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伊賀忍者と甲賀忍者の待遇差
- 江戸時代の伊賀忍者と甲賀忍者の待遇差について
- 伊賀忍者の方が功績があるにも関わらず甲賀忍者の待遇が良い理由
- 伊賀忍者と甲賀忍者の待遇差の背景として裏切りと功績の評価の違いがある
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「徳川実紀」にある「このおり、伊賀路まで御供せし輩は、のちに 召し出されて直参となり、鹿伏兎越えまで供奉し半途より帰京せし 二百人の者どもは、服部半蔵正成に属され、伊賀同心とて諸隊に配 せられしなり。・・・・・・・また甲賀の者も、武島、美濃部、伴 などというやからは、直参となり、その以下は諸隊に配せられて、 与力同心となされしもあり。」の事ですね。 これを見る限り家康は、伊賀、甲賀の衆の待遇に、あまり差別を 付けなかったようです。 御説のように直参になった甲賀の者は、もとが豪族の頭だった者で、 元の身分に応じるように、伊賀、甲賀の衆の職を決めたようです。 家康は甲賀衆を早くから使っています。 松平の頃今川の一族 鵜殿長持の上郷の城攻めに甲賀衆を呼び、伴与七郎、鵜飼孫六ら が夜城中に忍びこみ、放火し暴れ混乱させ伴は大将を討ち取った と記録されています。 その後もあります。 家康の「伊賀越えの難行」にも伊賀衆だけでなく、甲賀衆の働き もあったと伝わっています。 のちに島原の乱で甲賀衆が忍びとして、出陣したのもその価値を 認められていたためです。 伏見城攻防戦で、甲賀衆の一部が西軍に内応して放火して、落城 が早まっても、其の位の事で甲賀を憎む家康ではありません。 関ヶ原のあと、西軍について改易になった大名でも、のちに 相当な数の復権があります。 種々の事情で心ならずも西方 についた大名です。 元の知行に戻ったのもいます。 それまでの家康に対する功績を評価しました。 伏見城の場合でも、人質とかで止むを得ず裏切っても、家康は それを認め許したものと思います。 温情ある政治です。 この家康の温情ある政治が江戸幕府260年の基礎の一つです。 (あくまでも敵対する者は決して容赦しませんが) 家康は色々規則を作りましたが、ゆるやかで例外を認めました。 がちがちの規則にしたのは家光の時代からです。 今の時代にも温情ある政治が欲しいですね。 法律、法律で 一切例外を認めない今の官僚に、家康の爪の垢を煎じて飲ませ たいものです。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 >>甲賀を「こうか」と呼ぶのは地元なので知っています、鹿深(かふか)という言葉が由来になっており、この近辺を走ると「鹿深の里」とか「鹿深の道」という看板に出くわします。 そうですか、甲賀近辺にお住まいなのですね。 鹿深・・・鹿多くいるが、鹿深は「山奥の鹿」のこと。584年に百済から来た鹿深臣に由来し、その地名が変化して甲賀になった。 まあ、先の質問についてですが、 「死」をもってあがなったことで、甲賀百人衆の方が抜擢されたのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます、私も元々はこちらで生まれ育った人間ではないので、越してきたときは「KOUKA」の道路標識を見て、誤字だと思ったくらいです。 この近辺は万葉ゆかりの地名や施設も多く、百済寺(ひゃくさいじ)とか鬼室集斯(きしつしゅうし)など、なんだと思うような案内板も出ています。 以前は暇なときは自転車で近辺の古墳巡りに出かけ、一番遠いのは有馬皇子の「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む」の歌を訪ねて、和歌山までサイクリング(輪行)に行ったこともありました。 話がそれましたが、甲賀忍者も犠牲を払ったことで、それなりに許されたと言うことかも知れませんね。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 伊賀と甲賀は地理的には約80km位しか離れておらず、忍法にはさほど違いはない。 甲賀は割合早くから徳川家康に接近をしていました。 天正9年の「天正伊賀の乱」でも甲賀は家康のとりなしで信長から攻められることは免れました。 天正10年6月2日に起きた「本能寺の変」で織田信長が死亡した時、徳川家康は信長の誘いで堺の遊覧中であったが、本能寺の変を聞いた時、家康は一時は死を覚悟するも、なりふりかまわず甲賀の里へ逃げ込み、さらには、伊賀者たちにバトンタッチをされて伊賀の白子浜から船で三河に逃げ帰ることに成功しました。 この時、服部半蔵に率いられた200人の伊賀者が家康を助けました。半蔵は、他にも姉川の合戦や三方ケ原の戦いでも戦功があり、徳川家康が天下を取ると、「伊賀同心組」の組頭として3,000石を与えられました。 一方、甲賀者は、関ヶ原の戦いで伏見城を100人が籠城で死守して全員が死亡してしまった。 この功績により、家康は、戦死者の子弟100人を召抱えて「甲賀百人組」といい、「伊賀同心」よりも一階級上の「与力」に任じました。主な任務は千代田城の本丸と大手三門の番士でした。 その後、2代目を継いだ子の服部石見守正就が父半蔵の死後10年目に、人違いから家康の信任厚い重臣の家来を2人まで闇討ちにしました。また、正就の指示に反して、伊賀者が四ツ谷の西念寺に立てこもりストライキを起こしました。その責任を問われ、服部家は改易となり、その後の伊賀者は、南伊賀の百地氏と北伊賀の藤林氏の配下に組み入れられました。 まあ、伊賀者も甲賀者も家康を援けた功績はどちらも同じ位でしたが、やはり、死をもって家康を援けた功績を買ったものと思います。 *甲賀は、正式には「こうか」と呼び、忍法に関してだけ「こうが」と呼びます。 *通称「伊賀越え」では、家康ははじめ甲賀の里へ逃げ込み、その後、伊賀者にバトンタッチしており、伊賀者だけが家康を助けたわけではありません。 *江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。
お礼
ありがとうございます。 時代劇小説が好きで、上田秀人氏の奥右筆秘帳を読んでいたら、(時代考証は荒唐無稽な面もありますが)伊賀忍者、甲賀忍者、お庭番の思惑を軸に話が進む場面があり、概略としては甲賀忍者が一橋治済と組んで、旗本身分になるために家基を暗殺するなど暗躍する、そう言う話で、身分ということが度々出てくるので、何故裏切り者の甲賀が伊賀忍者の上に置かれたか不思議でした。 甲賀を「こうか」と呼ぶのは地元なので知っています、鹿深(かふか)という言葉が由来になっており、この近辺を走ると「鹿深の里」とか「鹿深の道」という看板に出くわします。 地元と言っても生まれは愛知県(この近辺では愛知を『えち』と読み、愛知川(えちがわ)を『あいちがわ』と読んだら、よそ者と一発でばれました)で、来た当初に道路標識に「KOUKA」とローマ字で書いてあるのを見て、初めて知りました。 江戸城は太田道灌が武蔵国豊嶋郡千代田村から「千代田城」としましたね。
お礼
ありがとうございます、劇画で鳥居忠恒が甲賀を深く恨んでいたとか、いろいろ甲賀に関する小説・劇画を読み、何故伊賀より優遇されたか不思議に思っていました。 考えてみれば、関ヶ原以降も豊臣氏は健在ですし、島原の乱もあるので、甲賀を切り捨てるという訳にもいかなかったのかも知れませんね。