• ベストアンサー

哲学にレトリック

noname#50219の回答

noname#50219
noname#50219
回答No.13

また、あなたのように、ご指摘を下さる方とお話させていただけたらと、思っています。ご指摘いただけるのは、大変ありがたいことです。  二回目で主張したかった事柄を、明瞭にまとめてみます。今回は、論理を省いたり、抜かしたりすることのないように。 ニュートンの話について。 ニュートンが、ほら、りんごが落ちた、りんごが落ちたんだーっ!と、その驚きを皆に吹聴して回っても、万有引力を説明したことにはならない。「ニュートン、新しい遊びを思いついたかい?」なんてことを言われたりするだけで、相手にされない。ニュートンが、落ちたりんごを指して、「りんごが地球に引っ張られたのだ。万物は、引き合う力を持っている。」と、相手に言わなければ、驚きは共有できない。更に、学会において理解を得るには、万有引力の法則のある事を、証明し、発表しなければならない。 ルソーだったかな、このような意味の言葉を、思い出します。 「我々は、証明すべき事柄をひらめきの内に発見するが、それまでの道筋は見えていない。それへの道筋を辿ってゆくことが、証明すると言うことである。」   以上の、ニュートンの例え話や、ルソーの言葉を経て、今、改めて、理解について、次のように述べます。  話し相手の前で、瞑想(沈黙と対話)していたり、自然に入っている(自然と対話)だけでは、話し相手の存在を埋没させてしまうことになる。 何かの事柄について相手と話し合うときは、その事柄、つまり共有する話題の材料のほかに、相手を見て話さなければ、理解に繋がらないだろう。   釈迦は、 1、瞑想していることで真実(理解されるべき事柄、対話の目的、意味)を知っており、 2、対話者(弟子)が釈迦を認めているように、相手を認めることでその個人(理解を必要とする者)を知っており、 3、自然を観ていること(対話の目的に囚われず、現状が見えていること)で、相手の理解のためのきっかけを得、「効果的な証明方法」を編み出すことができた。   効果的な理解の方法を、得るための条件を示すために、釈迦の話を紹介させていただきました。1、2、3、の文中に出てきた()の中は、うまく理解がなされるために、知っておればよい事柄です。()内を簡便に書き出します。 1、意味、目的 2、理解する者 3、現実 1は、お題、 2は、考える人、  3は、周りのこと です。 3つを欠かなければ、理解は正確にして、早まると思います。 これらを総合すると、例えば、レトリックという、意味を理解するきっかけも、上手に得れるのではないでしょうか。 今回は、うまくかけたかな? 自信はないけれど。もしご指摘あればおっしゃってください。では(^^)ありがとうございました。

konstellation
質問者

お礼

またまたご回答ありがとうございました。 >何かの事柄について相手と話し合うときは、その事柄、つまり共有する話題の材料のほかに、相手を見て話さなければ、理解に繋がらないだろう。   つまり、普通一般の「対話」のことですよね。 それで、回答者様が仰りたいのは、 対話において相手を特に重視した有名な例が、 釈迦とその弟子たちの対話である。 弟子たちのそれぞれの性質を釈迦は洞察していて、 それゆえ、それぞれに合った言葉を心がけていた、 ということですね。 そこで、私が無知なためよくわからないのは、 元のお話にある、愚直な弟子はレトリックなどを使ったら、 もっと理解できないのでは? ということです。 たとえば、「あいつは狼よ」とAさんが愚直なBさんに言った場合、 愚直なBさんは、「ぇ~、狼? 人間じゃないの? マジ~?」 というようになるでしょう。 愚直な人は、レトリック的要素を解せない場合がありますので。 つまり、 「塵を払い、垢を除け、と言いながら、毎日掃除をしなさい。」 という言葉がどうレトリックなのかが私には分らないのです。 これは、本当に、言葉のそのままの意味で言われたもので、 実際、愚直な弟子も、この言葉にそのまま従って行動しただけ ではないでしょうか? 彼はこの行動をする際に、何か難問を理解したのでしょうか? 彼が「ひたすら続け」、悟りを得たのは、 その努力の結果、すなわち継続は力なり、 なのではないかと思いました。 あ、もうこちらにご回答いただくのも申し訳ないので、 新たに、「釈迦の説法」ということで質問したいと思います。 そういえば、私、 回答者様に対して「釈迦に説法」 という過ちを犯しているのかな(汗

関連するQ&A

  • 哲学初心者

    哲学初心者です。 哲学書なんか読んだことありません。 「ソフィーの世界」は昔読んだことありますが、あまり頭に入ってません; 今までの読書歴も深くありませんが、最近、哲学を学んでみたいと思うようになりました。 そこでどういうものから読んだらいいでしょうか? やっぱり、ソクラテスからですか? それかプラトンの「ソクラテスの弁明」や「饗宴」でしょうか? ソクラテス→プラトン→アリストテレス→デカルト→カントっていう感じで岩波文庫の本を読んでいったらいいでしょうか? ご教授ください。

  • 歴史上最も真理に近い思想を語った哲学者は誰か?

    ソクラテス プラトン アリストテレス、 孔子 老荘 釈迦 デカルト ヘーゲル カント 、イエス アウグスティヌス トマス・アクィナス キルケゴール ニーチェ サルトル、フロイト デューイ ラッセル 哲学者数多いる中で 最も当たり前の真理・真実に迫り、語った哲学者は誰でしょう 勿論私の知らない哲学者でも構いません あなたの一押しは誰でしょうか? 私は長文が苦手なため 簡潔にご紹介ください。どうかよろしくお願いします。

  • なぜ、男は哲学するのか?

    タイトル通りの質問なら、「大脳生理学」のようなジャンルで考えることだとは思いますが、このカテに普段出入りされてる方に敢えてお聞きしたいです。 古今東西、と言っても日常、日本人にとっての哲学は「西洋哲学」とほぼ同義語のことが多いと思います。 ソクラテス・プラトン・アリストテレスの時代から、デカルト・カント・ヘーゲル、そして最近ではニーチェ・サルトルに至るまで、みな男です。 そして、おそらくここのカテを出入りしてる方も圧倒的に男が多いと思います。 昔から、なんとなくその事に対する理由としては、「男は形而上学的なことに関心があり、女は現実に興味がある。」程度にしか思わなかったのです。 しかし、だとしたらなぜ男は「形而上学的なことに思いをはせるのか?」と今更ながら素朴に考えてしまいました。 「時間とは?」 「空間とは?」 「存在とは?」。 「認識とは?」 「理性とは?」 このような事に対して思いをはせてるのは、昔から男だけのようです。 もちろん、稀にそういう女性も居るでしょうが、微々たる数の筈です。 とっさに思いつく男女の差は「性欲」のことです。 そして、性欲というとフロイトを思い出します。 フロイトは、あくまで「性欲」と「人間の行動」の関連について考察しただけで、それ自体は「哲学」でも「形而上学」でもありません。 ただ、性欲求行動と哲学的思考回路はどこかで繋がっているのかなどと考えてしまいましたが、これはあくまで思いつきです。 思いつきですので、別にフロイトや性欲との関連に限定しません。 どうして男は哲学するのか? ご意見下さい。

  • 科学と真理について

    人が、もし科学によって真理を見つけ出すことが出来るのだとしたら、現代科学において採られている科学的手法(帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築)は、本当に真理を求めるに足るものなのでしょうか。 なお、既にプラトン、アリストテレス、ベーコン、デカルト、マキアヴェッリ、カント、クーン、クワイン、ポパー、カルナップ、ファイヤアーベント、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、シュリック、ヘンペル、ハンソン、ラカトシュの哲学書籍については、既に読んでありますので、これら著作を読んだことを前提にご回答戴いても差し支えありません。 恐縮ながら、ご回答お願いいたします。

  • 『聖書』を知らなければ話にならないというお話

     が多すぎませんか?  (あ) 聖書が《神は生きた者の神である》と言っているのに ニーチェは《現世の否定・生の否定》と見てへんちょこりんな殴り書きの批判を延々とつらねました。  (い) プラトンは イデアの世界がこの経験世界に影を落としていると 一介の人間でしかないのに勝手に 断定しています。それは 思想は自由だからよいとしても その思想を聖書による神学と一緒くたにするというマチガイをも侵しています。  (う) 神とあまりなじまないアリストテレスにしても その絶対(ないし非経験の場)を 《第一原因》と捉えました。つまりは 《不動の動者》です。かんたんに単純に《神が人間世界を動かしている》と言うのなら プラトンとあまり変わらない。  (え) 聖書の《創造主なる神》は あくまで物語です。経験事物が被造物だというのは――アリストテレスと似てはいますが―― その絶対と相対とのあいだの隔たりをしっかりと確かめるためにタトエで述べているだけです。  (お) (むろん 神は《そのナゾが何であるか分かるか分からないかが 人間には分からない》のですから ひょっとするとほんとうにこの世界を非知なる神が造ったということなのかも分かりません。いづれにしても 聖書記者の意図は まづタトエで分かりやすく表現したのだと考えられます)。  (か) 聖書とそれにもとづく神学を知らないデカルトは ご苦労にも《神の存在証明》をおこなっているようです。まったくの不首尾のもとに。こんなことは 一度共通の理解に到っておけば 無駄な議論が省けます。  (き) ヨーロッパ人は 《真理と真実》とがよく分かっていない。真理は 絶対でありけっきょく非知なる神のことです。真実は 事実認識としての誰れ彼れにおけるその主観真実のことです。  (く) 神学は 経験現実について知るために 前提事項として知っておくという問題です。おそらく聖書の神学が 哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます。  (け) 聖書を知らない――またけっきょく誤解している――ことによるむだな議論が多すぎます。のではないですか?    

  • レトリック

    初歩的な質問で申し訳ないのですがお暇なときに。 1.尊属殺人が刑法から削除された時の理念は、「被害者の法の下の平等に反する」というレトリックだったと思います。 2.「男女差別はいけない」というのは、否定しにくいレトリックです。 この2点から考えると、 「私(男)の父と隣のおじさんは平等であり、隣のおじさんと隣のお姉さんは平等です。私は隣のお姉さんと結婚できるのだから、私の父と結婚してもよい」 となりますが、このレトリック、どこがおかしいんでしょう? 非常にプリミティブな質問ですいません。 「おかしくないよ」とか、「男女差別がいけないという共同幻想が、、、」ではなく、ちょっとした遊び感覚でリーズナブルなお答え期待しています。

  • レトリックって何ですか?

    こんにちは。 本を読んでいましたらレトリック技法という言葉が出てきました。 ??です。 調べてみました。「遠まわしに・比喩的な表現」というような事や 「程度の内容から高度の内容へと導く技法・・」みたいなことが書かれていました。 なんとなく分る様な分らないような。頭の中がしっくりいっていません。 具体例やこんなものです。という定義をどなたか素人でも分るような表現でご教授いただけませんでしょうか。 内容を自分の中で消化することができないので先きに進めません。

  • レトリックについて

    今、レトリックについて勉強しているのですが、 RAGFAIRの「白い天使が降りてくる」という曲の歌詞で「窓の外には プラタナスの木に おめかしをする 北風の子供達」という部分がありますがこれはレトリック的にどう解釈したら良いのでしょうか? (くだらない質問でごめんなさい・・。) あとレトリックについて詳しくわかるサイトなどがあったら教えてください。

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 希臘哲学伝承でイスラムは自慢を欧米は感謝をしたの?

    中世イスラームが継承したギリシャ哲学、開花させた科学文明を何故,いつ頃から軽視・罪悪視したのでしょう?  イスラームは過去の大文明を誇りに思い自慢しないのか?欧米は感謝してないのでしょうか? ◎御心当たり無ければ、イスラーム由来のお好きな文物や音楽でも御教え願いますか? 私はALCOHOLです(^^。以下に備考、御存知ならば端折って下さい。此れら踏まえた推理や意見でも構いません。 ●古代ギリシャの哲学は、9世紀からのアッバース朝に於いて継承され、イスラーム哲学を開花し、帝国の西方イベリア半島から西洋に伝わったのでしたね。 特にアリストテレスやpseudディオニシュオス等の文献が、バグダッドの“智恵の館”と云う公館でアラビア語に翻訳された。医学や数学,天文学なども。基督教の欧州中世は遅れてたと言えるでしょう。 ●現在原理主義者は1400年前に帰れと云うので、アッバス朝の前しか認めないのか。にしてはネットも近代兵器も使用、音楽も利用してる。  http://news.yahoo.co.jp/pickup/6150282 ところが楽器を燃やす画像も。◉スンナ派の四大法学派,初期に論争あり、音楽も禁止されてたとか。わけ解りません,その原理。 【質問】趣旨: 特に近現代の一般のムスリムの人はあの輝かしい伝統を知ってたのか?。知ってて否定的なのか、誇ってるのか?。自らが中興のルーツと言えるのに、何故その後継者(西洋)文明の受け入れを制限するのか? 等です。自慢してるの聞いた事ありますか? サウジの病院ではAlcohol消毒も禁止の所が在る(イスラーム教における飲酒Wiki)。 TVでデンマークのモスクの指導者が「近年のイスラーム社会は西欧のマネばかりしてる」と嘆いてました。過激派でもなく一般のムスリムです。Iステートにも一部理解示してる。 ⭕イジュティハード;اجتهاد,英語,ijtihad.(此れは重要Wiki参照) クルアーンやスンナ(ムハンマドの言行)の原則への、法的解釈と応用の規範か。地域や時代によって、法解釈は柔軟・厳格、様々なようです。エジプトと昔のムスリム同胞団とかは柔軟みたい。 ◉一方、現在の欧州人は其のイスラームの先行性を知ってるのか? 恩義で感謝してるのか?  無論かつての西洋思想家は常識にしてたはず。  ~Wikiで、イスラーム哲学、科学、を参照下さい。 http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/91-islam11.html 此れは イスラム文明の発展。特に印度Arabia数字・ゼロの観念 錬金術,alchemy,はアルケミー→Chemistry,化学。他にもalcohol,alkali,algebra,,alembic,amalgam、アラビア語起源のが、 http://www.edu.dhc.co.jp/fun_study/howto/essay013.html 有名哲学者は,イブン・シーナー(ラテン名=アヴィケンナ)と、イブン・ルシュド(同=アヴェロエス) http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card15031.html ★文学; ハイヤームの「ルバーイヤート」には♪右手に経典、左手に酒杯. 神秘主義の大詩人;ジャーラルッディーン・ルーミー。飲酒詩では、酩酊とスーフィズムの陶酔が同一視され、世俗の愛と神との合一が通底?  シーア派ペルシャ,では飲酒もOKか。『アラビアンナイト』でも女性は強い、浮気と魔法の閨房譚。 性記述も有るので”10年エジプトの弁護士団体が「反イスラム的で良俗に反する」として出版差し止め要求。良い俗だと思いますが、何故そんなに厳格? トルコは世俗的でしょうが。 ★音楽: 中東シルクロード起源のサズー=1弦のTar→2弦ドゥタール⇒GuiTar。 イラクのウードal'ud,→リュート琵琶。スパニッシュ,ヒターラ? ギター無けりゃ,欧米Popカルチャーは無い。 ペルシャHindu起源の,Santour⇒ダルシマー⇒ クラヴィコードとチェンバロ,Pianoフォルテは後ですね。  ビクターやKingの民族音楽シリーズ;イラクとアゼルバイジャンの良かったです。パキスタンのカッワリーも。 ◉Woh hata rahe hain parda - qawali (Nusrat Fateh Ali Khan) https://m.youtube.com/watch?v=mS5knxBpQKI  スーフィー音楽。と云ってもPガブリエルの紹介でRockでも売れた。アコギターIntroが鮮烈なJumpナンバー。強力な声だ、ご参考まで