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全能の神は 難問を解けるのか?

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.27

>このような観点からOOをしなければならないということを作らない事 といっているわけです。  OOをしなければならないと思うことは すでにそのことを愛しているのです。  そしてそのOOをしなければならないを 他人のこころに強要することが 争いの種となるのです。争いをおこしたくないのであれば強要しないこと。 OOしたほうがいいとおもいます。くらいにしてシツコクしないことです。 ということですが、  仏法では、「慈悲」です。  愛を説いているといいながら、本当の愛を知らないようです。  御本尊に背く邪宗謗法に人達が、皆、無間地獄に堕つべきところを助けるためにも、折伏をするのであります。  この折伏をしないということは、いったい、どういうことになるのか・・・、それは、人が地獄に行くのを放っておくことだから無慈悲になる、と言われております。  ここで、慈悲ということについて、章安大師の「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」との言葉があります。  「慈」とは、相手の悪いことを取り除いてあげること、相手の悪いことを「間違っていますよ」と言ってやめさせることが、本当の慈悲ということです。  この慈悲の心というものがなくて、表面的に仲良く付き合っていくことは、相手にとって怨になる、と言われているのです。  言い換えれば、偽りの親しみということになります。  偽りの親しみは、本当の慈悲ではない。表面的な偽物の親しみであって、本当の友情でもなければ、本当の愛情でもありません。相手にとっては、むしろ怨になります。  大聖人の仏法を下種仏法といいます。これは、相手の生命の中に仏になるための種を植える仏法ですから、下種仏法というわけです。  この下種仏法においては、信じた人も救われるけれども、反対し誹謗した人もついには救われるのです。これが下種仏法の大功徳なのです。  この仏法を誹謗して地獄に堕ちることになるならば、それは、仏法のことを知らないまま地獄に堕ちることとは、まったく似ても似つかないことなのです。  つまり、仏法のことを知らない人も、結局、不信謗法の失によって、最後は、皆、地獄に行くわけですが、その地獄の苦しみから抜け出す方法がわからない、幸せになる方法がわかりません。ところが、仏法のことを知り、それに反対して地獄に堕ちた、という場合は、その人の耳等から仏法が入って、しっかり生命の中に仏になる種が植わっていますから、いったんは地獄に堕ちたとしても、必ずいつか、その種が芽を吹いて仏法につくことができ、救われる日がくるのです。  或る信者の友人の話ですが、  彼の所に来て、この御本尊様を指さし「こんなくだらない宗教をまだやっているのか」と大笑いしれ嘲って帰ったことがありました。  それから一年目の同じ日に、起こさなくてもいい所で不可解な交通事故を起こし、電柱に頭を激突させて頭を砕き、命を亡くしたのです。  日蓮大聖人様は、「この仏法に背けば、百日目、一年目、三年目、七年目の区切りで必ず罰がある」と説かれていますが、彼の友人は、御本尊様を誹謗して一年目の同じ日に、頭を砕いて命を落としたのです。  また、Wさんという方は、この仏法の話を何度も聞き、聞くたびに「良い話ですね。でも、今日は時間がありませんから、またそのうち・・・」と言っては逃げていました。  その人は、けっして悪口を言ったわけではないのですが、五回、十回と話を聞いて、なお信心ができなかったのです。  それから二週間ほど経った時に、Wさんは交通事故に遺い、奥さんと子供さんは即死、自分自身も頭を打って意識不明、数ヶ月後に意識は戻ったのですが、頭がおかしくなっていました。気の毒だと思って、その後も信心の話をしようとしたのですが、もう普通の会話ができない状態なのです。それも頭破七分の現証です。  最後に重ねていいますが、仏様が罰をあてるのではなく、仏様は民衆を救おうとして、不幸を免れる方法を説いてくださった、それなのに、それを知りながらあえて背く者が悪いのです。

chihoko
質問者

お礼

●仏法に背けば罰があるって その罰はどこからくるのでしょう。  その罰がくるところと仏法には どんな関係があるのでしょう。  知りながら敢えて背く者に罰があるわけですから。  罰を下すものと仏法は無関係ではないということになります。  言い換えれば罰を下すことに仏法がかかわっているということになります。  このような論法であなたが仏法のことを言い続けることは  決して仏法にもあなたにも良いことはありませんよ。 ●なぜなら他の宗教によってその罰を下すものが排除されるからです。  いわれのない罰をうけることは 誰も好まないからです。  日本ではあなたは比較的に安全かもししれません。  しかし異国の他教徒の国でいまあなたがここで述べている論理を  話しつづけてみてください。殺されることもありうるのです。  あなたは それだけ危険なことを知って口を開いていますか? ●もういちどわたしの設問を見て ほどほどを心得てください。 ●処刑人という映画を観ることをおすすめいたします。  あなたがやろうとしていることはこの映画のなかの処刑人となんら変わりません。  処刑人の感覚がPOPなだけあなたよりズットましです。 ●あなたの信ずるところのモノで世の中を良くしようなんて思ってはなりません。  平等にしようとか真理を開こうとも思ってもなりません。  みんなの思いがそれぞれにあることが許されて それでも 尚  平和と平等と自由と個人の権利がMAXになる「システム」が必要なだけです。  いま そのようなシステムはありません。しかし近い将来できるでしょう。  あなたはあなたの信ずるところにより思う方向にいけばいいじゃないですか。  わたしは地獄に落ちようが突然死のうがどうでもいいのですが。  こころの自由だけは失いたくないです。  ただあなたの文言によりあなたの身が危険になることだけは覚えておいた方がいいですよ。

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