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奥州藤原氏について。
奥州藤原氏三代目当主、藤原秀衡は鎮守府将軍に任官されたのは間違いではないですよね? 私は日本史が好きですが、自分が小学校から高校まで習った「歴史観」が物凄く変わってます。 (1)鎌倉幕府は当時のかまくら時代では『鎌倉殿』、『関東』、『武家』と呼ばれたと言う事ですか? (2)室町幕府は『室町殿』でいいのですか? (3)奥州藤原氏の場合は、『伽羅之御所』と呼ばれたんですよね? (4)それとも、『鎮守府』だけでしょうか? この4の質問に答えて下さい。
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奥州藤原氏の藤原秀衡氏は,平清盛氏の平家全盛期などの,1170年に,従五位の下,鎮守府将軍の位階などを,朝廷より賜っています..奥州藤原氏で,公に,鎮守府将軍の官職を賜ったのは,藤原秀衡氏だけのようです..先代や後継などは,『押領使』の役職のみのようです..藤原秀衡氏は,当時の後白河院(上皇・法皇)などの為政者や,その近臣とも縁があり,朝廷にも,顔が利いたようです..その後,平家の重鎮;平清盛氏が亡くなり,平清盛氏の三男の平知盛氏が,平家の跡を継ぎますが,打倒平家で挙兵した,関東の源頼朝氏や,信濃出身の木曽義仲氏などの抵抗勢力は,依然強く,平知盛氏の平家も,なかなか押さえられなかった為,当時の平知盛氏が,後白河院に,相談したらしい,Web上で拝見した,当時の情報などによると,京の朝廷では,奥州藤原氏による,源頼朝氏の関東への抑えなどとして,奥州藤原氏の三代目当主の,藤原秀衡氏に,陸奥守の官位を与えることを考え,同じく,平清盛氏の伊勢平氏に親しい,関東地方の桓武平氏の氏族などで,当時,関東地方の,平家寄りの氏族などを集め,信濃国で,木曽義仲氏と戦い,敗れ,当時の越後に退却していた城氏に,越後守の官位などを,与えようとしていたとかで,藤原秀衡氏は,平清盛氏の死後,陸奥守という,京の朝廷官人の官職を得て,家名に,箔を付けましたが,陸奥守の官庁などである,宮城県の,多賀国府には,赴かず(遙任),目代を派遣して,自身は,平泉の,柳ノ御所と呼ばれる場所で,政務を執ったとからしいです.. (1) 京の朝廷から見ると,鎌倉幕府は,『関東』,『右大将家(『東鑑』~)』などのようになるようです..又,『東鑑』には,『幕府』という名称も,あるようです..鎌倉殿は,源頼朝氏のことですね‥‥鎌倉に入ったので (2) 足利義満氏の頃は,京都市の室町に,屋敷があったので,室町殿,室町第(邸?)などのようですが,初代;足利尊氏氏の頃などは,京都市の三条通りに,屋敷があったので,三条殿などと呼ばれていたようです..足利義政氏の頃は,新室町殿か‥‥?『花の御所』なども有名ですね‥ (3) 前述のように,柳ノ御所では,ないでしょうか‥? (4) 藤原秀衡氏が,陸奥守の官職を得てからは,藤原陸奥守では,ないでしょうか‥‥?後に,源頼朝氏の側近;大江広元氏が,陸奥守に,就いていますが‥‥ すいません 失礼しました m(__)m 。
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- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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1)「鎌倉殿」は河内源氏の棟梁または鎌倉幕府そのものを指します。 ただし征夷大将軍=鎌倉殿ではないです。 「関東」は地域、「武家」は武士の家の事なので、鎌倉幕府だけを指すとは考えにくいです。 2)その通りです。が、当初は足利将軍の事も「鎌倉殿」「鎌倉将軍」と呼ばれていました。 3)奥州藤原氏秀衡の居館が「伽羅御所」です。 別に初代2代の居館(柳之御所)を改修した政庁・平泉館があります。 4)「鎮守府」は平安中期には既に役割を失っておりますので、「鎮守府将軍」は名前のみの位です。大体は陸奥守と兼任です。 ちなみに秀衡の次に「鎮守府将軍」になったのが源範頼の養父である藤原範季(1176年任 兼陸奥守)という公家で彼が平安時代最後の鎮守府将軍です。 なので、奥州藤原氏の政務機関を「鎮守府」と言うのは間違いです。
お礼
回答の返答が遅れてすみません。 もともと日本史は好きでありましたが、ここ最近まで関心があまりありませんでした。 奥州藤原氏の事を自分なりに調べましたが、勉強不足や自分の思い込みの考えもあり、今回の質問の投稿は 役に立ちました。
お礼
回答ありがとうございます。 自分が学校で学んだ歴史の勉強や、日本史の本、小説などと、今の歴史の解釈や教えが全く違う事に驚きました。 時代の変わりめや、新しい資料、文献の発見により、これだけ変わるのだと実感しました。