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学校は個人の個性をどのように扱うべきか?
学校は個人の個性をもっと重視すべきだと思いますか? 個性を活かせるように配慮したり、児童・生徒の個性を前向きに理解するべきか否か。 現在の学校の状況をふまえて、どう思われるかご意見を教えてください。 また、このトピックに関連するサイトがありましたら、教えてください。 宜しくお願い致します。
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「英語」カテのLです。以下は大体文部省の教育方針に沿った、東京都の教育の目標です。 東京都教育委員会の教育目標 教育は、常に、普遍的かつ個性的な文化の創造と豊かな社会の実現を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として自主的精神にみちた健全な人間の育成と、わが国の歴史や文化を尊重し国際社会に生きる日本人の育成とを期して、行われなければならない。 同時に、教育は、社会の変化に対応して絶えずそのあり方を見直していかなければならないものであり、経済・社会のグロ-バル化、情報技術革命、地球環境問題、少子高齢化など、時代の変化に主体的に対応し、日本の未来を担う人間を育成する教育が、重要になっている。 東京都教育委員会は、このような考え方に立って、以下の「教育目標」に基づき、区市町村教育委員会と連携して、積極的に教育行政を推進していく。 東京都教育委員会は、子どもたちが、知性、感性、道徳心や体力をはぐくみ、人間性豊かに成長することを願い、 ○ 互いの人格を尊重し、思いやりと規範意識のある人間 ○ 社会の一員として、社会に貢献しようとする人間 ○ 自ら学び考え行動する、個性と創造力豊かな人間 の育成に向けた教育を重視する。 また、学校教育及び社会教育を充実し、だれもが生涯を通じ、あらゆる場で学び、支え合うことができる社会の実現を図る。 そして、教育は、家庭、学校及び地域のそれぞれが責任を果たし、連携して行われなければならないものであるとの認識に立って、すべての都民が教育に参加することを目指していく。 (平成13年1月11日東京都教育委員会決定) さて皆さんが議論を戦わせておられることに関して、私ごときが横槍を入れようなどという気はさらさらありません。 明治維新以来の軍国主義や教育勅語が太平洋戦争の敗北を境に崩壊し、新生日本の民主主義教育が始まった。そしてその、「国としての教育」も時代の変遷とともにどんどん変革し、人々はひとえに日本の将来を憂え、良きものにしようとずっと努力してきた。「個性やゆとり」教育が叫ばれるようになったのも、その流れの一環であり、明確な答えなど誰にもまだ分からないところだというのが、現状だと思います。 「個性」教育が叫ばれるようになったいきさつは、これまでの戦後教育が、戦争で荒廃した国土を復興し先進国に政治的にも、文化的にも、経済的にも追いつけ、追い越せと国民全体が一丸となって、がんばろうという考え方から、画一的で、簡単に言えば、「みんな同じものを学び、みんなで頭良くなろう、みんなで欧米に追いつこう」的教育だったわけで、今日すでにその目標を達成した今、その教育が破綻してきたのも当然の成り行きと言えるでしょう。そしてその uniformity の歪みを是正しようと言う動きの大きな核と言えるものが「個性」教育なのです。 私は高等学校で英語をもう10 年近く教えてますが、「個性」重視の教育の重要性は十二分に承知し、かつ私なりに個性を伸ばすような教え方をしてきているつもりです。しかし、謙遜ではなく、私の指導なんてクソです。難しいのです!
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何度もすみません。 No.10さんのお気持ち、よくわかります。 英語を教えて、本当に英語力を高め、教養をつけ、さまざまな仕事や文化活動の基礎を養うのが教育でしょう。 しかし、それでは過去問勉強組に成績の面で勝てない。 本当は、過去問をやって成績が伸びるような試験(評価)をするのが間違いです。 私の紹介した参考URLはそういうことを言っているのだと思います。 No.10さんがヨーロッパの学校で教えたら、優秀な先生と評価されるでしょう。 しかし、日本、中国、韓国等のアジアの国々の教育は、試験の成績で勝負しているだけ、に近いのではないでしょうか。 これがヨーロッパから、文化・モラル面で大きく差をつけられている原因だと思います。
お礼
再び回答をありがとうございます。 大人になってからだと、学校で学ぶことの意味が少し違う面から見ることができて、 漢字でも歴史でも科学でも、みんな役に立つのにって思えるんですけどね。 それを教養と呼ぶのだと思います。 いろいろ考えさせられます。 ありがとうございます。
- lukelivestrong
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「好きこそ物の上手」と言われ、人は何かに興味を覚えればそのことをとことん追求し、その道のエキスパートになりますよね!(それは人と比べてと言うより個々人の自分の中で、であろうが、日本一であろうが、エキスパートという概念は、人それぞれの価値観にゆだねるとして)。 そこで私は、生徒がどうしたら英語を好きになってくれるか?ということをもう 10 年も模索してますが、いまだ分からないという意味です。 中央教育審議会答申の中には、教師が教材研究を十分に行い、基礎を正しく生徒たちに教え込むことこそ、生徒達のやる気を起こさせる方法だと、述べています。ただその基礎を教える過程で生徒がやる気が起こらなければどうしようもないですよね! 昨年私はとある地元の私立高校の特進クラスを教えました。教材も、自前で、スポーツ選手の自伝的なものとか、エドワード・サイデンステッカーの著書とかからの引用を READING の教材にして、やってみました。しかし、生徒達の進研模試の成績が芳しくなかったものですから、他の英語の先生達からこっぴどい非難の嵐にさらされ、結局、その教材は、敢え無くお釈迦でした。 そこでそれなら、と進研模試の過去問をさんざんやらしたら、予想どうり、偏差値でクラスの総合点を 7点上げました。 でも、英語教育ってこれで良いのかってつくづく思い、なんかやりきれなくて、学校辞めちゃいました。 今は某県の採用試験を 8 月に受け、その結果を待っているところです。また私の住む県でも有名な私立高 校からお電話も、つい昨日いただいたところです。 なんて自分のことばかりで恐縮ですが…! (^_-)-☆
お礼
再び回答をありがとうございます。 なるほど・・・英語を生の言葉として興味を持つというよりは、 やっぱり学校教育としての科目として捉えてしまうからでしょうか。 私は今英語を通して何かを学ぶことが楽しくなってきています。 そんなときにlukelivestrongさんのような先生に出会えたら、 毎日がとっても楽しいだろうと思います。 新しい職場でまた違う発見や出会いがあるといいですね。 応援しています。 ありがとうございました。 またアドバイス、宜しくお願い致します。
No.7です。 私の勘違いがあったかもしれませんが。 日本の学校では、従来、まず全員にエリート教育をしていると思います。 将来、結局、大学教授になるにしても総理大臣でも寿司職人でも大工になるにしても、まずは同じ教育をする。そして学校の勉強について行けなくなった人から順番にレベルの下がる学校に入る。つまり一流大学出身者は成功者で、三流大学出身者は落ちこぼれだから、レベルの低い職業に就く(というと嫌味な言い方ですけど)のが日本の学歴・教育についての一般人の考え方ではないでしょうか。つまり、勉強のできる人が偉くて、優秀だという考えです。 minnnanouta33さんは、この枠組みの中で(この考え方を否定しないで)、個性をどう生かすか、と考えておられるのかと思ったのです。 一方、参考URLで言われているのは、この枠組みを否定しています。勉強ができるようになることを社会全体の目標にするな、とうのだと思います。 小学校(中学校?)を卒業する程度になれば、微積分に向くのか、スポーツ選手に向くのか、料理人に向くのかという大雑把な見通しは、本人にも親にも教師にもつくだろうから、無理に高等学校の普通科に入れる必要はない。微積分は無理だから算数の難しい程度のことをやらせておいて、高等学校卒業、そして三流大学卒業、という学歴だけ手に入れるのはばかばかしい、と言っているのだと思います。 中学を卒業して、とても学問には向かない子だと判断したなら、勉強ではなく他のことにその子の才能を見いだしてあげた方が「本来の教育」だと言っているようです。この「本来の教育」とは、本人に合った職業を見定めて、訓練し、社会人として生計が立てられるようにすることだ、という考えらしいです。これがドイツ流だというのでしょう。ドイツだけでなく、ヨーロッパはだいたいそうだと思いますけど。 ドイツの教育制度を賛美していますが、悪いところもあるわけで、参考URLでは、ドイツの教育の欠点には意識的に触れていないような気がします。 とにかく、たとえばですが、日本では「ラーメン屋さんが『西洋哲学の歴史的流れ』を説明できなくたっていいではないか」と主張すれば、それは「ラーメン屋さんに対する差別」である、と考えられていないでしょうか。 本当に、生徒の適性・個性を重んじるのであれば、学校(上の学校へ進学することを目標にした学校)に入れるばかりが能ではないと私も感じます。 ただ、勉強のできる子は、結局、良い大学を出て、フランス人のゴーンさんのように、どの職種でも大きな成果を上げる傾向はあるだろうな、とは思います。 でも、みんなにゴーンのようになれ、といわれてもそれは無理。あの学校はバカ学校などと言われながら通って、興味もないわからない話を半日以上聞かされるわけですから、学校に嫌気が差して暴れたり、教師を殴ったりしたくなる子もいるでしょう。 でも、あの参考URLのいうように日本の教育界・学校を変えようというのは100年かかっても無理だと思います。日本人・日本文化の特質を無視しているように思えます。紹介しておきながら、批判しちゃってすいません。
お礼
再度回答をありがとうございます。 そうですね、何にでも良い面とそうでない面がありますよね。 ドイツのやり方も、確かに画期的に見えますが、難しい点があるかも知れません。 日本の教育のありかたも、長年の間に文化を背景として培われてきたもので、なかなか一朝一夕には変えられないものでしょうね。 日本がゆとり教育以前の教育システムで、このような経済大国になったということは否めませんし。 本当にこの問題はいくら話し合っても答えが出ませんね。 でも話し合うことはよいことだと思うのです。 やはり無関心ではいられませんから。 ご意見をいろいろとお聞かせくださり、とても参考になりました。 ありがとうございます。
「個性」とは何かという定義が問題です。「ゆとり教育」の定義もはっきりさせないで議論がされることも多いです。 minnnanouta33さんは現在の学校での個性尊重についてご質問なのかもしれませんが、少子化と大学のレベル低下で、従来とは教育の意味や仕方が変わっていると思います。大学は専門学校化し始めています。大学が変わるのに応じて高校と中学も変質しはじめていると思います。 minnnanouta33さんとは違う視点から教育を考えているサイトを紹介します。
お礼
回答をありがとうございます。 ドイツの文化と日本の文化を比較したとても興味深いお話が載っていますね。 >違う視点から教育を考えている・・・ というのは、具体的にどの辺りになるのでしょうか? いくつか教育について書かれているところはありますが、 ちょっとよくわかりませんでした。 私の注意が足りないかも知れません。 (義務教育を終えた学生たちが何も考えずに高校へ進学すること、 将来どんな職業につくということを考慮に入れながら進学をしていない現状は述べられていましたね) 宜しければ補足回答いただけると嬉しいです。 宜しくお願いいたします。
麦は踏まれて強くなる。 雑草は岩をも砕く。 学校は、生徒の個性を強くたくましく成長させるための場です。 ちょっとやそっと押さえつけられたくらいでつぶれてしまうような個性など、本物の個性とは言えません。 個性をモヤシのように伸ばそうとするのが個性化教育だと思っているのならそれは誤りだと思います。
お礼
回答をありがとうございます。 なるほど、現在の学校はむしろ過保護に向かいすぎるという見方もできるかもしれませんね。 確かに私も学校生活ではいろんな(かわった)先生に出あい、苦労しました。 でも担任である以上、何とか切り抜けなくては・・というのは、その後の人生の教訓になっているかも知れません。 学校が「個性・個性」と言うほど、子供たちは必要には感じていないのかも知れませんね。
- thorium90
- ベストアンサー率20% (365/1769)
学校を出て学校で仕事をする。 学校の中でしかきびしい実社会を知らない教師が多いようなので 個性を出そうとしても実のないものになりがちで理解する能力も少なそうです。 受けるべき器が非常に小さい気がしますので個性的な教育はみこめないと思います。
お礼
回答をありがとうございます。 そうですね、先生の現実もみないといけませんね。 先生自体が個性というものをよくわかっていないのならば、 先生に期待はできませんね。
- anachronism
- ベストアンサー率31% (186/591)
> 個性を活かせるように配慮したり、児童・生徒の個性を前向きに理解するべきか否か。 そんな高等なことを、現在の教師たちに求めること自体、無理な話と思います。 よく考えてみてください。教師にもいろいろいますけれど、基本的には、大学で教職課程を修了し、せいぜい教育実習でほんの短期間、実習するだけで、教師としての資格を得るのです。実際、教員としての訓練らしい訓練を受けるでもなく、教師として採用され、他の先輩教員からも指導らしい指導も受けず、教師として働くのです。 何が言いたいかというと、要するに、教師というのは「普通の人」にすぎないのです。でも、どういうわけか、日本人は教師というものに必要以上の期待をしているように思います。「先生」などと敬称をつけて呼ぶことにも、それが現れているのではないでしょうか。 もちろん、「良い教師」というのは、少なからずいます。ですが、それは普通の人にも「良い人」も「悪い人」もいるのと同じで、「教師だから良い人」などということは、ありえません。教師も「普通の人」であるということ、これは重要な前提です。 「普通の人」に、毎年何十人もの生徒の「個性を理解する」とか、ましてや「個性を伸ばす」なんて、聖人君子みたいなことを求めるのは、無理というものです。私だって、そんなことを求められたら無理だと答えます。子供の個性を理解し、伸ばしてやれるものがあるとすれば、その子の親か、それに代わり得るような存在でしかないでしょう。 ですから、「個性を理解し、尊重し、伸ばしてやるのは親の責務」であって、学校に頼るべきではない、と、考えます。これが一点目。 ですが、質問者様のおっしゃることもわかります。 今の学校、教師たちは、子供をどういう子供に育てようと思っているのでしょうか。これは、「教師」が、どんな子供たちを望むのか、ということを考えてみればヒントになります。 もちろん、「個性豊かで思いやりがあり、独創的で自発性のある子供」と、いうようなところが、模範解答でしょうか。 ですが、本音としてはどうでしょう。 私の経験上、教師が子供たちに本音で望んでいるのは、「手がかからない」「問題を起こさない」ことであって、したがって、「予想以外のことをしない」「まわりと摩擦を起こさない」ことが、一番良い子供、ということになります。それ自体は、「労働者」としては、仕方の無いところです。 ですが、子供が「個性的」であれば、予想外のことをして、周りと摩擦を起こし、手がかかるし、時には問題も起こします。そういうとき、教師は「協調性を持ちなさい」とか、「常識を持て」といって、生徒を指導します。その結果、教師は生徒の個性をつぶして回ることが多々あるわけです。 ですから、教師には「生徒の個性をつぶさないように」というくらいは、望んでもいいかもしれません。それを以って、「個性を活かせるように配慮したり、児童・生徒の個性を前向きに理解する」というのであれば、そうかもしれません。これが二点目です。 まとめると、教師には、「個性を活かせるように」とか、「前向きに理解する」ということではなく、「個性をつぶさないように」求めることが、精一杯だと思います。子供の個性を伸ばすのであれば、何よりも親の努力が大事でしょう。
お礼
回答をありがとうございます。 いつもとても発見のあるご意見をいただけて感謝しています。 ちょっと違った視点からのご意見で、参考になります。 そうですね、教師・学校に求めすぎているのかも知れません。 私は個人がいろいろなことを考えることができるような教育というのがいいのではないかなぁと思います。 たとえば学校の教科書で習うことをただ詰め込むだけではなく、その事実を踏まえた上で、自分ならこう思う、こういう方法ではどうだろうか?というように、自分の考えや意見を比較的自由に出せる場が欲しいと思います。 日本人がグループ意識が強く、他の人と違っていることを嫌う文化に生きる以上、このような試みは実現するのが難しいかも知れませんが、将来国際社会で活躍する人材を作るためにも、日常的にこのような自分から情報を発信するという訓練や習慣は必要だと思います。 またトンチンカンなことを言っているようでしたら、ご指摘ください。
- yeslets
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「個性とは何か」という定義をしなければならないことは言うまでもありませんが・・・・ 社会では「個性」が嫌われます。 我々の高校時代は今よりももっと窮屈な校則で縛られていました。 「制服のズボンの裾は22.5cm以内とする」 なんて校則があったのです(私の高校)。 でも、それに反抗していたいわゆる「不良」たちだって、みんな同じ格好(不良の制服とでもいいますか)をしていたんですよ。 今も同じでしょう。スカートを短く穿いたり、ズボンを下げて「半ケツ」にしたり、結局同じ格好をしていますね。 日本人にとっての個性なんてそんなもんなんですよ。 会社にはいると、余計に個性は嫌われます。 だから学校が個性を嫌うのはあたりまえなのです。 「個性の尊重」を唱った指導要領でさえ、 「固性」と思えるような方針でしたから・・・・。
お礼
回答をありがとうございます。 結局、個性は日本の社会では好ましく思われないことなんですよね。 社会に出てから一層好ましく思われないことのために、 学校が努力するというのもおかしな話です。 個性を尊重すると一口に言っても、 日本に深く根付いている文化なしには、語れないという気がしています。 自分の国のことですが、本当にこういう問題があるんだなぁと改めて思いました。 私は日本人特有のグループ意識にあまり心地よさを感じていないので、 私自身は個性を嫌う社会を問題だととらえてしまいますが、 一般的には問題だという捉え方をしない人も多いのでしょうね。
- ucok
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まずは受け皿をこそ「もっと」整えてから、更なる個性重視を目指すべきでしょう。なぜならば、個性重視を急速に進めたものの、受け皿が整っていなかったので、いろいろな問題が生じているからです。 ほんの一例ではありますが、6月21日のNHK「クローズアップ現代」で、学級崩壊は、個性重視による価値観の多様化に学校が付いていけていなかったのが一因だったと指摘していました。
- 参考URL:
- http://www.nhk.or.jp/gendai/
お礼
回答をありがとうございます。 この番組はいろいろな問題提起をしていますね。 私ももっと観なくては! この日の番組、もっと観たかったです!
- t78abyrf9c
- ベストアンサー率47% (3029/6402)
「個人」や「個性」云々を言う前に、「日本人における『個人』とは何なのか?」を考えない事には先に進めないと思います。 http://nokai.jp/k-column/reader/wao_rea_02_01.html http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html http://www.josuikai.net/josuikai/21f/main53-1.htm それと、江戸時代には今以上に「尊異論」の思想があったようなので、それをどうやって今の教育に取り入れていくのかが課題だと思ってます。 http://www1.seaple.icc.ne.jp/t-hirose/text/edoshigusa/antre.html http://d.hatena.ne.jp/mensch/20060627 http://www.asahi-mullion.com/column/edo/list.html
お礼
回答をありがとうございます。 いろいろなサイト、とても参考になります。 個人の個性を伸ばすというのは、一言で言えないむつかしさがありますね。
お礼
こちらでも回答くださりありがとうございます。 回答、とても興味深く拝見しました。 「個性」教育が叫ばれるようになったいきさつがとてもよくまとめられていて参考になりました。 確かに戦後から、日本が経済大国に発達するまでの教育と、ピークを迎えてからの教育のあり方は大きく変わって当然ですね。そのところも押さえておきたいポイントです。 最後の行に、 >難しいのです! とありますが、lukelivestrongさんが高等学校で英語教師をされていて、 どんな点が難しいと思うのかとても知りたいと思いました。 もし差し支えなければ、教えていただけないでしょうか? 宜しくお願い致します。