- ベストアンサー
大番の大坂加番
大番は京・大坂への加番の道中、江戸を出たら10万石の格式だったそうですが、10万石の格式というと具体的に一般の行列とどういう点が違ったのでしょうか? 大番の道中は50人にのぼる番士は皆、馬で移動したのでしょうか? 大坂への加番には、大番与力・同心も随行したのでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (2)
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
- 6dou_rinne
- ベストアンサー率25% (1361/5264)
関連するQ&A
- 江戸時代の江戸―京・大坂間の荷物輸送賃。
江戸時代後期には、飛脚業者がネットワークを組み、全国各地に荷物を輸送できるようになったそうです。 実際、旅先から自宅へ、あるいは旅先から次の目的地まで荷物を送っておき、軽装で旅を続けたという道中日記も数多いです。 では、具体的に、「どこからどこまで、どの程度の重さの荷物を送ったときの料金はいくら」だったのか、という疑問です。 天保のころ、1貫につき、伊勢山田から京都まで132文、京都から米原まで104文、岡田村(長野県松本市)から上田(長野県上田市)まで64文の事例を見つけましたが、京・大坂から江戸まで(または逆ルート)の事例は見つけられませんでした。 京・大坂から江戸まで(または逆ルート)の荷物輸送賃の記録があれば教えてください。 よろしくお願いいたします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 京都洛中の東海道筋はどこ?
東海道と大阪街道(江戸から京経由大坂までの57次)を旅する経路のうち、京の洛中の具体的ルートはどこだったのでしょうか? (洛中は経路自由だったかもしれませんが、一般的なルートを知りたいです) 逢坂関--山科--蹴上--三条大橋--(南進して)--寺町通-高倉通、 または(南進して)--大和大路--本町通--伏見宿 でしょうか? できましたら、図があるとありがたいです。(当方愛知在住)
- 締切済み
- 歴史
- 天領の位置について。
江戸初期(1603開府~1615大坂の役)の、御料所(天領)・旗本知行地の具体的な位置と、それぞれの石高を知りたいのですが、なかなか分かりません。(天領全国計200万石でしょうか) 国ごとでも知っているかたがいらっしゃればよろしくお願いします。
- 締切済み
- 歴史
- 江戸時代の厳罰主義について
このカテでいいかどうか分からないのですが、質問させて頂きます。 江戸時代の警視庁、すなわち南北の両奉行に勤める与力は50騎、同心でもわずか250人の人数で、当時の100万都市の治安を担っていたと聞きます。 今では、警視庁の警察官の数も4万5000人に上るそうです。 江戸時代の100倍以上ですね。 当時と比べて人口は10倍にしかならないのに、それでも検挙率が落ちているとの報道があります。 なぜ江戸の町奉行がそんな少人数で治安を保つ事ができたか、その理由は、厳罰主義に徹底していたからと聞きます。 10両の金を盗めば打ち首とはよく言われていますよね。 その他にも、真犯人に間違いないが物的証拠に欠ける時は拷問にかけて白状させる事が許されていました。 入獄すればしたで、釈免されるまで地獄のような毎日をおくっていた事と思います。 一方、極刑が言い渡されれば、市中引き回しや、はりつけ、獄門など、犯罪者にはとても厳しい時代だったと思います。 現在、厳罰主義を訴えると必ずと言っていいほど 「人権蹂躙、警察による管理社会の再来、自由に物が言えない暗黒社会」 と言って、いわゆる人権派団体から大反対されるのがオチです。 つまり 「厳罰主義 = 悪」 という考え方なのですが、それでは当時の江戸市民は実際どのような生活をおくっていたのでしょうか? 結構、江戸文化が花開いた時代だったように思うのですが、やはり人権派の人たちが言うように暗黒社会だったのでしょうか? 一般市民でも与力や同心に監視や圧迫を受けていたのでしょうか? 警視庁と東京都民、町奉行と江戸市民、この二つの関係に決定的な違いは何かあるのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸時代後期、町や村の仲間意識
他国者が地域の連帯感の強い宿場町や門前町で何らかの店を開業しようとした場合、何らかの制約がありましたか。 すんなりと受け入れてもらえたのですか。 「越後屋」「伊勢屋」「近江屋」というような屋号をよく見聞きしますから、よそ者を排除するようなことは少なかったのでは、と思っています。 逆に、まわりの人たちは皆親切だった、という事例でもよいです。 具体的な事例があれば教えて下さい。 城下町や江戸、京、大坂のような都会ではなく、小さな町で開業する場合です。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- お伊勢参り
お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて あれわいさのさ コチャ高輪 夜明けて 提灯消す (コチャエー コチャエー) 恋の品川 女郎衆に 袖ひかれ 乗りかけ お馬の 鈴が森 (コチャエー コチャエー) 六郷渡れば川崎の 万年屋 http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%8A%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B&tid=ef14ed153affa5b1158ed2978e6a14fa&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1 お伊勢参り 江戸時代中期以降、大坂の町民らの間で、伊勢神宮を目指す旅が盛んになった。参拝者は年間数百万人との史料もある。「ひしゃく一本持てば旅ができた」といわれ、沿道の住民による接待「施行(せぎょう)」も盛んで、「おかげ参り」とも呼ばれた。街道沿いには、参拝者を迎えた石灯籠(とうろう)や宿場町が今も残っている。 質問 :お伊勢参りを主題にしているHPはないでしょうか? 質問2:七つ:午前四時ですね。高輪で夜が明けるのだそうですが何時ごろ何でしょうか? 質問3:行列揃えてという歌詞:そんな団体を編成するのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 京の都から鎌倉まで、あるいは江戸までの移動日数は
中世や近世の交通に関する質問です。 鎌倉時代、都と鎌倉の間は頻繁に往復(公的・私的・軍事的に)していたと思います。 日数はどのくらいかかったのでしょうか。少人数と大人数によっても異なるとも思います。 東海道の場合と東山道(一部鎌倉街道)の場合でどうでしょうか。 江戸時代は京の都と江戸の間は何日くらいかかったのでしょうか。 大名行列、一般市民、飛脚の場合 これも東海道と中山道の違いを教えてください。 また例幣使は何日くらいだったのでしょうか。(都~中山道~一部東山道~例幣使街道~日光)
- 締切済み
- 歴史
- 江戸時代の吉原について
読んでくださりありがとうございます。 吉原について3点、知りたいことがあります。 1.初期の、引き手茶屋よりも揚屋が主流だった頃は、太夫だけでなくその次の位である格子女郎も指名されてから揚屋に出向いて客に会っていたと聞いています。 太夫が揚屋に向かうのがその頃の「花魁道中」だったと思うのですが、さて、格子女郎が揚屋に向かう際も人目を引くような道中があったのでしょうか? 2.いわゆる張見世(の中でも格式の高い大見世)の格子の中にいて、客が付くと二階の部屋に行く…という部屋持ちの女郎は格子女郎ではないのですか?このシステム自体揚屋があった頃と時代が違うのでしょうか? 3.江戸時代は火事を防ぐため町人はどんな大店でも内風呂を持つことは禁じられていたと聞きます。吉原の遊女たちはお風呂はどうしていたのでしょう?吉原の町内にいくつか銭湯があったのか、置屋は風呂を持っていたのか教えてください。 長くなりましたがどうぞよろしくおねがいします
- ベストアンサー
- 歴史
- おしどり遊び(テイトの飛び石ゲーム)の最小手数
「おしどりの遊び」というパズルがあります。 2色の石を1つずつ交互に並べた状態から、必ず隣り合う2個をいっぺんに移動しながら、色が同じになるようにする、というものです(下図)。 ●○●○●○ ↓ ○○○●●● この図では、はじめと終わりの石の位置が揃っているかのように見えますが、横にずれていてもかまいません。このパズルは日本では江戸時代に「おしどりの遊び」と呼ばれたのだそうですが、「テイトの飛び石ゲーム」という呼ばれ方もされるそうです。 上図には、2×3=6個の石がありますが、一般に2n個の石のパズルでの、最小手数はどういった数列になるのでしょうか? また、解がないこともあるのでしょうか? 検索しましたが調べきれませんでした。
- ベストアンサー
- 数学・算数
お礼
文献によって違うのですね。 下の御礼ではウィキを引用しましたが、以前読んだ三田村鳶魚のお弟子さんの書いた「江戸の旗本辞典」では組頭の役高は600石だった気がしました。 米80石というのは知行80石ではなく切米で80石という意味だったのですね。失礼しました。 でも中には一千石クラスの旗本も就いている由緒ある番衆が与力より格下というのは腑に落ちません。大番与力は町奉行配下の与力同様に御家人の職ではないのでしょうか。 同じ番方でも、小十人組の組頭すら大概順の上では大番の番衆より格下だったようですし、大番の番衆が与力より格下というのは疑問があります。 ド素人の私が僭越なことを言って申し訳ありません。 ありがとうございました!