- ベストアンサー
旗本番方の仕事
旗本の番方(大番・書院番・新番など)は具体的にはどのような業務内容・職掌だったのでしょうか? 平時は江戸城の警固といっても、実際に立ち番するのは配下の与力・同心だと思うのですが、番士は詰め所で何をしていたのでしょうか?
- 歴史
- 回答数1
- ありがとう数1
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
定例日に出勤して詰所に詰めているのが仕事です。 詰めているだけでなにも事件が起こらなければひまをもてあましますが、一応警備のために詰めているので勝手に詰所をあけるわけにはいかず、弁当を使うのも交代でしかできませんでした。 そのためいろいろとあって陰湿なイジメもあったようで、刃傷事件になったりしたこともありました。
関連するQ&A
- 剣術道場と奉行所
創作ものをしているのですが、 ありがちですが、主人公が剣術道場へ門下生あるいは師範代として通っており、腕前はかなりのものとします。 で、江戸市中で辻斬り発生として、主人公も捕り手(与力か同心)として捜査に加わるという設定です。 おかしいでしょうか? wikiで見ると、同心は士分でないとか、激務であるとかあります。稽古する暇もないのでしょうか? 道場の門下生は暇な旗本でないと駄目なのでしょうか?城勤めの傍ら道場へ通っていたという事でしょうか?勝海舟は御家人とも聞きました。新選組は士分ではありませんが剣術道場をしていました。 テレビドラマなどで、あまり奉行所の役人と剣術道場を兼務しているのを見かけない気がします。 宜しくお願い致します。
- ベストアンサー
- 歴史
- 三度、宿場に関連してのご回答の理解解釈について
どうか誤解の修正と補足をお願いします。すみません。 1. 千住宿のこと。商店街の大きな看板はいう宿場通りというのが今の常磐線と東武線の北千住駅から日光街道に入る千住三丁目辺りです。 ここは、隅田川を千住大橋で渡り、ヤッチャ場を通り過ぎ、更に京成の千住大橋の駅とガードをくぐり、現在の荒川放水路に非常に近い位置(昔の都電の終点)です。 http://www.viva-edo.com/edo_hanni.htmlを見ますと、朱引き線は千住柳原(東武堀切あたり)から直角にぐうっと隅田川に入ります。 そして墨線はもっと南千住の手前(小塚原あたり)で西日暮里、道灌山にいきます。 私はここ日光街道千住三丁目あたりは宿場通りの跡の道だといっても、実際はその宿場町の最後の地域で合ったろうと存じます。(商店街は大きく看板を出していますが) むしろ朱引き線の通りに、千住大橋(河原町や橋戸あたり、やっちゃば)が宿場の本体地域だったろうと存じます。 千戸が住むんですから、そのくらい広い地域になっていたのでしょう。 そしてこの千住大橋(河原町や橋戸あたり、やっちゃば辺り)が旗本御家人にとってのご府内であり、奉行所の警察権の範囲だった。 しかし与力同心の定周り地域には入っていなかった。ということなんでしょうね。 大きな川であり、湿地帯の大きな河川敷の荒川を渡って、いざこれからお江戸という千住河原町が宿場で、そこがお江戸の区切りだった。 ということでしょうか。そしてそこの墨田川は橋もあり、ご府内としても差支えがなかった。 ということなのでしょうね。 2. 堀切、鐘淵あたり このあたりは仰せのように、町奉行の警察権の範囲の朱引き線内だった。 だから、川の真ん中を境にして、事が起れば与力同心が出張ることがあったが、与力同心の定周りの範囲ではなかった。 そして大店(おおだな)の寮や文人墨客の住まう、同じ墨田区向島もその警察権だけが及んでいて、与力同心は定廻りをする地域ではなかったんですね。 こんな理解で間違いはないでしょうか?あの地域のいろんな案内の用語や説明を整理して、あの地域の当時の状況をこのように画きたいのですが。いかがでしょうか? 回転が遅くて、なかなか呑み込めなくてすみません。
- ベストアンサー
- 歴史
- 大政奉還についてお尋ねします。
大政奉還についてお尋ねします。 大政奉還で徳川幕府の将軍徳川慶喜は明治政府に江戸城を明け渡します。 しかし、現在の皇居を見ると、明け渡したと言うより、むしろ迎え入れたような感がします。 革命的に敵を倒して入場した勢力が、旧勢力の敷地で心休まるとは思えません。場所を占領しても大規模な破壊や改修はあるのが普通の歴史ではないでしょうか。 質問1. 江戸城明け渡しの時、徳川幕府の官僚たち(旗本・与力・同心たち)は、そのまま居残って天皇に仕えたのでしょうか。それとも、京都から天皇が公家を率いて江戸城に入場して、幕府の役人たちは追い出されたのでしょうか。 質問2.もし、100%の居残りとか追い出しがなかったとすれば、大政奉還の直後の皇居には、どれくらい徳川幕府の侍が残っていたのでしょうか。パーセントで示していただけませんか。個人的見解でかまいません。 質問3.明治初期、宮内庁に相当する政府の部門はありましたか。あったとすれば、その規模(予算・人員)はどのくらいだったのでしょうか。はっきりしない場合は、今日との比較でもかまいません(例えば、今日の宮内庁よりも政府内での相対的規模は大きかった。など。) よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 伊賀忍者と甲賀忍者の待遇差
伊賀忍者と甲賀忍者の待遇差 江戸も平和な時代になると、伊賀忍者は同心として30俵3人扶持、職務も空き屋敷の管理とか軽い役目、甲賀は与力として200俵を与えられ、江戸城の門番などを務める。 元々の出自が、伊賀は足軽身分に対して、甲賀は望月家に代表されるように六角氏配下の豪族身分であり、武士階級だったという差はあるにしても、功績を考えれば、伊賀の方が上だと思います。 何せ甲賀忍者は伏見城攻防戦で裏切たため、守将の鳥居元忠以下が討ち死に落城しているのに対して、伊賀忍者は伊賀越えで家康を助けた功があり、幕府成立後の待遇の差に何となく釈然としません。 現実、伊賀忍者は服部半蔵正就の時代には待遇改善を要求する事件も起こしており、伊賀忍者自体待遇に不満もあったと思います。 裏切り者が重く用いられ、功臣が軽んじられたのは何故でしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
御回答ありがとうございます。 由緒ある番方も平時はたいした仕事はなかったのですね。