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荒れた学校は、本当に変えられるのでしょうか?
日ごろの行いが悪い生徒が多いことで、学校が荒れるケースがしばしばあると聞きますが、例えば授業妨害や、素行不良などをあたかも当たり前のように起こす生徒たちによって、学校の雰囲気が悪くなってしまったとき、その解決にはご多分な苦労があるだろうと思います。 また、最近はモンスターペアレントで先生が思わぬ締め付けを受けるケースが多くなりました。 このような新しい物も含め、多くの問題によって、退職やうつ病にかかる教師が多いとも聞きます。 しかし、ニュースやサイトなどを色々見てみると、なかなか解決しないからと、完全にあきらめてしまう方もいるようです。しかしそれは恐らくいけないことではとも思えます。 僕としては、どんなにきれいであろうが、汚くあろうが、学校は学校で一緒だと思っています。 生徒(児童)たちが学校に来て勉強するのは、少なくとも希望のある未来のためだということです。そんな時期に、悪い人を悪いままに、放っておくのは、その人の未来をも殺してしまうことを意味しかねないだろうと思います。 果たして、このように荒れた学校を解決するうえで効果的な方法とは、本当にあるのでしょうか?
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確か、1ヶ月は経っていないと思うのですが、最近の朝日新聞に、千葉県の荒れた公立高校を2年ほど前に建て直した例が載っていました。教師側が、生徒の規律を厳しく正すようにして、それと同時に生徒の励みになるような部活をより充実させ、授業も常に複数の先生を置いて、ひとりひとりを細やかに指導できるようにし、定員割れだったのが、入学希望者があふれるようになったそうです。 また、NHKの『プロジェクトX』でやっていた花園高校を建て直した経緯も有名です。それこそツッパリ全盛期の時代、手の付けられない不良校だったこの高校でラグビーを盛り上げ、生徒たちが暴力的な欲求をスポーツにぶつけ、やがてチームが優勝し、そのあたりをきっかけに学校がまとまっていったそうです。筋金入りの不良だった生徒が今はコーチです。 もちろん保護者の連携も必要です。「親父の会」というものを作った保護者のいる学校があるそうです。生徒の父親たちが休日ごとに集まっては、日曜大工で荒れた校舎をひとつひとつ黙って修復していったそうです。それを見た生徒たちは、何を説教されたわけでもないのに改善していったそうです。それを見習ったのか、息子の母校でも同様の会ができました。 おっしゃるとおり、とかくダメな学校は、諦めている学校です。生徒は「先生も親も校舎もひどい」と言って、やる気をなくす。そんな生徒を見て先生は「生徒も親もひどい」と言って諦める。そんな学校を見て親は「学校は何もしてくれない」と文句を言うばかり。でも、お互いを信頼していなければ協力はできません。そして、信頼を築くには、相手を信じようと努力して耳を傾けないといけません。いずれにしても、誰かが何かを始めないと、それこそ何も始まりませんよね。
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- minatoyato
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> 荒れた学校を解決するうえで効果的な方法 それは、教師と親、子供の間に信頼関係が生まれることが大切だ、と思います。 しかし、世は格差社会となり、地域ごとに、「ここはいいウチの家が多い、ここは荒れている土地柄だ」という感覚が徐々に固定化してきているのではないでしょうか? とすると、教師と親、子供の間に信頼関係が生まれる可能性はますます低いです。 なぜなら、学校生活はリアルタイムで進んでいくうえ、限られているので、教師と親と子供が、その地域の学校を良くしたい、と思っても、「うちの子が出ちゃえば関係ないや」と思っちゃうのが普通じゃないでしょうか? そうなると、荒れている土地柄の学校からは大人しい常識的な親子が逃げ出すことになりましょう。(すでに始まっているようですが…) ですから荒れた学校を解決するうえで効果的な方法はない、と思います。
お礼
格差社会の状況下に置かれていても、人間は人間であると言う点では平等です。 確かに、荒れている土地柄からは、常識的な親子が逃げ出すことはかなり考えられます。 しかし、そんな荒れた風潮から人を救える人を、いないと決め付けてはいけません。 それこそ、非行少年少女をかくまうお寺の住職である、西居院の広中邦充さんのようなタイプの人がいればと思います。 別に格差社会があるからと言って、無駄な意地を張ることはないと思うのです。 固定化された感覚にい続けることのない、柔らかな感覚を持った人の手で、何とかできないものかとも考えます。
- taked4700
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今までのお答えを読まないで回答します。 自分は以前中学高校の教員をしていました。その経験からの回答ですが、教職員がまとまれば、十分に数年で荒れから回復できると思います。 反面から言うと、それだけ、現状は、教職員のまとまりが無いと言うことでもあります。
お礼
確かに信じあうことは大切です。 しかし、時には、それ以外の要素が必要になる場合もあるのではないかと思っております。 他の回答やそれらに対する僕からのお礼も参考にしていただけたら是非とも幸いでございます。
- tryouts
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数十年(3世代)の年月を要しますが、解決していくには道徳教育の実践しかありえないと思います。 今10代の方々の祖父母は戦後教育世代になります。 彼らは学校では戦後教育を受けましたが、家庭では戦前の道徳教育がなされています。 親の世代となると、祖父母は家庭によっては自分が学んだ道徳教育を実施するものもあれば、戦後教育的な教育をする場合もあります。 また親の世代あたりから、教員自体も戦後教育を受けた人々が増えてきています。 つまり戦後教育の影響を色濃く受けた世代と言えるのです。 (ツッパリという者が登場したのもこの世代か少し前から) 戦後教育をなぜあげたかと言うと、道徳教育の排除と表面的な個々の尊厳と平等の考え方を受け入れることにより、過去の日本の教育史上一番の転機であり、現代の社会問題の原因となっているからです。 本来の道徳教育とは人間としてのあり方・生き方を学ぶものであり、目上の者、同輩のもの、年下のものなどの人間関係をも学ぶものです。 現在の道徳教育と言うと、表面的で薄っぺらい「ボランティア」や「平和」などを学ぶだけにすぎず、人間性を養う教育がなされていません。 人間としてのあり方や生き方を身に着けなければ当然脆い人間となってしまい、学校では学べなくなってしまったため家庭内や書物にて身をつけなくてはならなくなっています。 ここで言う脆い人間とは、自殺やうつ病などがあたります。 また人間関係を学ばないため、人同士の距離の取り方がわからなくなり、生徒間同士はもちろんのこと、生徒と教員、教員と保護者、保護者と生徒の関係もおかしくなっています。 友達のような親子などと言うことが存在すること自体おかしなものであり、親は本来子を導く存在でなければならないに関わらず、距離感が掴めずにそのような関係になってしまうのです。 さらに道徳心を得ずに表面的な個々の尊厳と平等の概念を学ぶことにより、自分勝手な人間が増えることになります。 物事の価値判断を自分の中だけで決めてしまうためです。 このような人が親となり、モンスターペアレントとなっています。 今では学校だけでなく、ここ数年の新社会人においても同様の現象が生まれてきています。 社会人であるのに関わらず、上司に怒られるとすぐうつ病になってしまったり、酷い場合には保護者が登場してきてモンスターペアレントとなっています。 これも戦後教育の浸透が20代前半の親の世代あたりから強くなっているためです。 荒れた学校を解決するのは大変困難です。 誤った教育の縮図が現在の学校であり、一番大きな影響を受けているからです。 道徳教育を実践しても、親は今の教育を受けてしまっているため当分の間は現状維持ないしもう暫くは悪化するものと思います。 それでも日本の将来のことを考えれば、道徳教育の実践しかありえないと思いますね。
お礼
道徳教育と言い切るより、今の時代では、ぼくは「精神教育」が必要じゃないのかな、と感じています。 と言うのは、人間の心について、色んな面からガチンコで考えていくべきだと思うのです。 今、悲しい事件ばかりが流れるニュースで、人の心に対して、いちがいに「かわいそう」と言うのではなく、もしも近くにそう言う人がいたら、どのようにして励ましてあげようか、本当の友情とは何なのか、心から真剣に向き合うことは何なのかと考えると言うことです。 まだ「精神教育」とテーマを掲げたばかりで、内容は今ひとつまとめきれていませんが、今、ブログで、さまざまなニュースを見て、気になった問題について考えております。 以下が僕のブログへのリンクです。 http://blog.goo.ne.jp/supercore 是非ともよろしくお願いします。
- yokihito005
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学校は誰のため、何のためにあるのか...諸説あるかもしれませんが、「生徒の学び」のためということには異論はないかと思います。 にもかかわらず、学校教育をサービス商品と曲解する親と、学校・教室を閉ざして(私物化して)それに対抗しようとする教師、根拠の無い教育理念を振り翳す行政・教育委員会が三つ巴になって、互いに目隠しをしたまま殴り合っているかのような暗闘の構図があるように思います。 そういう意味で、No.7の方の見識には大変共感いたします。 個人的な意見になりますが、まずは学校が懐を開いて、その教育理念を親、生徒と分かち合って欲しい、、と思います。カリキュラム作りに参画させろというのではありません。シラバスの開示でもありません。こどもたちの学びのために何を目指して、何に悩んでいるのかを素直に打ち明けて欲しいといっているのです。 学校と親とのコンタクトは、”成績評価”と”学校のルール”という一方通行の”告示”に限られています。前者はテストを介したこどもの品定めに過ぎず、こどもの学びそのものを見据えたものではありません。親は品定めの結果を見て一喜一憂する、そういう一方通行のものです。”学校のルール”とは、学校が教育の理念を条文化、ルール化してこどもと親に遵守するよう求めるものです。しかし、”学校のルール”とはいったいなんでしょうか? 教育理念を示すものであれば、処罰を伴う社会の法律とは似て非なるもののはずです。”お菓子を食べない”、”携帯電話を持ち込まない”、”無駄話しない”、”髪の毛を染めない”、、、、こんなことはすべて大人社会でふつうになされていることで、法律で規制されたりしません。学校のルール=法律とさだめてこどもたちに処罰を与える...こども(あるいは親)の目には”教育の理念(理想)”は見えてこず処罰のみが体感されます。これではこどもたちに世の中の理不尽さを教え込む結果しか導かないと思います。 >その子どももいつか成長するわけですから、その子どもを法律で裁くと言うのは、後先考えて、その人の心と一生懸命向き合うことがなかったからだと思うのです。 教育理念なら、ルールや処罰を介さずに、親、生徒とすなおに分かち合って欲しい(分かち合う=双方通行のコミュニケーション)、、、(わたしは)そう思うのです。 親がこどもの教育に直接コミットできるのは、家庭をべつとすれば塾や習い事など教育教育サービス(商品)に限られています。もっとも多く(子どもたち自身の)時間と労を割いている学校教育に関わる機会は、あてがい扶持の学校公開日、運動会などごくわずかなイベントに過ぎません。”聞きたくないから聞く機会を持たない”、”目隠しして殴りあう”事態を乗り越えて”こどもの学び”をともに考えていく道筋を作ることが、、、、学校教育のなかにこどもの学びを取り戻す方策だと思います。 こどもたちは”学ぶこと”そのものは大好きなのですから。
お礼
目隠ししたままの殴り合い・・・それは想像すれば何だかこっけいと言いますか、見ている方までもがばかばかしくなってしまう光景でしょう。 早い話が、堂々巡りをしていて、目の前をとにかく始末すればいいと言うことにとらわれて、先に進む兆しが全く見えないと言うことでしょうか? 自己中心的な人たちのやり合いは正にそうと言えるでしょうね。 No.7でも言った通り、相手との意見をうまく調和させて、いかにそれを自分の意見にして行くかが関わり合いにおける理想ですから。何よりも子どもの立場を考えてあげることが大切でしょう。何故なら、その「問題児」も子ども、そして立派な人間であることは確かですから。 ルールを叩き込むことと、子どもの心に触れることは違うと思うんです。子どもの心が汚れたままじゃ、どんなにルールを教えても、守ってはくれないと思いますから。 常識やルールは人が作れる物ですが、人の気持ちと言うのは、人には作れません。 無駄な飾りのないリアルな魂で人と語り合える、そんな現実を浮き彫りにして、この汚れた社会にバシンと物申してやりたい、そんな救世主に現れて欲しいものです。 だからこそ、子どもたちに素敵な生きがいが与えられるのかと思います。
- mucchapin
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小学校から大学式にするのがいいと私は思っています。 教師は子どもの躾には関与しなくても良い。 その代わり、子どもが塾に行かなくとも理解できる位の授業のクォリティーを維持する義務がある。 学校で起きた子供同士の揉め事は、親を交えて当人同士が解決する。 授業妨害する子どもには、退学から強制下校など。 もちろん単位制にする・・・・などでしょうか。 こんな実情嘆かわしい限りですが、世の中にはルールがあります。 ルールを守れない人には強制力も辞さないという強固な姿勢が必要かと。義務を守らない人に権利はありません。 子育ては学校がやるものではありません。親が責任をもってやるものです。
お礼
これはある意味極論かもしれません。 追い払うと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、子どもの事情は子どもの事情と言うことでしょうか? 世の中のルールは確かに親が教えるべきことかもしれません。 それでは先生が本当に教えるべきことは何か、と言うのもありますがね。
- Ama430
- ベストアンサー率38% (586/1527)
>荒れた学校を解決するうえで効果的な方法とは、本当にあるのでしょうか? あると思います。 現在、教育行政は、「政府に従順な国民」の養成を国民の学ぶ権利より優先させる政策を実施しています。 その中で現場の教員は、行政の縛りのない環境でないと、効果的な指導方法を研究することが難しい状況になってしまっています。 民間のいくつかの教育研究団体では、様々な実践が研究され、一定の効果をあげるとともに、行政の非人間的・非科学的な政策を批判しています。 しかし、そうした批判勢力は行政からは敵視され、実践に裏付けられた提案も攻撃される場合がしばしばあります。 国連の機関に何度も改善勧告を受けるような、過度に競争的な教育制度を緩和して、国際標準をはるかに上回る学級定数を改善して、フィンランドのように、現場の教員の自主的な研修を尊重して行くことで、多くの問題は飛躍的に改善すると考えています。 もちろん、すぐにはできないこともありますが、現状でも、最大限に子どもの立場を大切にするという視点でできることがあるのです。 子どもの立場を大切にすることは、「問題児」を放置することではありません。 「問題児」が荒れなければならなくなってしまった背景をさぐり、自分自身でも明確には理解できていない問題点を整理する手助けをして、周囲の生徒の力も借りて、解決に向けてできることをみんなで考えるということが基本です。 「荒れ」に追い込まれている背景は、社会情勢に起因していたり、学校制度や地域の全体の問題であることも多く、そのような場合には打てる手が限られているのが普通です。 それでも、「どうせオレなんか」「どうせアタシなんて」とヤケになっていた生徒たちが、「自分が100%悪いわけではない」「この方向でがんばれば何とかなりそう」ということが理解できたとき、良い方向に歯車が回り始めるケースはあるのです。 教育には素人の有名人ばかりを集めて、思いつきの無茶な計画を強引に進めようとしても、事態は悪化するばかりです。 意欲と力量のある教員の優れた実践に学び、それをどのように行政がバックアップできるかをもっと考えなければ、「焼け石に水」の状態が続くのではないでしょうか。
お礼
人間的、科学的なのはいわば現実を見つめたうえでのやり方ですから、それが攻撃されるのはかわいそうだと。むしろ頭が固いと言うものですかね。 相手との意見をうまく調和させて、いかにそれを自分の意見にして行くかが関わり合いにおける理想ですから。 何よりも子どもの立場を考えてあげることが大切でしょう。その「問題児」も子ども、そして立派な人間であることは確かですから。 まずは何よりも、人の気持ちを見てあげて欲しいと言うのが切実な思いです。 だから、批判のやり合いをしているヒマはないと、そうしている間にも非行に走る人たちがどうなるか分からないと言う現実の存在が大切だし言うことでしょう。 大切なのは、そう言った人たちの心の闇を照らしてあげることですから。 教育にしても、何にしても、顔じゃなくてやはり気持ちがある上で、ある程度クオリティが重要なんですね。よく分かります。
>このように荒れた学校を解決するうえで効果的な方法とは、本当にあるのでしょうか? 「悪いことは悪い」ということが、あいまいになってきている社会になってきていることが原因だと私は思います。 悪いことをしたら罰を受けるというのは社会の常識だと言えます。しかしながら、未成年の場合は「教育上において保護(救済)される」という面があります。それが甘えとなって、悪い生徒を野放しにしてしまっているのではないでしょうか?? 例えば、子供が問題を起こしたとします。しかし、問題だと認識しているのは被害者の子供・被害者の親・学校(先生)だけで、加害者である本人には自覚がないのです。本来であるならば、本人が自覚するまで徹底して理解させる・反省させる・謝らせる・改善させるといったことをしなければならないのですが、当事者を放っておいて周りだけで解決しようとするから駄目なのです。また、その加害者である生徒の親も、自分の子供の行動を正当化しようとするから、さらに駄目になります。 「自分は大変なことをしてしまったんだ。本当に申し訳ない。二度とこのようなことはしません」と心に深く刻むくらいのことをしないといけないのです。「なんかいつの間にか解決しちゃった」ではいけないのです。ただ、学校においては様々で多くの生徒を抱えているので、一人の生徒に時間をかける余裕がないのです。 最近では、問題行動を起こす生徒やモンスターペアレントの対策のために、弁護士と連携している地域も出てきているようです。昔の学校ではゲンコツによって罰を与えていました。そのことで「自分は悪い事をしたんだな」と理解している生徒が多かったでしょう。しかし、ゲンコツが絶対に禁止になった今、何度注意しても真剣に物事を考えず自己中心的な生徒に対して叱っても効果はほとんどありません。叱ったり注意したりしても効き目がないようなら、最後の手段として「法律」によって罰するというのが出てきたのでしょう。 「法律によって裁く」というのは本当に情けない世の中です。しかし、そのことで生徒自身が「本当に悪い事をしたんだ」と理解してくれたら、これ以上のものはありません。
お礼
この回答から汲み取らせていただく形になりますが、はっきり言って、子どもだって立派な人間だと、そう言われるべきだと思います。 大人であっても、子どもであっても、立派な人間ですから、それを忘れている人が多いと言う現実には、私も空しく思っています。 その子どももいつか成長するわけですから、その子どもを法律で裁くと言うのは、後先考えて、その人の心と一生懸命向き合うことがなかったからだと思うのです。 子どもは、決して大人のペットなんかじゃありません。だから子どもの中にも、自己主張する人だっているわけですからね。 当事者を放っておくのは確かによくないでしょう。1人の生徒に時間をかける余裕が無いと現実は、それを聞けば色々な問題の解決に奔走して、神経をすり減らしている先生方にも非常に同情しますが、時には、時間をかけることで、「損をしてでも人に尽くす」と言う手段に踏み切るのも1つの方法としてなくはないと思います。 とにかく、悪いことをした子どもを放ったらかすのは、その子どもの将来が死んでもいいと言うことを意味するので、それではいけなくて、真剣に向き合う人々の姿があることがやはり理想と言うことでしょう。
- siritaiyo_1978
- ベストアンサー率20% (19/93)
私は保護者に対して、学校の入学時に契約書に判を押させて、しっかり契約する事が 必要なのではないかと思います。 学校側はXXXを教えるので、生徒はXXXを守り、保護者はXXXをすると明文化し、アホな 主張が一瞬で拒否できる体制が必要なのではないでしょうか? 義務教育は教育ボランチィアではないことを示すべきです。 頑張っている先生方や、学校生活をエンジョイしたい生徒が泣きをみるのは、間違って いると思います。
お礼
契約?ですか・・・。 結構僕としては、これは斬新だなぁ、とは思います。別にいい意味でもなく、悪い意味でもなく。 よくモンスターペアレントの中には「生徒はお客様だ」と言うのがいますよね。そう言いながら給食費を踏み倒す親もこれいかにと思いますが。 しかし、義務教育は教育ボランティアではないでしょう。 子どもたちに大人になることにおいて、大切な物を学んでほしいと言う思いから生まれた義務教育でしょうからね。 たかが「一部」、されど「一部」。 良い人たちにも悪影響を与えてしまう事実が確かである以上、その原因であるいわゆる「諸悪の根源」を断つ精神は非常に重要です。
- point_F
- ベストアンサー率30% (13/43)
現在学校に通っておられる方でしょうか?それとも教育関連のお仕事をされている方でしょうか?あるいは地域や保護者の方かもしれませんね。 どのような立場で質問者さまのように真摯に考えていらっしゃる方がいる限りは遅くはないのかもしれません。 ただ、荒れという問題を学校の中からのみで解決するのはほぼ不可能に近いでしょう。 学校はあくまで社会性を磨く場所です。ですから入学までに子供たちがある程度躾けられていなければ、社会性など磨く余地もありません。 「注意される」ということの意味がわかっていない子供たちを口のみで導くことはできません。だからといって今は少し頭を叩くことも許されないかのような社会になりつつありませす。 当然手を出すことが肯定されるわけではありませんが、子供たちを導く手段が全て封じられているのも事実ではないでしょうか。 現状は一部の心無い教師や一部の心無い保護者によって、お互いがお互いに良識を疑い合っている傾向にあるように感じます。 理想論的に聞こえるかもしれませんが、学校では学校でするべき最大限の、家庭では家庭でできる最大限の躾をするのが一番の近道ではないでしょうか。 いくら荒れているとは言っても、子供は子供です。 周りの環境しだいで彼らの未来はよくも悪くもなるでしょう。 最近のニュースを見ていると、一生懸命やっていらっしゃる現場の先生方や地域の保護者にはツライ時期だろうと感じます。無事何とか乗り越えられるように頑張ってもらいたいです。
お礼
今、高校3年生です。 自分なりに1人でも多くの人に光をもたらしたいと思う一環で、この質問をさせていただいています。 やはり人と言う物は、親から生まれたことが原点と言うことから、この回答が来たと言うことでしょうか? つまり、その原点がダメなら、何をしようがダメと言うわけですね。 これはかなり考えようだと思います。 縁の下の力持ちと言うか、柱の支えがないと崩れてしまうのは確かによくありそうなことでしょう。その支える柱は確実に親を指しているでしょうからね。 家に耐震強度と同じで、親もしっかりしなければと言うことですか。これは結構共感しました。
- natural_p
- ベストアンサー率30% (48/156)
その親世代です 息子の学校が荒れています …ただ1学年だけです。息子の学年は荒れていません。 小学校のときもそうだったのですが… 息子の学年から下は ちょうど阪神大震災の年に生まれたか、妊娠中だったかそれ以降の子供達。親の方の心構えがちょっと違うみたいです(かなりマジメな親が多いです)。 その前の学年~2歳くらい上は 非常に荒れています。どの学校も。 ツッパリ云々もあるかもしれません、、バブルの最期の方に羽を伸ばした世代でもあります(多分)。 更に、その親の世代も戦後の景気の良い時期にいい加減に育った方が多いそうです。歴史は繰り返す~のパターンだな と思いました… とりあえず今中学三年生の荒れた学年に関しては「早く卒業してしまえ」です。生徒たち(1年生、2年生)も3年生は荒れてて 真似するのも馬鹿らしいと考えているようです。
お礼
阪神大震災・・・1995年ですから、今小学6年生と言うことでしょうか? 「真似するのも馬鹿らしい」・・・結果的に反面教師の形の姿勢でいるのは、非常にいいことだと思います。 「よそはよそ うちはうち」じゃないですが、そのケースに限らず、自分の力で、何が良くて、何が悪いかを判断出来て、それが将来の幸せに結びついたらいいですね。
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お礼
何と言いますか・・・やはり大人に求められる物は子どもがそう言った道を踏み外したときに、何にも縛られず、毅然とした態度が取れるかと言うことでしょうか。 毅然とした態度・・・しかしただ生徒に「あれをやるな、これをしろ」ありきな、人を押さえつけるような感じの接し方は良くないもので、重要なことは毅然とした態度の上で生徒にどうやってやる気を促すかと言うことでしょう。 私はプロジェクトXは全然見ませんが、回答者様にお教えいただいて、かなりためになりました。 週刊誌も、変なスクープとか載せていないで、こう言うネタを載せればいいのにと思いますね。 是非ともそれは、何と言うか・・・ばらまきがいのあるネタだと。 しかし、信じあえることがいかに素晴らしいかをここで感じましたが、まだこれぐらいでは僕は感じきれていないですね。 色々なネタを見て、感じることで、身につけていこうかと思っています。 あきらめないことって、やはり素晴らしいですよね。 人が変われるのって、素敵ですよね。 そのあきらめない精神が、今の暗い社会を変える鍵になるのでしょうね。