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藤原道長と奥州藤原氏?

alcheraの回答

  • alchera
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回答No.3

わたしも昔々、同じ疑問を持っていたことがあります。 系図を根気良く追っていくと、道長と奥州藤原氏の関係はわかりますね。#1の方の系図が見やすいと思いますが、わたしも一応挙げておきます。 http://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/fujiwaramap.html 細かくて、少し見にくいかもしれませんが……クリックすると細部も表示されますので、根気強くお試しください。 ただし、系図というのは基本的に何系統もあるもので、それぞれ名前が違っていたり、兄弟順が違っていたり、いる筈の人がいなかったりは珍しくありません。わたしが挙げたURLも、これが決定版というわけではありませんので、そこはご留意ください。(どちらかというと、ちょっと王道ではない系図のような気もします) おそらく質問者さまは、時間の流れをイメージしないまま考えておいでなのだと思います。実はけっこう年月が経っているんですよ。 藤原鎌足から始まった藤原氏、時間が経つに従ってどんどん人数が増えていきました。 その中の、権力闘争に行き残った主力組は都で華やかな生活を送りますが、それ以外のほとんどの藤原氏はだんだんと小粒になっていきます。身分社会で、基本的には子は親と同等か少し低い地位、ということが普通だったようなので、身分が低い者が増えるのは当然ですね。 そうなるとだんだん、都では官職を得ることが出来ずに、地方へ出て行く者も現れます。どこかの国(昔の行政区分としての「国」ですね)の下級役人の仕事を得るとか。そういう人の中には、結局都へ帰って来ずに、その土地で土着する場合もあったらしいです。 徒歩で、とか馬で、というより、何世代もかけて、色々な場所を本拠地として移動していったわけですね。新しい土地が手に入ったから引っ越そうか、とか、隣の領主と争って負けたからその土地を離れなければならなくなったとか、様々な場合が考えられます。 奥州藤原氏の場合は、先祖の一人である藤原秀郷が平将門追討の功があったので、なおさら関東近辺に土着化しやすいということがあっただろうと思います。この辺りの史実は、今のところわかっておらず、今後も確定するのはなかなか難しいでしょう。 以下、少しご質問そのものからは外れますが、#2の方のご回答で少し気になったことがあるので書き添えます。 「造興福寺記」という記録があるそうです。それは火災にて大部分焼失してしまった興福寺の再建の記録で、その中に寄進者の名簿があり、「経清 六奥」と記されているそうです。これは恐らく奥州藤原氏としての初代である清衡の父、藤原経清のことで、名前の後の「六奥」は「むつ」と読み、陸奥国のこととされています。 ご存知のように、興福寺は藤原氏の氏寺であり、この「造営料割当者名簿」に載るということは、「五位以上の藤原氏」を示していたようですから、少なくとも経清は、中央の藤原氏からも一族であることを認められていたようです。 また、そこから時代は下って秀衡の時代に、西行が東大寺の塗金料勧進のため、奥州平泉に赴きますが、これも西行と秀衡が一族であるという理由も大きかったとされています。 わたしは西行の出自を疑問視する文章は見た記憶がなく、さらに出家後に高位の人々と交際しているのを考えると、高い身分ではなくともはっきりした出自の人を想像するので、奥州藤原氏が秀郷流である傍証になると思います。 おそらく現時点では自称というよりも、もっと確実視されているのではないでしょうか。 少し面倒な回答になってすみません。参考になれば幸いです。

参考URL:
http://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/fujiwaramap.html
Diorlove
質問者

お礼

同じ疑問をもっていたということでうれしいです^^ わかりやすい回答をありがとうございました。上であげていただいた 系図のほうが私は見やすかったですが、(無理やりつなげているのかもしれませんね)藤原氏はかなりいたんだなっていうことがわかりました。ちょっと勉強になってよかったです。

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