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奥州藤原氏と東北地方について

奥州藤原氏のことでお聞きします。 藤原秀衡は源義経を受け入れ、大軍を擁して源頼朝に対抗しようとしましたが、藤原秀衡の死後どうしてあっけなく滅ぼされてしまったのでしょうか。 源義経が自害においこまれ、藤原秀衡が病死したという個人の死が原因だというにはあっけなさすぎるように思えるのですが・・・。 奥州藤原氏の東北地方の支配体制が制度疲労を起こしつつあったにもかかわらず、藤原秀衡という一人のカリスマによって維持されていたのでは?と推測しているのですが、奥州藤原氏の東北支配体制とはどのよなものだったものなのでしょうか。 また奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府に対して東北地方で反乱等は起こったのでしょうか。奥州藤原氏滅亡後の東北地方と鎌倉幕府との関係についても教えてください。

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  • kusirosi
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回答No.1

藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていた。これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのか この当時。少なくとも源氏軍は保元・平治の乱や平氏との戦いをくぐりぬけた実戦部隊、いわば歴戦のツワモノ達でした。これに対して100年の奥州藤原氏三代の太平の中で戦いを忘れて弱体化した、平和を愛する蝦夷達が太刀打ちできるはずがなかったのです。 それともう一つ。 東北武士は当然、鎌倉にできた新政権がどんなものか知っていたでしょう。 鎌倉政権はそれまでの貴族政治に代わる、武士による、武士のための国づくりを目標とした政権だったのです。 それに引きかえ藤原氏は奥州の覇者ではあるが、その実態は律令政治(それまでの貴族政治)とそれほど違いがあるわけではない。 藤原氏は、朝廷から陸奥守鎮守府将軍に任命され、 奥州の王として黙認されているだけではないか・・・。 当主泰衡は父祖に似ず凡庸ということもあって奥州武士達は、政治体制として鎌倉政権の方により魅力を感じたのではないでしょうか 頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置し、奥州土着の武士を配下にした。鎌倉以来の移住地頭と地元武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。  

bbkanto
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  • tanuki4u
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回答No.3

制度疲労を起こしつつ ↓ 逆に制度ができてなく、当主個人のカリスマに依存した支配体系だったため、有効な反撃もできず、関東武家勢力が奥羽に来てもこれといった反乱が起こっていないのだと思います。 確か戦国期の研究家である黒田 基樹氏の後北条家の書籍であったのですが、後世の人間から見ると、後北条家は代々嫡子が後を継いでいるように見えるが、実際には、先代が早めに引退し、家督を息子に継がせている。さらに、その息子は武家の頭領として、実績を作ることで、権威と権力を掌握した。 というような事が書いてありました、つまり戦国期でも当主個人のカリスマ依存が強かった。統治組織ができていない、それ以前においては、より一層個人のカリスマ依存が強かったと推測します。 また、奥州藤原家においては 初代清衡 実力で、奥羽の覇権を握る 二代基衡 兄弟間の闘争を経て、権力を握る 三代秀衡 父の死を受けて家督相続 ということで、実際の闘争での実績がなかったので、秀衡の権力基盤は意外と弱かったんじゃないかな? そして四代泰衡に至っては、実戦での実績がないので、奥羽の武士にとって「あんまり、信用できないよな」というのが実感だったかと思います。

bbkanto
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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず、奥州歴史を数年前に遡って検証してみましょう。 奥州藤原氏の祖と言われる「清衡」から。 (1)清衡は、父藤原経清が討たれた後、奥州を統一した清原氏によって育てられました。 (2)やがて、清原氏の当主が亡くなると、後継者として、3人の息子(清衡を含む)が争いを始めました。(後三年の役)。しかし、長男は、そうした中で病死をし、次男の家衡が先手を打って清衡を攻め清衡の妻子などを殺しました。 (3)清衡は、当時の陸奥守源義家に援軍を頼み、義家は、朝廷に従いつつも、源氏の勢力拡大をもくろみ、清衡に加勢し、家衡を打倒。 (4)清衡は、奥州最大の勢力である清原氏の当主となりました。 (5)しかし、源義家は、「義家が討ったのは朝敵ではなく、私事で加勢をしたものである」と裁定され、朝廷より陸奥守を解任されてしまいました。 (6)清衡は、いかに朝廷の力が大きいかを思い知らされました。 (7)この頃を境として、清衡は父の藤原氏を名乗り、藤原清衡として奥州を束ねていました。 (8)そして、朝廷への忠誠心を見せかけるため、次のように朝廷に対して書状を送りました。 「私は、分不相応にも、蝦夷の長(おさ)の座に座ることとなりました。今や、出羽、陸奥の民の心は、風に草がなびくように従順でございます。忠義と貞節を持ち国に尽くす思いを決して忘れません」 この書状と共に(奈良時代にすでに開発されていた、と言われる)奥州の黄金と産物を朝廷に献上し、見せかけの忠誠心を示すことで朝廷の介入を阻止したのです。 基衡から秀衡へ (1)基衡は、特に目立った動きは見せず、平穏に奥州を統治し、その子の秀衡の代になると、養和元年(1181)8月、秀衡は陸奥守鎮守府将軍に任命され、奥州一帯の独立国を形成し、まさに、絶頂期でありました。 (2)一方、治承4年(1180)8月、源頼朝が鎌倉で関東武士団の棟梁となり、頼朝もまた、奥州藤原氏と同じく、地方において地方の武士団をまとめることに成功。 (3)寿永2年(1183)、頼朝は、関東武士団の推挙により、朝廷に働きかけて関東の支配を認めさせる。 (4)元暦元年(1184)1月、義経上洛。この威勢に乗って頼朝は奥州をも手に入れようと画策する。 (5)頼朝は朝廷に進言し、秀衡を陸奥守から解任。 (6)秀衡は動かなかった。頼朝の挑発であっても許可なく関東に攻め込めば、「反乱」とみなされる、と判断。 (7)文治元年(1185)3月、義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼす。 (8)これにより、頼朝は、いよいよ、奥州討伐を決意するが、まず手始めに、 「貢馬貢金などは、まず、鎌倉に沙汰進ずべし」(吾妻鏡) と、藤原氏が朝廷と直接のつながりを分断する作戦で藤原氏を追い詰めた。しかし、秀衡は、黙ってそれを受け入れた。 この背景として考えられることは、当時、奥州武士団は17万騎いると言われており、戦をしても十分に戦えると考えられていたが、仏教文化を取り入れた「穏やかな暮らし」を求めていました。 (9)ところが、追い討ちをかけるように、壇ノ浦の戦いなどで活躍した源義経が兄頼朝の怒りを買い、朝敵とされ、奥州藤原秀衡を頼って来ました。文治3年(1187)2月のことでした。 (10)秀衡は二つの決断を迫られました。 1.義経を匿って朝敵となる覚悟で頼朝と戦うか。 2.朝敵義経を差し出して、朝廷や頼朝に従うか。 (11)秀衡は、苦渋の決断として、1.の頼朝を迎え討つ決断をし、阿津賀志山(あつがしやま=福島県)に巨大な土塁を巡らし、着々と軍備を整えていきました。 (12)しかし、そのわずか8ケ月後、文治3年(1187)10月に秀衡は病死。 (13)遺言として、 「奥州藤原一族は源義経と力を合わせ頼朝を討て」 と、明言しました。 泰衡 (1)藤原氏の当主となったのは泰衡でした。 (2)文治5年(1189)2月、頼朝は、朝廷に、「朝敵である義経を匿う罪は重い」として、藤原氏追討を願い出た。 (3)(確かに、NO1.の方の言われるように)泰衡は、凡庸であったためと、戦のノウハウを知らなかったため、戦意喪失。頼朝打倒で結束していた奥州武士団に亀裂が入った。 (4)文治5年(1189)閏4月、泰衡の軍勢が義経の館を襲撃し、義経を自害させた。 (5)泰衡は、義経の首を頼朝に送り、服従する意思を示した。 (6)しかし、頼朝は、藤原氏が義経を匿った罪を再度朝廷に訴え、頼朝自ら大軍を率いて奥州を目指した。 (7)結束を失った奥州勢は、あっけなく敗れ、奥州藤原氏の終焉となった。 こうして、見ていくと、 (1)確かに、関東の荒武者軍団は、後々、語り継がれることとはなりましたが、奥州武士団としても、決して、戦いが劣っていたわけではなく、泰衡の棟梁としての力量がなく、結束力を欠いた。 (2)また、泰衡は、従者の河田次郎により殺害された、といわれており、まさに、内部分裂であった。

bbkanto
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