• ベストアンサー

源氏の氏の長者

徳川幕府の歴代の将軍は、征夷大将軍であると同時に源氏の氏の長者の職にも任じられました。 この氏の長者の職について教えて頂きたいことがあります。 1.源氏の氏の長者の源氏とは、清和源氏だけのことでしょうか。 宇田源氏や村上源氏など他系統の源氏も含まれるでしょうか。 2.他の氏、藤原氏、平氏、橘氏などにも氏の長者はいたのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • buck
  • お礼率83% (627/748)
  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.6

まずは 徳川幕府の将軍全員が源氏の氏の長者になったわけではありません。秀忠はなっていませんので 1 源氏の氏の長者は源氏全体から選ばれるので「清和」源氏だけから選ばれるのではありません。   本来は公家源氏がなっていたのを足利義満がなっていわゆる武家の源氏もなり始めました。それでも室町時代では久我家の当主もなっています。最後の源氏の氏の長者は久我建通です(久我家は村上源氏)   くわしくは講談社新書 岡野友彦「源氏と日本国王」に記述されています 2 藤原氏は他の方が回答しておられますし、平氏は私はわかりませんので橘氏(それも江戸時代ですが)だけお答えします。   江戸時代の橘氏の氏の長者は梅宮社の社家「橋本氏」がなっていました。(梅宮社は橘氏の始祖諸兄と嵯峨天皇皇后橘嘉智子ら橘氏4柱を御祭神として祀っています)ただ、朝廷からじかに任命されるのではなく、五摂家筆頭近衛家から任命されます。   ここの詳しい経緯の出典は失念してしまいました。もうしわけありません。

その他の回答 (5)

noname#113260
noname#113260
回答No.5

ご指摘ありがとうございます。 確かに長子相続が確定してない時代ですから、血統は関係ないですね。 兄の血統/弟の血統に関しては、私の知人(女)が「伊周さんがしっかりしてたらわが家が氏の長者なのに」--(確かに道長に出し抜かれない前提なら、本家は可能性ありだけど、あんた分家の分家(神社)の枝の枝じゃないの)とか紀宮さまのお相手として話題になった坊城さんをうっとりと見ては「わが家は坊門家の流れだから」--(坊門も「坊」の字がついて似てるようだけど違うような)、皇太子さまを見ては「世が世ならお知り合いになって・・・・。」---(皇太子様も美的感覚があるからムリムリ) という事があってちょっと血統と「氏の長者」に興味を持ちました。 >平安末期に藤原本家が近衛家と九条家に分かれるまでは これは興味があるので調べてみます

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4847/10260)
回答No.4

#2です。 #3さん: >まず氏の長者ですが、複数いる場合もあります。 >藤原氏:近衛家と九条家 氏の長者は、家じゃなくて人なので、それぞれ長者がいたということではなく、藤原氏の長者になれるのがこの二家に限られたと言うことだと思います。家毎にいたなら単なる家長(当主)です。摂政関白になれるのはこれ以外に両家の分家である鷹司・一条・二条家もあるので、摂政関白=氏の長者でないケースも増えたんでしょうね。 平安末期に藤原本家が近衛家と九条家に分かれるまでは、原則として(#2に書いた時期を除き)摂政関白=氏の長者だったんだろうと思います。 >足利氏は新田より血統的には下なのに、源氏の正嫡と言われるのもよく分からないことです。 長男が本家を継ぐとは限ってないので、本家を継いだ足利氏が分家した新田氏より領地も広く、鎌倉時代末の段階で一番勢力の大きい源氏の家柄だったので、他の武士が武家の棟梁と仰いだということでしょう。頼朝の家系と同じく、八幡太郎義家の子孫(新田氏もですが)というのもあるでしょう。

noname#113260
noname#113260
回答No.3

これに関しては私もよく分からず、中間の回答になります。 まず氏の長者ですが、複数いる場合もあります。 藤原氏:近衛家と九条家 源氏も賜姓源氏(公家)と武家の源氏があり、前者で有名なのは村上源氏で氏の長者は久我家。 (頼朝などは武家の源氏で、村上源氏は久我以外に堀川・六条・岩倉・千種・中院・北畠・土御門が公家) 足利氏は新田より血統的には下なのに、源氏の正嫡と言われるのもよく分からないことです。 参考URLは結構面白い。

参考URL:
http://homepage3.nifty.com/catacow/rekisi/kizoku10.htm
  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4847/10260)
回答No.2

「源氏の長者」で検索してみると、足利義満が、村上源氏系の久我氏から源氏の長者を奪ったと言う記述があるので、やはり同一時点では源氏の長者は一人だったのではないかと思います。源氏の長者は淳和院・奨学院の別当も兼任することになっていたので、もし複数人が名乗っても両院の別当を兼任している人が、正当な長者ということだと思います。 長者は氏ごとにいたと思いますが、平氏・橘氏はあまり聞きませんね。藤原氏の場合は、相続争いで、氏の長者と、摂政関白が別の人であったこともあります(保元の乱の原因のひとつ)。 長者の権限としては氏族全体に伝わる資産の管理者だったと思います。(氏族の中でも特定の家だけに伝わる資産は除いて)

  • samtyan
  • ベストアンサー率20% (59/292)
回答No.1

下記サイトをみつけました。 村上源氏にも、氏の長者がいたようですね。 また、他の氏にも。

参考URL:
http://powerplanet.at.infoseek.co.jp/junkdata/backnum1/junkdt02.html

関連するQ&A

  • 歴史の本で疑問に思うこと

    こんばんは。よろしくおねがいします。日本史初心者です。幕府についての疑問です。 幕府を開くことができたのは、足利などの源氏の流れ を組むことが条件らしいのですが、 「幕末、毛利は自分達で幕府を開こうと他から思われていた。」 というような記述がありました。 疑問は大江氏(毛利)が藤原朝臣だとすると、太政大臣になれても征夷大将軍の職をもらえたのでしょうか。 また、明智は多分近江源氏の支流土岐源氏というふうに考えると、 明智も幕府を開けたのでしょうか。前田利家はインターネットで菅原朝臣だと知りました。 疑問は義家などのいる清和源氏以外の村上源氏などでも将軍になれるか? また、源氏以外の平藤橘でも将軍になれるか?です。 伊達家は幕府になるための式目を作ってあったそうですが・・・。

  • 徳川家康は「源氏長者」として何をしたのか。

    慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当に任命されています。 Wiki「源氏長者」によれば、 「源氏長者は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。」そうです。 質問です。 1.源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利をもつのだそうですが、徳川将軍家は具体的にどんな祭祀をしたのですか。 2.また、「源氏一族全体の氏長者」ということは、源氏一族は、源平時代以降、結束が固かったのですか。そうであれば、関ヶ原合戦で源氏一族は、団結したのですか。 3.「源氏長者」ってのは実際のところ、名前だけのものであったのであれば、家康はなぜ源氏長者の任命に従ったのですか。 よろしくお願いいたします。

  • 源義仲と征夷大将軍について

    征夷大将軍という職について教えてください。 これは蝦夷討伐を命じられた坂上田村麻呂による『遠征将軍』という職と、もうひとつ鎌倉幕府以降の『幕府の主宰者』という二種類にわけられるのですが、 じゃあその間の源義仲が征夷大将軍になったときには、いったいどういう意味での征夷大将軍だったのでしょうか? 詳しいことをご存知の方は、教えてください。 お願いいたします。

  • 鎌倉幕府の年号変更について

    鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。 秀吉が、幕府が開けなかったのは、源の血ではないと言う理由で征夷大将軍にれなかった…。なので、代わりに、関白になった…。と思っているのですが…。違うのでしょうか? そう思うと、征夷大将軍が、幕府を開くことができるのであって、守護地頭を置いても、征夷大将軍でなければ、幕府を開くことは出来ない…。と思うのですが?どうなのでしょうか? ただ、幕府と言う言葉が、いつ名づけられたのか…。それによっても変わってくるとも思います。当時の人が、将軍が開いたものが、幕府と言ったのなら、当然、それは、将軍になった時点で、開かれたものだと思いますし、後世の歴史学者が便宜上名づけたのなら、問題ないと思います。 実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

  • 東国の源氏、西国の平氏?

     鎌倉時代前でしょうか、 東国の源氏、西国の平氏という言い方がされると思います。  まず、 935~941年の承平・天慶の乱で、 平氏は、平将門が下総で国士を追放し、 他方、瀬戸内海の海賊を率いた藤原純友を源経基(つねもと)らが討ったのが、 武家の台頭のきっかけだと認識しています。  しかし、その後、 「東国の源氏、西国の平氏」と言われるようになったのは、なぜでしょうか? 1031年、平忠常の乱(1028年)を源頼信が降伏させ、関東の平氏が衰退したとの情報にも接しましたが。 源経基の子孫が、東国に移動していったのか、別の清和源氏が東国にいたのか、 そして、いずれにしても源氏が平氏を関東から追い出し、 伊勢に逃れた平氏が平家になり、今度は平家が源氏を京都における平治の乱で破り、 最後に、源氏が平家を壇ノ浦で破る・・・ 地理的に理解できないところです。  ご存じの方、よろしくお願いします。

  • 徳川家康の家系図について

    以前、どこかで徳川家康は、征夷大将軍になるために、家系図を清和源氏の流れに辿り着くように整理したと聞いたことがあります。 そして、清和源氏の家系図の前に、藤原摂関家に家系図の流れが辿り着くように整理したことがあると聞いたことがあるのですが、それぞれ徳川家康が、どれくらいの年齢だったのでしょうか? 特に、藤原氏の流れに家系図を辿り着かせた年代が知りたいです。 征夷大将軍になったのが、1603年だったと思うので、それ以前だと思うのですが。 詳しい方いらっしゃいましたら、教えて下さい。 よろしくお願い致します。

  • 昔、征夷大将軍は源氏の血を引いてないとなれない?

    タイトルが変な風になってもうてすみません。 知りたいことは、タイトルどおり、自分の勝手な話で申し訳ないですが、インタかどっかで知ったことがあるんですが、昔、征夷大将軍に成るには、源氏の血を引いていなければ成れへんっちゅう事をどっかで聞いた事があるんです。ただ、其れはうろ覚え・聞いただけの事、なので確かではないんですけど・・・。 1192年(1185年?)に源頼朝によって初めて、鎌倉に幕府が開府された。せやから征夷大将軍は源氏の血を引いてへんと成れへん、そういうイメージが強いんです。 けんどもっと昔に遡れば、元々は今の北海道、即ち蝦夷を討伐っちゅうか、征伐?する為に設けらたもので、その最初の征夷大将軍には「坂上田村麻呂」が選ばれた。 つまり、別に源氏の血を引いてへんでも、なれたんちゃうかなぁ~・・・と、勝手な思い込みなんですが・・・ 実際はどうやったんでしょうかね? ホンマにそう言う決まり事があったんでしょうか? 是非、知ってる方、居られれば教えてください。

  • 江戸時代って何年からですか?

    俗に言う「江戸時代」と言うのは西暦何年から始まるのでしょうか? ・1600年 関ヶ原合戦で徳川家康が勝利したのち? ・1603年 家康が征夷大将軍(源氏長者)に任ぜられて江戸幕府を開いてから? ・1605年 将軍職を秀忠に譲って幕藩体制を確立させてから? ・1615年 豊臣家滅亡後から?

  • 征夷大将軍について

    もともとはかつての東北のいざこざを収めるために与えられた職だと記憶しています。 なのになぜ幕府をひらく人たち(源頼朝~徳川家康)は征夷大将軍の位を得なければならなかったのでしょうか?つまり征夷大将軍にならなければ幕府はひらけないと解釈していいのでしょうか? 教えてください!

  • 源頼朝はなぜ征夷大将軍として力を持ったのですか?

    征夷大将軍という役職は源頼朝が就く以前からあったのに、なぜ源頼朝だけが征夷大将軍として幕府を開くまでの力を持ったのですか?