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東国の源氏、西国の平氏?
鎌倉時代前でしょうか、 東国の源氏、西国の平氏という言い方がされると思います。 まず、 935~941年の承平・天慶の乱で、 平氏は、平将門が下総で国士を追放し、 他方、瀬戸内海の海賊を率いた藤原純友を源経基(つねもと)らが討ったのが、 武家の台頭のきっかけだと認識しています。 しかし、その後、 「東国の源氏、西国の平氏」と言われるようになったのは、なぜでしょうか? 1031年、平忠常の乱(1028年)を源頼信が降伏させ、関東の平氏が衰退したとの情報にも接しましたが。 源経基の子孫が、東国に移動していったのか、別の清和源氏が東国にいたのか、 そして、いずれにしても源氏が平氏を関東から追い出し、 伊勢に逃れた平氏が平家になり、今度は平家が源氏を京都における平治の乱で破り、 最後に、源氏が平家を壇ノ浦で破る・・・ 地理的に理解できないところです。 ご存じの方、よろしくお願いします。
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>「東国の源氏、西国の平氏」と言われるようになったのは、なぜでしょうか? 政権の中枢を東国(鎌倉)に置いたのが源氏で、西国(京都)に置いたのが平氏だからでしょうか? (源氏と平氏の勢力圏の実態と逆ですから…。) と言いますのも、平氏の勢力圏は関東(平将門の乱も最初は、関東内の平氏一門内での不仲が原因)で、源氏は畿内(摂津、大和、河内)です。 (源頼朝の時代でも関東には平氏一門がいました。) 源氏が本格的に東国武士と結びつくのは、鎌倉初代将軍となる源頼朝の父である源義朝の時代で、義朝が少年期に関東へ下向(一説には父の為義から廃嫡同然に勘当されたとの説も…。)し、安西氏、三浦氏、上総介氏(坂東八平氏など)と言った関東の有力武家の庇護と後見(「上総御曹司」と呼ばれた)を受けてからです。 (建前上は源頼信の件で、源氏と坂東平氏には主従関係が有ると言う事に成りますが、実態を伴ったのは…。) 時系列で行くと 1.源氏と比べると、格が落ちる平氏(平氏は臣籍降下が2世の場合が多い)が、武功を立てて伸し上がる為に東国に下向する。 2.源義朝が関東へ下向し、当地の武士(当地の平氏も含む)と結びつく。前後して京都では、平清盛が躍進する。 3.保元の乱が発生。清盛と義朝が共同して後白河天皇方として戦い勝利する。 4.平治の乱で義朝が清盛に敗北し、再起を期すため東国(昔世話になった坂東平氏を頼って)へ落ち延びようとするが、途中で死亡。 5.義朝の子である源頼朝は伊豆に流刑となるものの、桓武平氏の末裔と自称する豪族北条時政の長女である政子と結婚。 6.高倉宮以仁王が平氏追討を命ずる令旨を発した事に呼応して挙兵し、紆余曲折有りますが、壇ノ浦で平家を破ります。 ちなみに、倶利伽羅峠で源義仲に敗北して都落ちしますが逃れた先は西国です。一度は摂津福原まで盛り返すものの、大筋では西へ西へと敗走していきます…。 (北陸から義仲軍、東海からは源行家の軍[ただしこれは平重衡が破っています]、が有りましたし、土佐、河内、美濃、熊野、伊予、肥後で挙兵されていますし清盛の地盤[伊勢平氏の出身]たる伊勢ですら、紀伊の熊野三山勢力が挙兵し攻撃を受けています。) 「平家にあらずんば人にあらず」の様に「平氏」と呼ばずに「平家」と範囲を狭めるのは語呂の問題もあるでしょうが、治承・寿永の乱で戦ったもう一方の側(源氏の側)にも、平氏の一門が沢山いたからなのでは…。 (とくに鎌倉幕府は執権が北条氏の様に平氏の一門が…。) 関東の平氏にしてみれば、伊勢平氏の一門しか出世させない、所謂「平家」などに同門意識など無かったのかも知れません…。
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- rabbit_cat
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河内源氏が東国に勢力を築けたのは、もともとは、前九年の役、後三年の役、で源頼義、源義家が戦ったからでしょう。そこで、従っていた関東の武者たちに源氏の武勇を見せ付けたというか。 とくに、源義家は、どこまでホントかは分かりませんが伝説的な武勇談もたくさんありますし。 さらに、後三年の役が、朝廷からは私戦として戦費を認められなかったために、義家は、主に関東の武者たちからなる自軍の将兵に、私財から恩賞を出しました。これが、結果的には、かえって関東における源氏の声望を高めることになったと言われています。 源義朝・頼朝が関東に行ったときにそこで地歩を築けたのも、義家の遺産があったからでしょう。
- tanuki4u
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東の源氏、西の平氏は後付です。 源平の争乱の段階で、頼朝が東国から勢力を増やし、清盛がその前の段階で、福原(現在の神戸)~厳島(広島)~太宰府(福岡)~朝鮮・中国の交易ルートを富の源泉として確保していたからです。 人数的に言えば、関東は平氏だらけですし、源氏の本流も本来は多田源氏で、摂津。 一族として一致団結なんてのはありませんので、頼れてその家の家来になる(つまり、家人で、将軍だから偉いので御をつけたのが御家人)というのは、各自で判断となります。