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源氏がミナモトと名乗らなくなったのは・・・・

三つ質問が有ります。 (1)武士の源氏がミナモトと名乗らなくなったのはいつ頃からなのでしょうか? 頼朝が幕府を開いてから? とすると木曽義仲は当時は木曽とは呼ばれてなかったのでしょうか? それとも頼朝が伊豆頼朝(伊豆は例)とでも呼ばれていて、源氏の棟梁となった事で源頼朝となったのでしょうか? (2)清和源氏は誰の時代から武士に降下したのでしょうか?八幡太郎はすでに武士ですよね? (3)明治維新の頃まで公家に源を名乗る方が居たと記憶しているのですが、その方の名前とどこの系列(清和など)の源氏か教えてください。その後、源という名前を通常?の名前に変えたのでしょうか? 個々にでも構いませんのでよろしくお願いします。

noname#61630
noname#61630
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  • moritan2
  • ベストアンサー率25% (168/670)
回答No.3

源氏を名乗ったのは清和天皇の孫の源経基の時ですが、武士になったのはその子の源満仲の時とされています。 その後、嫡流以外は普段は姓ではなく苗字を使っていました。鎌倉時代になって嫡流は三代で途絶えたので、普段から源姓を使う一族は消滅しました。 苗字というのは土着した土地の名です。足利とか新田とかは苗字ですが、姓はあくまでも源でした。ですから、正式の署名では源をなのっています。たとえば、足利義満が明に書面を送った時は「日本国王源道義」と署名していました。(道義は義満の出家名)。徳川家康も公文書では源家康と名乗っていました。

noname#61630
質問者

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回答有難うございました。

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  • tachiuo
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回答No.2

 これまで、何度も答えていることなのですが、公式の姓(姓氏)と私称の名字を混同しています。  源氏が「ミナモト」を名乗らなくなったことなどありません(明治維新までは)。例えば、徳川家康は、公文書では「源朝臣家康」と名乗り、決して名字の「徳川」とは名乗っていません。  木曾義仲の「木曾」は名字であり、彼の姓は源です。源頼朝は清和源氏の総大将の立場でしたから、名字は名乗らず、姓の源だけで通しました。妻北条政子の北条家の姓は平なので、公文書には平と書きます。北条は名字です。  清和源氏は数ある源氏の中でも、格の低い源氏なので、公家としては出世が見込めないので、早い段階から武士になりました。初代の源経基(経基王)から武士です。  公家の源氏としては、村上源氏が隆盛しました。久我家などに代表されます。もちろん、彼らは明治維新までは公式には源を名乗っていました。  明治維新により、姓を名乗ることが禁止され、名字だけになりました。そこで、例えば、村上源氏の久我家は久我を名字としましたし、藤原氏は、近衛などを名字としました。  いまでも、古来の姓と同じものがありますが、この多くは姓にあやかった名字です。姓と名字の違いは、名前との間に「の」が入るか否かで区別できます。例えば、藤原道長は「ふじわらのみちなが」ですが、藤原紀香は「ふじわらののりか」とは言いませんね。

noname#61630
質問者

お礼

回答有難うございました。 ミナモトを名乗っているのならなぜ足利としたのでしょうか? 木曽も足利も木曽出身の源義仲、足利出身の源尊氏というように○○出身の源ウジのようにしてわかり易くしていたのではないのでしゅか?名門だけど直系に憚ったのでは? 徳川が源朝臣家康や藤原朝臣家康というのは権威的にそう名乗る必要があったからではないでしょうか?源や藤原を使い分けていますね。(武士だから先祖が藤原か源氏の可能性は非常に高いですが) どこかの資料で見ましたが徳川藤原朝臣家康となっていて徳川は使用していましたよ。 他にも武田源○○などという資料も見た事があります。本性を使用したのは朝廷や公家を相手にする時だけではないのでしょうか? ちなみに豊臣も源や藤原と一緒で徳川という姓とは意味合いが違いますね。天皇から賜った豊臣、源、藤原は本姓であり徳川は家名(苗字に該当)になりますね。

noname#61630
質問者

補足

木曽はなんとなく後の人が木曽出身の源義仲だから木曽義仲にしたのではと想像できるのですが、徳川と名乗っていないとうことは足利や武田はたまた日本全国の武将は平、源、藤原と戦国時代には名乗っていて後の人がわかり易くするために付けたのですか??

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.1

こんにちは。 面白い資料がありました。 http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/seiwa.htm それから、真偽について議論があるようですが、骨法宗家、堀辺正史氏の著書に「源一夢(みなもとのいちむ)」という名前をもっているという一文があります。 何らかの古典伝承の中に、こういう形で「源の・・・」さんが残ってる可能性はかなり高いでしょう。 落ち武者部落などでは元の氏を隠して伝えてる場合もありますし。

noname#61630
質問者

お礼

回答有難うございました。 参考URL拝見しました。 うろ覚えですが(1)(2)の系譜は私も見たことがあるのですが清和天皇-陽成夫皇でもおかしいけど清和源氏でいいと何かの資料で読みました。陽成源氏も別にいますしね。たしかにどこの年表をみても経基王は源満仲は父子ではないようですね。 ただ、成吉思汗や乾隆帝を資料に上げてる所がものすごく信憑性をさげてしまってる資料ですね>< 明治天皇の公務に源の○○という方がご一緒していた記録を、これもどこかで読みました。おそらく鎌倉以降で源を名乗れたのは公家だったからではないかと思います。

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