください。

  • 小説の解釈

    どなたのなんという小説かもわからないのですが、引用文の最後、 「疲れかたをや、だろう」という文の解釈に困っています。 <引用> 「逃げることよりも、逃げるために置いてきたものを思うのが疲れるんだ」 と言った。 モウリさんはどうやら置いてきたものが多いらしかった。 わたしは、一つ二つしか、置いてきたものはない。 その一つ二つでさえ持て余しているのだから、モウリさんの疲れかたをや、 だろう。<引用終> 「どんなに疲れるだろうか」という意味なのかとおもうのですが、どうして、こういう 表現をするのでしょうか?小説なので作者の方の表現方法なのでしょうか? それともこのような表現方法があるのでしょうか?日本語に詳しい方教えてください。

  • 真相は『闇・藪』の中???

    芥川龍之介の作品、『藪の中』を見て、関係資料や文献を探すがてらパソコンをいじっていたのですが、その時に「関係者の言うことが食い違うなどして、真相がわからないこと。」という意味の言葉で辞書にも載っている事を知りました。 私は「真相は~」に続く言葉を何故か「闇の中」だと思い込んでおりました(個人的な解釈としては「ただ純粋に真相が解らない状態」)。 そこで「闇の中」を調べてみたんですが、言葉の表現として該当ページは幾らか存在するものの、意味の詳細の書いたページ、辞書からは見つかりませんでした。 この「闇の中」というのは「藪の中」の誤りなのでしょうか? それとも全く別の言葉として存在するのでしょうか? 存在するならその意味と違いはなんでしょうか? お手数ですが、御存知の方、教えて頂ければ幸いです。m(__)m"

  • 表現のうまい文章の小説を教えて!

    最近、どの小説を読んでいても、説明文でうんざりさせられてしまいます。 それなら詩とか俳句とかを読め!といわれそうですが、違うのです。 広告のキャッチフレーズ集とか、グルメな表現文の本などを読んでからというもの、小説の説明描写は想像がいちいち断ち切られて、何が言いたいのかわからないうちに物語にも心が離れてしまうのです。 ただ当たり前のことを、気持ちよく感じさせてほしいのです。ファンタジーでも、ドキドキさせてくれるなら読みたいです(でもミヒャエル・エンデとかハリー・ポッターとかまるでダメ。かろうじてロードス島)。 今までで、表現が良かったと思う小説の作家は、田中芳樹と吉本ばななです。 一人称の小説やブログは読みやすいですが、そういう意味ではなく、一行一行をじっくり味わえる文章を読みたいです。 よろしくお願いいたします。

  • 英文学と人種差別

    近代~現代の英文学に見られる人種観、特に差別問題について調べています。 黒人・有色人種を始め、異人種に対する差別的な表現(容姿や行動などについて)が顕著に見られる英文学作品をご存じでしたら是非教えてください。 特に、異人種の一部を野蛮な食人種(カニバル)に見なしたりするような描写が登場する作品を探しています。 いろいろ考えましたが、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」とコンラッドの「闇の奥」ぐらいしか思いつかないのです。 他に思い当たる作品がありましたら教えてください。

  • 漫画や小説の文法

    漫画や小説で、文に「※」がついて、ページの端っこに補足が書かれてることがあります。 文のすぐ下に()で補足を付けたものでなく、「※」を用いたものです。 この表現方法に名前はあるのでしょうか?

  • 小説を読んでいてわからないところがありました。

    さる小説の会話文に「今にうちにつくと飛びきりのご馳走をこしらえてやるよ」とあったのですが、ここの「今にうちにつくと」の「と」は文法的にはどのような意味を表しているのでしょうか? たとえば「学校につくと、ベルが鳴った」のように二つの動作や作用が継起的に起こることを表しているのでしょうか? そもそも件の会話文の「今にうちにつくと」は、間違った表現なのでしょうか?ふつうは、たとえば「今にうちにつく、そうしたら飛びきりのご馳走をこしらえてやるよ」のように表現するような気がするのですが・・・。 説明が下手で大変申し訳ありませんが、回答して頂けると嬉しいです。

  • web小説の文体

    これまでweb小説を読む時間のゆとりがなく、最近、素人の小説投稿サイト(複数)を見て回っていて、非常に気になることがあります。 閲覧したサイトの作者さんたちは、みな、10代、20代の若い世代で、男性も女性も、ゲーム作品を自分の趣味で(ファン作品として)、投稿している人たちです。 で、質問です。 地の文 地の文 地の文 (一行の空行) 「会話」 「会話」 「会話」 (一行の空行) 地の文 地の文・・・ という、形式で書かれたものが、ほとんどでした。(僕の閲覧した投稿小説のすべてがそうでした) これは、どういう文化なのか、こうした形式の文体は、初めて体験しました。 通常の小説では、例えばですが、 地の文、 地の文、 「会話」  と、彼女は言いながら席を立ち、 「でもね、あたしは…」  顔を伏せて、言いよどんだ。 すみません、即興で適当な例ですが、 こんな具合に、会話だけが独立していることはないように思います。 これまで、多くの書籍に触れてきましたが、空行を開けて、会話文だけが独立している書き方では、二人の会話は成立しても、三人以上での会話を表現するのは、難しいだろうと感じました。(僕の閲覧した投稿小説は、すべて二人での会話でした) それに、これが一番気になったのですが、その会話がどういう感じで話されていたのか、「会話文」のあとに、なにもない。場面によってはそうした小説の表現もあると思いますけれども、とにかく、みな一様に、独特の文体が使われていました。 これが最近の若い人たちの書き方というものなんでしょうか。 マンガの影響なのかなと思いましたが、みなさんのご意見を伺いたく思います。 とても気になります。 (僕は、ゲームを一度もしたことのない中年世代でして、もしかするとゲームのシナリオの書き方の影響なのだろうかとも考えています) …うまく、聞きたい内容が書き表せたか心配です。

  • チェシャ猫の笑い

    よく文学論に「チェシャ猫の笑い」という表現がありますが、 これはいったい、どういう意味なのでしょうか。 例えば、「私はそのことにチェシャ猫の笑いを感じる」という文は、 いったい、どういう意味なのでしょうか。 「チェシャ猫」が、「不思議な国のアリス」の登場キャラクターであることは、一応、知ってはいるのですが・・・・。 よろしくおねがいします。

  • 「怪人フーマンチュー」と魯迅の小説「離婚」に出てきた単語について教えてください。

    「怪人フーマンチュー作サックスローマー、創元社発行」に出てきた単語の中に「七大人」単語がありました。出て来た箇所は64ページ一行目上段「長老エンスンヤットは七大人の一人ですよ!」と載っていました。そして、魯迅の「離婚」という小説の中にも「そこには七大人(しちたいじん)も招かれている。」とか「調停が七大人を交えて、尉老爺の屋敷で行なわれていることになっていた。」と書かれていました。「七大人」とはどのような意味なのか魯迅の「離婚」や「怪人フーマンチュー」を読まれた方ぜひ教えてください。