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源平和平案について

治承5年、鎌倉(関東)の地盤を固めたい頼朝が朝廷に西国の平氏との源平和平案を提示しますが、平家の棟梁・宗盛が黙殺したため、この時は実現しませんでした。もし宗盛が和平条件を呑んでいたらその後の日本の歴史はどうなっていたでしょうか?鎌倉幕府は自分が考えている程、好戦的政権ではなかったんですかね?

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

>もし宗盛が和平条件を呑んでいたらその後の日本の歴史はどうなっていたでしょうか? 歴史の舞台となった鎌倉が寒村のままで終わった以外は、公家政権が武家政権に代わって行くという流れは変わらなかったでしょう。 戦国騒乱の時代が早めに始まっていたかも知れません。 源平合戦として、教科書や時代小説などでは、源氏と平氏の氏族間の闘争にように描かれますが、実態は異なっていたということをご理解ください。 現在、イメージとして漠然と源氏は関東、平家は西国とされていますが、出自からしますと、源氏は関西で平家は関東です。 平将門の乱を思い出してください。 平家の始祖は高望王です。 臣籍降下後直ちに上総の国守として下向し、やがて一族が関東一円を支配下に置きました。 特に東京湾を交易路として活用して、武蔵や相模の海岸地帯に一族が住み着きました。 伊豆の北条氏を始め後に鎌倉幕府の創立に寄与した三浦氏や和田氏は全てこれら房総平氏の末裔です。 高望王の長男であった国香が草深い関東を嫌って都へ上り、その子孫が伊勢平氏となりました。 伊勢平氏の清盛が海外交易で莫大な富を蓄えて伊勢平氏全盛時代を築き上げました。 清盛以下一族は関東平氏を顧みることはしませんでした。 繁栄から置き去りにされた関東平氏に不満が蓄積していきました。 当初摂津源氏として武家源氏をスタートさせた源氏は鳴かず飛ばずでした。 義家の時代になって関東よりもさらに奥の奥州の地を目指しました。 奥州で戦果を挙げた義家の一族は平家が手薄だった関東周辺の北部一帯に勢力を広げました。 この末裔が足利氏や新田氏です。 頼朝が伊豆で敗れて安房へ逃れ、下総で挙兵しますが、その際の軍勢は関東平氏です。 頼朝自身は伊勢平氏に対抗できるだけの軍勢は所持していませんでした。 下総での挙兵に成功したのは関東平氏の総領であった千葉常胤の参陣のおかげです。 常胤は頼朝の父義朝とともに保元の乱を戦った仲でした。 その御曹司が伊勢平氏打倒を志しているということから老骨に鞭打って参陣しました。 常胤が参陣したことにより、不満が鬱積していた関東平氏が続々と参陣し、隅田川を超えたころには大軍勢となっていました。 彼らは、頼朝がたまたま以仁王の令旨を所持していたので、旗頭として擁立しました。 頼朝なき後の鎌倉幕府を引き継いだのは、関東平氏の一門である北条氏です。 であるからこそ、源氏である新田義貞が同じ源氏である足利尊氏に呼応して鎌倉を攻め落としました。 源氏の手に鎌倉を取り戻したことになります。 超大雑把に説明しますと上記のような経緯です。 頼朝自身は清盛と同じように都で覇を唱えたかったのではないかと言われています。 盛んに朝廷への接近を試みています。 義仲、義経と身内を切り捨てた結果、関東平氏を抑え続けるためには鎌倉の地を離れることができませんでした。 教科書などでは、武家政権を確立するために都とは距離を置いたのだとされていますが、最近の研究ではホント?ということになっているようです。 足利氏は京の室町に幕府を開いています。 ということで、頼朝の意志だけで宗盛と妥協しても、主力部隊の関東勢がNOといって直ちに戦乱に突入したでしょう。 親子代々怨念を含んだ骨肉の争いですから、簡単には収まりません。 どういうことになっていましたかね~ 義経さんも軍事の天才ではあっても、ウジウジ駆け引きををする政治の世界の才は乏しかったようですからね~

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  • ikuzecia
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回答No.1

戦において和平案なんて詭弁です。 和平条件を吞んでも結果は同じでしょう。 平家の滅亡を決定づけた一の谷の合戦においても 平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し 源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、 武装解除したところに奇襲攻撃をうけて総崩れになったんです。 一の谷に要塞を持ち、源氏より兵力が多くまともに戦うと 源氏は勝てないので詭弁を使ったのです。 これは歴史をみてもこのようなことはありふれたます。 大坂の陣においても、秀吉と勝家の長浜城攻防戦でも まず講和して兵を整えその後いちゃもんをつけて攻撃します。 鎌倉幕府も奥州藤原氏を滅亡させたことでも明白です。 孫氏の兵法にも書かれてますね。 戦は詭弁なり。 信用した方がバカなのです。

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