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「死刑」は「生命の尊厳」を前にすると意味が無くなる??

TooManyTroublesの回答

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回答No.15

 本日は非常にタイムリーな質問というか問題提起を戴きました。80%にもおよぶ死刑賛成派がいます。そこで、法の前には「生命の尊厳」が平等であること、社会を制御する法と刑罰の程度の流動性に関して分析的なお話をしたいと思います。  ちょうど米国であるギャング殺人鬼Williamsがハリウッドスター(シュワ)によって加州法による死刑を執行されました。ネットアンケートでは宣告された殺人鬼を死刑執行が当然であるが74%、それは野蛮な報復で何も改善しないが26%でした(20万回答の分析)。回答者は主にアメリカ人で、911に対するイラク攻撃以後の報復主義的な傾向がうかがえます。かつてアメリカを風靡していた穏健な進歩主義者:リベラリストはどこへ行ったのでしょうか。殺人鬼Williamsは晩年は改悛して子供たちにギャングの悪さを教える本を書いていました。かわいそうな話です。  911事件以後アメリカは人権外交と平行して、人権を損ねるものに対決する姿勢を強めています。そのおかげで、北朝鮮による拉致のことで何か言ってくれるのは米国だけです。一方で、利権がらみの疑いを映画にされたようなイラク攻撃にも手を緩めません。これらの緊迫した背景が、半社会的なものに対する嫌悪感や危機感となり、この世論調査と無関係ではないことは疑う余地がありません。  ヒトの体や心と同じく、ヒトの集まりである社会も不完全で、純粋な”命の尊厳”を等しく守れないのが真実で、どうすれば、それが”命の尊厳”の平等を維持できるかが世の中では常に非常に重要な課題です。  囚人のジレンマやナッシュ理論を持ち出すまでもなく、個々の”犯罪者”予備群に最良の選択をするようにしむけければいけません。科料の重さ軽さはそこで決定されます。もし、極刑である死刑を廃止して、凶悪事件が増加すれば、復活するのは、ナッシュ理論にかなっているでしょう。いままで長い歴史のなかで、人類は、ある均衡点にあるとします。そして依然としてでなく、死刑支持が復活していることを考えると、ナッシュ平衡が社会的緊張によって移動するといった流動性を帯びたものであることがわかります。その意味するところは、人類が別の存在にならない限り、死刑はなくならない(なくすることができない)ことかもしれません。  社会契約法の精神に元ずく、法律は個の「命の尊厳」を絶対とするものでなく、「命の尊厳」の平等を絶対とします。法の前に命は平等であり、命が法律に対して絶対であるとか有利であるのではありません。(リベラル思想の規定はそうですがどこかにいってしまいました。リベラル思想の発祥の地アメリカではいまや誰もリベラル思想を中心にすえて世の中がうまく回ると信じていません。)そのためには「命の尊厳」を犯す悪意に対して制裁を許容します。その制裁の強さが極刑の程度を規定します。なお制裁は報復を目的とするものではありません。「被害者の悲しみ」故の死刑は単なる報復主義で現在法の立場ではありません。あくまでも社会の制裁です。  最後は蛇足になりましたが、われわれはたった一つの命の尊厳をかけて、世の中で生活しているのです。命だけは平等です。法の出自はその平等を守るもので、特定の生命の尊厳を守るものではありません。現象を客観的にみますと、法による罰の強さは、不完全で不均一な社会を構成するそれぞれの要因を制御するために、ナッシュ均衡(かそれに近いもの)で規定されています。アメリカではリベラルな考え方で社会を運営する試みはとうに失敗して再びアンチリベラルに傾いています。  なお、根拠が明確でないーという意見は、ナッシュ平衡の前の色々な判断の理由がはっきりしないということですが、では反対だと考えていて、やっぱり殺人鬼は恐いから賛成というふうな形で、流動的な形で個々では判断されているとお考えください。判断は市民生活上の恐怖や嫌悪の感情も入ってのことです。  長文で失礼しました。

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  • 「死刑反対・賛成」とどうして被害者以外が言えるのか?

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    そして 「死刑議論とはなんのためか?」 改めて 私自身も考えさせていただきました そして ある結論にいたりました 私たちが死刑について考えるのは 被害者やその遺族のためではない 加害者の人権のためでもない 私たち自身のためであり 私たち自身の命をどうまもるのか? という議論であるべきではないでしょうか? 死刑が私たちを守っている という部分に関していえば 凶悪犯罪者の社会からの排除そして 無力化 というのであれば それは 代替できる刑罰を考えうるでしょう 死刑の抑止力という点をいえば 死刑によって抑圧されていた犯罪が増える以上に 防犯策を強化すれば 抑えられるでしょう 経済的な問題ならば それは 国の予算すべての中で 思案されるべきことですし それが 社会にとって重要な事柄であれば 「お金をだしたくないからできない」が 先に来るのは変だといえます つまり 死刑というのは 私たちにとってそれほど 利益を与えているわけではない と考えます そして問題なのは 「私たちの大きな損失になりうる」ところです ある死刑反対派の方の意見にこうありました 「私たちは殺される側であって 殺す側ではない」 これは とても 的を射ていると感じます 凶悪犯罪を含め 私たちの想像を超える 狂気的な悪意や無情が 私たちの命を脅かしたとき 私たち個人はあまりに無力だといえるでしょう 私たちに 唯一対抗しうる力があるとするなら それは 「数」の力 つまり 民主的な力 しかありえないのです しかし いま その力は 「正当な殺人」というものを支持し 私たち自身を「守る」ために機能していないのでは ないでしょうか? 「理由さえ用意すれば 私たちの命も奪われてかまわない」 ということになりはしないでしょうか? 死刑存廃の問題を わたしたちは 誰のために考えるべきなのか 問いたいとおもいます 追記として・・・被害者が置き去りになっている とのご指摘がつくことを想像しますが ほんとうに 「被害者のために」 私たちは 考えなければならない とお考えでしょうか? 私たちが 考えるべきは ある人に起きてしまった一つの事柄 についてではなく 「私たち自身の不幸の回避」と「その後の社会の未来」ではないですか?

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  • 死刑は「正義の実現」のためです。

    本来、死刑に「効果」を求めるのは間違っているのです。 人間の命は平等です。被害者の命を奪った罪に対して死刑以外の 刑罰では「加害者の命>被害者の命」となり公平を欠くのです。 それは正義ではありません。 罪無き人の命を奪った罪は、自らの命で償わせる。 これが原則であり、正義の実現です。 正義が軽視された社会に、理想も調和も秩序も発展もありません。 死刑反対派は、死刑は権力の乱用、人権侵害だと言いますが、 加害者に人権があることは、犯した罪に対する罰を逃れる権利が あるというわけではありません。 日本で死刑になりたくなければ、人を殺さなければいいだけです。 それでもルールを破って人を殺す者の人権は、社会に制約されて 当然です。 死刑賛成派は「正義の実現」の為に、加害者の命を奪う死刑の重責 を、社会全員で背負ってゆく覚悟がありますが、死刑廃止はこの 重責から逃げているのです。 死刑を廃止すれば、もうどんなケースであろうと死刑が出ないの だから、死刑か否かと悩む必要もなく、気楽なことでしょう。 でもそれは、何が正義かという厳しい判断を放棄し、正義を実現 する責任からも逃避することです。 そして死刑反対派は、逃げながら折衷案のつもりで、死刑よりも はるかに人間の尊厳を損なう終身刑などというものを持ち出します。 人間というものに関する無知なるがゆえ、そして臆病で卑怯で 無責任なるがゆえ、より大きな過ちを犯そうとするのです。 今のところ、日本人の85%はそのような妄想的非常識人ではない ので、当分死刑が廃止される気遣いがないのが幸いです この考えで間違っている部分はありますか?

  • 死刑廃止したら

    死刑廃止したら殺人事件が減ったどころか増えてます。 アムネスティの死刑廃止したら殺人減少したと言う虚偽データ カナダでは1966年に死刑廃止以降殺人事件が急増している事が分かる サイトの下記のグラフ参照 http://www.geocities.jp/aphros67/090620.htm 死刑回避してしまうアホ裁判官も死刑反対とか言う人も殺された人の命よりも殺人鬼の命が大事と言ってるような悪人にしか見えませんね。 死刑廃止論者は死刑廃止したら殺人減少したと大嘘言ってまで犯罪者の命を庇う極悪人です。ある意味殺人犯より憎たらしいです 朝鮮人追放、傷害致死、殺人、強姦、飲酒運転と無免許運転と麻薬で死亡事故、強盗致死だろうと法改正し即死刑と言う法律が正常 刑法39条廃止、生野通り魔の在日と大阪の全裸でトラックで2人殺した在日が精神異常で無罪という異常な判決、不起訴処分。精神異常で殺人する怪物は死刑にするのが正常な感覚ですが刑法39条と言う危険な悪法が存在しています 被害者より加害者の命と人権を大事にする現在の法律は精神異常者が作ったとしか思えません。 ぼくは高卒で馬鹿ですが、有識者の皆様は いかがお考えですか?

  • 私が死刑制度に賛成する理由は以下の通りです。

    1.刑法で殺人をすれば死刑もあり得ると書かれていて、 それを知っていながら殺人をしたわけだから、死刑に処せら れるのは当然。死刑になりたくなければ殺さなければ良い。 2:身勝手な欲望で被害者の命を奪った加害者に対し死刑 以外では「加害者の命>被害者の命」となり不公平。 誰の命も公平なはず。 人殺しが生かされてるのはきわめて不公平であり、正義が 実現されていない。 3.人を殺したら死刑になるということが、犯罪者に殺人を 躊躇させる(抑止効果と言う)。 一説によると、一人の殺人者を死刑にすることによって、 3~18人の命を助けることができたかもしれないという 調査結果が出ている。 4.人間は誰も、一つ間違えば殺人をするような残忍な性質 を内在している存在であるということを、忘れないための戒め として、実際に刑が宣告され、執行されることがあろうが なかろうが、未来永劫存続させることに意義があると考える。 5.死刑判決を受けると拘置所で毎日、俺の命も今日までか と生きた心地がしない日々を何年も過ごさせられる。 さすがの殺人犯も命の大切さを思い知らされ、被害者に対し て申し訳ないという反省に至る。 加害者の真摯な反省は、被害者遺族の慰めになるし、反省し て人間らしい心を取り戻させてからあの世へ送る方が加害者 の人間の尊厳が守られる(凶暴な動物のように、檻に閉じ込 めて飼い殺しにするより、少し短いとはいえ、人間らしい 人生を終わらせてやれる)。 「ただ生きるな、良く生きよ」(ソクラテス) 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(孔子) みなさんは どう思いますか?

  • 死刑制度に賛成ですか?反対ですか?

    【日本の現行の死刑制度に賛成ですか?それとも、反対ですか?】 非常に難しい問題であると思いますが、皆様からの御投稿をお待ちしております。 さて、私はと言うと…死刑制度には【賛成】です。 そのように言うと、死刑囚(加害者)の【人権】はどうなるのだ…という御意見も出るかとおもいますが、では逆に、「被害にあってしまい殺された人達(被害者)の【人権】や遺族感情はどうなるのだ 」と言うことも出来ます。 何人まで人の命を奪ったら死刑、どのような方法・動機で人を殺めたら死刑という【基準】となるものが存在していません。実際、ひとりの人の命を奪うということ自体、人として、人間としての道にそれることであるわけです。決して、許されることではないわけです。 つまり、何人の人の命を自らの犯行によって奪ったから死刑を求刑されるという【基準】があること自体、私は大きな疑問を感じるわけです。 ひとりの人のかけがえのない命を奪うという行為自体、同じ人間として、断じて許されることではありません。 【死刑=贖罪】であると、私は考えます。 この問題に関しては、賛否両論に分かれると重々、承知しておりますが、皆様からの御意見・御回答をどうぞよろしくお願い致します。 最後まで読んで下さって、ありがとうございます。

  • 死刑制度について

    なぜ殺人を犯すと死刑にするんでしょうか? 死刑も殺人となんら変わりないですよね? そもそも死刑にしたってなにも変わらないと思います。 遺族の方がよく感情で死刑にしてほしいと言いますが、そしたらその遺族の方もやっていることは 同じです。殺人と同じことだと思います。 それに、やったらやり返すってまるで子供のような、そして、戦争に賛成しているようなもんだと思います。 なぜそれなのに死刑にするんでしょうか? それに死刑なんてぜんぜん抑止効果もないと思います。 殺す人ってのはそんな法律のことまで考えて殺さないです。 とにかくどうなってもいいからその人を心から殺したいと思って殺すわけです。 まったく抑止の根拠なんてありません。 抑止効果があるなんて実際死刑を廃止してみないとわからないことじゃないですか。 それなのに死刑が存在するってのはおかしなことだと思います。 遺族の方には申し訳ありませんが、感情的になりすぎて我を見失っていると思うのです。 自分だったらたとえ親がころされても決して死刑にはしません。 なぜなら、死刑=殺人っていう認識があるからです。 いかなる理由でも人を殺すことはいけません。 ですから、死刑もいけないと思います。 ですから、罪を与えるならば終身刑という制度を取り入れるべきだと思いました。 みなさんはこのことについてどうお考えですか? みなさんの意見を聞かせてください。