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科学と真理について

人が、もし科学によって真理を見つけ出すことが出来るのだとしたら、現代科学において採られている科学的手法(帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築)は、本当に真理を求めるに足るものなのでしょうか。 なお、既にプラトン、アリストテレス、ベーコン、デカルト、マキアヴェッリ、カント、クーン、クワイン、ポパー、カルナップ、ファイヤアーベント、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、シュリック、ヘンペル、ハンソン、ラカトシュの哲学書籍については、既に読んでありますので、これら著作を読んだことを前提にご回答戴いても差し支えありません。 恐縮ながら、ご回答お願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.4

証明できる問題は数多くあるのですが、全てを証明しうる『真理』は 科学手法においては"存在しない"ことになっています。その真理が 自分自身に言及した時点で、矛盾を引き起こす為です。 ・・・・と、これじゃあ何を言っているのかわけ解らんですよね。 実は証明できない問題があるということは数学的に証明されています。 数学的証明、というのは一切の矛盾や言い換えを認めないので、 これが覆ることは少なくとも現代において科学とされるものの 中では考えにくいです。 20世紀初頭、今まで"自明"や"前提"としていた多くのことを証明する 計画である『ヒルベルトプログラム』が始まったのですが、 クルト・ゲーデルによる『不完全性定理』の登場によって完全に 頓挫しました。内容は・・・ 第一定理 自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、 ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。 第二定理 自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、 無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。 この証明については現代数学か、簡単な論理学の教科書にもほぼ 間違いなく書いてあると思いますので、そちらを参照したほうがいいです。 あるいは質問者さんの読まれているヘンペルの本にも書いてあるかも。 証明できない問題がある、というのは非常にショッキングな事実です。 単一の論理では語れないことから、数理学や論理学は"メタ"(より高次から) の視点を持つようになりましたし、実証に因っていたはずの物理学ですら いわゆるEPRパラドクス(相対論と量子論の矛盾の論争。アインシュタインが 出した問いに対してボーアの回答は観念的なものとなった)以後、 "形而上学的"と揶揄されるほど、観念的な世界の根本を描き出す哲学思考へと 変わっています。これは長い間"実証"を伴わない論争でもありました。 一方で、こういった中から一応の定式化を行い、一部を証明してをして 量子テレポーテーションや量子暗号などの新しい技術が産業的には生み出され ているわけです。証明できないものがあったとしても、完全に証明できている ものが覆るわけではありません。 紙に火をつければ燃えますし、水をかければ消えます。 雲の上にヒゲの神様はいないので、飛行機で雲を突き抜けても大丈夫です。 太陽の活動が活発になれば気度は上がりますし、静まれば下がります。 少なくともこういった事実の積み上げが、生活を便利にしていることは 間違いないのではないでしょうか。科学はこういった方向へ特化している ように思えます。(研究費的な意味で!・・・余談でした) 一方で、科学者が"清教徒的な"真摯さを持って真理を探究できる時代は 70年前に終わったのかもしれません。できたとしても、それは"形而上学的" にならざるをえないと思います。

その他の回答 (12)

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.13

質問の意味がわかりません。 >科学的手法を「帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築」と定義するなら、 非科学的手法とは、 観察結果無視、統計無視、考察無視 のいずれか  を指します。 そういう方法で、はたして真理を探究することが可能ですか? 科学の本質は、「反証可能性」です。 たとえば、「死後の世界」について、死んだらそれきりなのか、天国と地獄に振り分けられるのか、輪廻転生するのか。 科学の場合、「それぞれの考えでどう違うか、(検証可能である何かの違いであること)」 が要求されます。 輪廻転生の場合、「転生した場合、前世の記憶は消される」ということを前提とすると、 ・死んだあとどうなるか、区別するための情報を得ることはできない。 こうなると、言いだしっぺが、反証可能性を拒否したことになるから科学的手法の適用事態が不可能になります。 当然、非科学的手法(=他説の利欠点の比較なし)でも結論は出せないけど... つまり、科学的手法は、真理を求めるための唯一の方法ですが、 真理を求めることが不可能な事象(事実上、哲学の内容の全て)は、「わからない」とするのが科学的には正しいとしか言いようがありません。 で、 「わからない」が正しい というのを真理とみなすかどうか。 個人の感性次第ですが、 一般的にはみなさないのでは? でも、「こうだ」と反証不能なことを言い張るよりはマシと思うが。

  • aai1
  • ベストアンサー率13% (46/335)
回答No.12

科学は新しい発見によって定義が変わってきます。 ですから、1つの方法と捉えるのがいいと思います。 しかし、自然を相手にする科学から考えると、自然、つまり今生きてるこの場所は自然現象の中で、そこに常に真理が存在しているということになるでしょう。  今ここにある真理がわからないから、科学というめがねで覗き見る。  ということでしょうか?  科学は覗くめがねの役割ですが、本来の目的から離れて覗くめがねが が真理のようになるのは本末転倒でしょう。  真理はすでに宗教哲学で表されてますし、科学が仏教を証明する時代になったといわれてますが、多くの手法の根源の原因と結果、因果などはもともと仏教哲学のものです。  本来仏教は哲学なので、仏教哲学とあえて書きますが、大昔に因果の理法と言われ、最近になって因果の法則として科学で言われてますが、、、。  結局、真理を生きる。と言う段階に来ないと本来の目的ではないですね。最後は人間に帰着し、自身の人生に発展させないと意味がないですね。  第1にまず真理を聞く。  第二に 実践する  第三に 真理に生きる。  こういう浅い深いで見ると、真理に生きる人は多くいますよ。  早く本当に真理を求めると言う状態から真理を生きるとなるといいですね。  仏教の生命哲学から科学の探求をしてみるといいでしょう。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.11

答えにくい質問ですが、答えにくい理由は、そもそも「真理」とは何かについて、説明できるものでしょうか? 例えば、「三角形の内角の和は180度です」と言うのは真理でしょうか? あるいは、「地球は太陽の周りを回る」というのは真理でしょうか? あるいは、「人間は考える葦である」は真理でしょうか? あるいは、「人間は食べないと生きていけない」は真理でしょうか? これら、あるいは、これらの”ような”ことが真理なら、真理は複数あるということでしょうか? あるいは、真理は「ただ一つ」のことであるはずなのでしょうか? もし、真理は複数でなく「ただ一つ」のことであるとしたら、その「ただひとつ」のことは「言語」で表現されるはずのものでしょうか? もし、「言語」で表現されるはずのものなら、それは、「何個の単語」で表現できるはずのものでしょうか? という風に真理について色々疑問が出てきますが、真理は、このような疑問にも回答を与えないといけないとすると、このような疑問に科学が答えられないのは明らかです。 従って、科学にできるのは、真理を導き出すことではなく、「事実関係」を導き出すことだけではないかと思います。ただ、「事実関係」も「真理」の一部と見なせば、「科学は真理の一端を担うことが出来る」とは言えると思います。

noname#91781
noname#91781
回答No.10

同様な質問についてすでにこの板で回答したことと内容が重なりますが、もう一度整理して述べてみます。 あなたがこれまで、アマタの哲学書を読み漁ってきたのにもかかわらず、正常な 「科学的手法」 への理解がなされていないのは驚くべきことですが (もちろん、それはあなたの責任ではなく、その著者である哲学者のセイですが)、 まず最初に述べておくのは、我々が現在、「科学的手法」 としてみなすものは、16世紀以降に西欧で生まれて発展して来たものを指すのであって、それ以前のたとえば、古代ギリシャに隆盛を極めた自然哲学などに使われた手法は含まれておりません。 実験・観察・再現・帰納・演繹などは、すでに古代ギリシャでも採用されてる手法であって、これらは現在の科学的手法とは本質的に何ら関係はありません (もちろん、現在の科学もそれらを利用はしていますが)。 現代の科学的手法とは、「現実世界を測定し現象を数値化し公式を求める」 その一点だけです。それが出来ないものは科学とはみなされません。それ以外は単に論理学や哲学の範疇でしょう。 (現代の科学では、完全に質的なもの、「色」や「臭い」でさえ数値化します) では科学的手法が誕生した16世紀西欧において一体何が起こったのか? 実はその時、あのデカルトが登場していたのです。 デカルトはその著作の中でさまざまな論理的考察手順を説明していますが、それらは別に目新しいものではなくオマケのようなもので 、デカルトがなした科学の幕開けのための唯一の功績は、あの有名な言葉 「我思う故に我有り」に尽きます。デカルトがこの言葉を発したことで、西欧がその時、世界史上唯一、科学の誕生を迎えることができたのです。 何故なら、その言葉によって初めて数理科学が誕生することができたからです。 「我思う故に我有り」を正確に言い直すと「我思う。故にタダ一人の我が世界に有り」となります。 それによって、「数」の現実的概念が明確になりました。 確かに、数学自体はそれ以前の世界にも存在しました。しかしそれによって、現実の世界の解明ができるとは誰も思わなかった。現実の世界においては、必ずしも1+1=2であるとは考えられていなかった。たとえば、1束の麦と1束の麦を足すとより大きな1束の麦になるだけで1+1=1でしか過ぎなかった。 1+1=1となってしまうのは、1と言う数の概念が明確でなかったことによります。 1とは何か、1という数の正確な概念とは何か、その答えを出したのがデカルトです。 すなわち、1とは(たった一人しかいない)自分のようなものであると。単位数1の不変・不分割・不拡散の認識こそがこの世界を数理で解明できる道を開いたのです。 したがって、現代科学=数理科学となりますが、それは一面、「この世に自分は一人しか存在しない」という確信の上に築き上げられたものに過ぎないのであり、もちろんこの確信が崩れると現代の科学は崩壊します(たとえば、自分がこの世に2人いた場合など)。 また、現代科学の限界は、それが単にこの世界を数理的(量的)側面から理解してるに過ぎないものであり、世界にそれ以外の側面があるとするなら世界の完全な姿をとらえているとは言えないことでしょう。ゲーデルが 「不完全性定理」において、数学の不完全さを証明したことは、世界の真理が数理的理解から離れたところにあることを示唆しているのかも知れません。(しかし、数理的側面以外の理解をするためには、それに応じてまず 「我はただ一人しか存在しない」 と同等の確信できるものを見つけなければならないでしょう。)

  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.9

「真理」をどのように考えるかによって、答は変わってきます。例として、次の2つの場合について考えてみましょう。 その1:ニュートン力学は真理ではない。量子力学は真理である。 その2:ニュートン力学は真理である。量子力学は真理である。 ここでは、ニュートン力学を真理と捉えるかどうかを問題としています。量子力学は、原子の振る舞いがニュートン力学では正しく扱えないことから生まれた力学です。つまり、量子力学がより本質的な力学であり、ニュートン力学は近似的な力学といえます。こう考えれば、「ニュートン力学は真理ではない。量子力学は真理である。」が正しい考え方のように思われます。しかし、ニュートン力学を使えない力学だと思っている人はいません。むしろ、日常的な現象はすべてニュートン力学によって説明することができます。ニュートン力学は、日常的な現象については真理である、という考え方もできます。 科学とは、人間に役に立つ知識のことだと考えます。そう考えれば、科学は常にその時代の真理を見つけ出してきたのであり、これからもそうしていくだろうと思います。

回答No.8

 こんにちは。  すべてを 終わりから 始めてください。  そうすれば 真理じたいは 見つからなくとも――つまりは わたしも これが真理だよと言って 指し示すわけにはまいりませんで 真理じたいは見つけられなくとも―― おそらく 真理への道は おぼえるようになるでしょう。わたしは真理を問い求めているのだという記憶行為を その道について おぼえるようになるでしょう。  そのために じんるいは あらゆる方法で 探究をしてまいりました。これからも つづけていくでしょう。まづは すべての方法が 有効であると考えて 活用していけばよいかと考えます。  しかも 終わりから始めてください。このきよらかな思いあがりとともに すすめてみてください。ものごとを捉えるようにしてみてください。

回答No.7

揚げられているたくさんの、西洋的哲学者の著書は二、三しか読んでいないので、レベルと側面がそぐわない投稿となるでしょう。  そしてご質問の本文文言では、現代科学という言葉となっております。科学、そして真理という言葉の対象とそ範囲については、無論敷衍されるところとなっておりません。  ただ知とそのドメインは人間という、結果的意識の一定の機能の一顕れですね。  その機能は認識と構成(認識の性質に過ぎませんが)の用具ですね。  それは世界と宇宙のを見せ、構成し、存在させているものですね。  そういう機能である知がなすことがいう真理というのはその限りのものであることは当然ですね。 人間がその限りの、つまりただ存在して生きているだけのことで終始するなら、その限りの認識ですむことではないでしょうか。 人間の存在の意味性とかに関連した認識をするには、如上の範囲を出ないと完遂には為りえないのは当たり前でしょうね。 つまり知を出て、知の基盤も限界も眺めて、その基盤の基盤に自分存在を意識しない限りは、真理とは無関係であると存じます。 私は草創以来、どの宗教も意識以下になっている状況を脱却して、自己を知ることが同時に、人間に課せられた真理の実現となるものだと存じております。 そこでは仰せの科学も変改を遂げ、同一になるものと存じます。 科学に要求されることは、生きるという次元での実践性だと存じます。 それは自然諸科学も同様であると存じます。自然諸科学も当為原理の性で編みなおされるべきであると存じます。 当然に当為としての根拠と価値・理念に無関係な叙述は脱却しなければならないでしょう。 人間と科学の進歩が期待されます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

「現代科学の科学的手法によって、真理を見つけ出すことが出来るのかというものです。」 #4:wiz0621さんの回答で科学的手法の限界を十分に説明していると思いますが、科学的手法も使い方次第で十分に真理を見つけ出すことが出来るのですね。主観と科学的手法のような客観は一対であって切り離すものではないのですね。真理を見出すのは主観だけではだめなのですね。真理と思えるものを客観的に検証しないと真の真理を得られないということなんですね。 思考論理は原因結果の連鎖(帰納・演繹)の中にありますので、科学的手法は存在する・存在しないにかかわらず有効なのですね。 おそらく、質問者さんは存在の証明を科学的手法で云々とご指摘されているのかも知れませんが、科学的手法は存在(観測可能)の可否にかかわらず使えるものですね。 科学的手法は微視的にも巨視的にも使えるということですから、場合によって使い分ければ良いのですね。 数学や物理では境界条件内の演繹ですから、境界を越えれば論理破綻しますが、これもわかりきった論理でしかないのですね。 数学や物理に限らず哲学、宗教などあらゆる学問は主観と科学的手法を含む客観により確認されるべきものですね。 例えば、氷は温められて水になり、水は更に温められて、水蒸気になり、冷やされて雲になり、雲は雨になり、また水に戻る。このサイクルは科学的手法で十分に理解できますね。 これを水の転生輪廻の姿といえば理解できるのですが、これを人間に当てはめるとさっぱり理解できなくなるのですね。 水では理解できないなら、羽化登仙ならどうだといっても客観にとらわれて理解できない。ということですね。 つまり、真理というのは科学的手法を客観として十分に得られるようにはなっているのですね。それができないのは主観の狭さということだけだと思いますよ。

noname#83925
noname#83925
回答No.5

 足らないものだと思います。科学的手法の領域のみだと思います。

noname#100496
noname#100496
回答No.3

仏教では、地球は仮の世界といわれてます。聖書や神話では、人は神の世界から天国から、地上に来た事になってます。アインシュタインの相対性理論は、仮の世界を前提にして、この世は幻想世界といってます。また科学の元になってる脳は、大宇宙では不調和、不完全な存在です。だから科学による自然破壊が発生しました。だから脳も科学も、この仮の世界に限定されてるので、大宇宙の真理を理解する事は不可能です。

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     真理とは何か? これを《対象とその認識とが対応すること》と説いたのは アリストテレスであると言われます。  これは いわゆる経験合理性としての妥当性というような意味において 事実認識が《信憑性を持つ ないし 真実である》ということを言おうとしているようです。  ヰキぺの《真理》なる主題のもとには アリストテレスについての解説が 《経験事実についての真実》だけではなく 《経験世界を超えた場としての真理》についても触れていますので その項目を全部引いたあと問いをかかげます。(5)を問います。  ▲(ヰキぺ:真理) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86#.E3.82.A2.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.86.E3.83.AC.E3.82.B9_.E5.AF.BE.E5.BF.9C.E8.AA.AC.E3.80.80  § 2 歴史   § 2.1 古代  § 2.1.3. アリストテレス 対応説   (1) アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)は、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。    (2) まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にしたのである。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。  (3) ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。  (4) そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。  (5) そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていたのである。  (6) そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。  (7) 例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。  (8) 例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成していないのであるから、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となるのである。  (9) 彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。  (10) アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  質問( a ) ▲ (5) ・・・判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され・・・  ☆ この《真理の対応説》についてですが 《思惟と実在の一致》の当否を問います。これは 事実についての認識が その事実としての《実在》に言葉による表現として対応しているということを言っているのではないですか?  ( b ) すなわち 《事実についての認識》について 《真であるかどうかが問われる判断》を経て来ているとは言っていますが それは要するに事実認識の妥当性が問われているということであるのではないか?  ( c ) 妥当な事実認識は その対象とされた事実(つまりヰキぺの解説では 実在)とその認識内容ないしその説明内容や規定内容と過不足なく対応している。つまり マチガイなく事実(実在あるいは存在)を 合理的に説明しているという意味ではないか? つまり 《真理の対応説》がです。  ( d ) つまり (5)では 《思惟と実在との一致》というふうに《一致》という表現を用いていますが これは何も《思考(考える・つまりコギト)》が《存在(有る・つまり スム)》とひとしいと言っているのではない。  これを問います。どうでしょう。  なお (9)項における《神》の定義について ご見解がある場合 あるいはその他その他の論点についてもそうである場合には そのお考えを述べてください。互いに問い求めます。

  • 『聖書』を知らなければ話にならないというお話

     が多すぎませんか?  (あ) 聖書が《神は生きた者の神である》と言っているのに ニーチェは《現世の否定・生の否定》と見てへんちょこりんな殴り書きの批判を延々とつらねました。  (い) プラトンは イデアの世界がこの経験世界に影を落としていると 一介の人間でしかないのに勝手に 断定しています。それは 思想は自由だからよいとしても その思想を聖書による神学と一緒くたにするというマチガイをも侵しています。  (う) 神とあまりなじまないアリストテレスにしても その絶対(ないし非経験の場)を 《第一原因》と捉えました。つまりは 《不動の動者》です。かんたんに単純に《神が人間世界を動かしている》と言うのなら プラトンとあまり変わらない。  (え) 聖書の《創造主なる神》は あくまで物語です。経験事物が被造物だというのは――アリストテレスと似てはいますが―― その絶対と相対とのあいだの隔たりをしっかりと確かめるためにタトエで述べているだけです。  (お) (むろん 神は《そのナゾが何であるか分かるか分からないかが 人間には分からない》のですから ひょっとするとほんとうにこの世界を非知なる神が造ったということなのかも分かりません。いづれにしても 聖書記者の意図は まづタトエで分かりやすく表現したのだと考えられます)。  (か) 聖書とそれにもとづく神学を知らないデカルトは ご苦労にも《神の存在証明》をおこなっているようです。まったくの不首尾のもとに。こんなことは 一度共通の理解に到っておけば 無駄な議論が省けます。  (き) ヨーロッパ人は 《真理と真実》とがよく分かっていない。真理は 絶対でありけっきょく非知なる神のことです。真実は 事実認識としての誰れ彼れにおけるその主観真実のことです。  (く) 神学は 経験現実について知るために 前提事項として知っておくという問題です。おそらく聖書の神学が 哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます。  (け) 聖書を知らない――またけっきょく誤解している――ことによるむだな議論が多すぎます。のではないですか?    

  • なぜ、男は哲学するのか?

    タイトル通りの質問なら、「大脳生理学」のようなジャンルで考えることだとは思いますが、このカテに普段出入りされてる方に敢えてお聞きしたいです。 古今東西、と言っても日常、日本人にとっての哲学は「西洋哲学」とほぼ同義語のことが多いと思います。 ソクラテス・プラトン・アリストテレスの時代から、デカルト・カント・ヘーゲル、そして最近ではニーチェ・サルトルに至るまで、みな男です。 そして、おそらくここのカテを出入りしてる方も圧倒的に男が多いと思います。 昔から、なんとなくその事に対する理由としては、「男は形而上学的なことに関心があり、女は現実に興味がある。」程度にしか思わなかったのです。 しかし、だとしたらなぜ男は「形而上学的なことに思いをはせるのか?」と今更ながら素朴に考えてしまいました。 「時間とは?」 「空間とは?」 「存在とは?」。 「認識とは?」 「理性とは?」 このような事に対して思いをはせてるのは、昔から男だけのようです。 もちろん、稀にそういう女性も居るでしょうが、微々たる数の筈です。 とっさに思いつく男女の差は「性欲」のことです。 そして、性欲というとフロイトを思い出します。 フロイトは、あくまで「性欲」と「人間の行動」の関連について考察しただけで、それ自体は「哲学」でも「形而上学」でもありません。 ただ、性欲求行動と哲学的思考回路はどこかで繋がっているのかなどと考えてしまいましたが、これはあくまで思いつきです。 思いつきですので、別にフロイトや性欲との関連に限定しません。 どうして男は哲学するのか? ご意見下さい。

  • デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?

     ふるい議論つまり 自然科学の歴史のなかでの一ページとしての議論に過ぎませんが アリストテレスの天体論をめぐって デカルトがこれに楯突いたとすればそれは すでに大昔にアウグスティヌスがおこなっていたのではないだろうか。という問いです。  つまり ルネくんは――そのいわゆるコギトの命題を やはりアウグスティヌスの《あやまつなら(欺かれるなら) われあり( Si fallor, sum. )》から取って来たように――やはり次の議論を成したアウレリウスをパクッたものと思われる。  どうでしょう。  ▲ (アウレリウス・アウグスティヌス:アリストテレスの天体論について) ~~~~~~  〔1〕 あの理屈屋ども――主は彼らの思いの空しきを知りたもう――は 神のこの大いなる賜物に反対して 元素の重さについて論じ立てている。彼らはむろんそれを師のプラトンから学び知ったのであるが 宇宙の両極にある二つの大きな物体(大地と天体)が中間にある空気と水の二つの元素によって結びつけられているという。  そこで彼らの言うところによれば 下から上へ向かって最初にあるものは土 次にあるものは水 三番目が空気 四番目が天の空気で ここには地上の物体は何ひとつありえない。なぜなら それぞれ元素が自分の重さにふさわしい場所を占めるようにと定められているからである。  ああ 何という論拠でもって その思いの空しい弱い人間が神の全能に異議を申し立てていることだろう。  空気は土から数えて三番目にあるが その空気のなかには多くの地上の身体があるではないか。神は地上の身体をもつ鳥どもに軽い羽と翼を与えて飛ぶのを許したのであるから この神が不死のものとなした人間の身体〔* これは《自然の身体に対する霊の身体》と呼ばれるものである〕に天の高きに住む力を与え得ないということがあろうか。  プラトン派の主張によれば 飛ぶことのできない地上の動物――人間もその一つである――は ちょうど水の動物である魚が水のなかにいるのと同じように地上に生活しなければならないとされる。しかし 地上の動物が二番目の水のなかだけでなく 三番目の空気のなかでも生活するようになったのはどうしてであるか。土に属しているものが土の上にある二番目の元素のなかで生きるよう強制されたならばすぐに窒息してしまい かえって三番目の空気のなかで生きることができるのだが これはどうしたら理解できようか。  そこでは元素の順序が狂っているのか。それとも 誤謬は自然界にあるのではなくて むしろプラトン派の議論にあるのか。わたしはすでに第十三巻で 重い地上の物体の多く――例えば鉛――が適当な形(* たとえば船)を与えられれば水に浮かぶことができると述べたが これを繰り返すのはやめよう。だがいったい 天に昇ってそこに住む能力を人間の身体に与えることは 全能の創造者に矛盾することなのだろうか。  〔2〕 わたしのいま述べたことに対して 彼らは自ら確信する諸元素の秩序について思いをめぐらし 議論を組み立てるが 結局 有効な反論は見出せないでいる。なぜなら 下から上へ向かってまづ土が 次に水が 三番目に空気が 四番目に天があるのだとしても 魂の本性はこれらすべての上にあるからである。  アリストテレスはそれを五番目の物体と呼んだ(* 『天体論』四・六.さらにキケロ『アカデミカ』一・七・26 『トゥスクルム論談』一・一〇・22)が プラトンは物体とは呼ばない。五番目のものがあるとすれば それは他のすべてのものの上になければならない。しかしそれは物体ではないのだから 他のすべてをはるかに越えているであろう。  ではそれは 地上の身体のなかでは何をするだろうか。他のどれよりも精妙なそれは この物体の塊のなかで何を働くだろうか。他のどれよりも軽いそれは この重いもののなかで何を働くだろうか。他のどれよりも速いそれは この動きのにぶいもののなかで何を働くだろうか。これほどすぐれた本性の能力によっても 自ら持つ身体を天にまで上げることはできないであろうか。現在地上の身体の本性が魂をこの地上にとどめ置くことができるのだとすれば 魂はいつかは地上の身体を上にあげることができるのではないだろうか。  (アウグスティヌス:『神の国』第22巻 第11章 泉治典訳( 1983 ))  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちデカルトの次のような議論をめぐっての問題です。  ◆ (【Q:ヒラメキとは 天使のことかなぁ。】回答No.8) ~~~~~~~  デカルトは[・・・]それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  《五番目の〈物体〉――〈エーテル〉――》は 《地上の四層にあるそれぞれのもの》をはるかに超えているのであるからには その視点から見れば 《地上の空間も天上の空間も 同じ一様で無差別な空間と考えること》は オチャノコサイサイだったのではないでしょうか。  コギトのときと同じように だまってコピペーしたものと考えられますか?

  • 世界は私を中心に回っている。

    世界は私を中心に回っている。 このヨタ話とは、学問カテゴリーでの投稿です。 ネットで人ったネタに下記の文言を興味深くコピペしましたが、研究のためとはいえ、無断転載することをお許しください。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかも知れない。 彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。 ーーーーーーーーーー 転載終わり、人によってさまざまな感慨がある事でしょう。 この文中に出ている、地球は太陽の周りを廻っているという常識への挑戦に「それはある」と考えました。 あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。 研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。 私が思いつくのは、天体観測単位に関してです。 現在は「光年」という単位が基準だけども、重力の作用とか宇宙に探査機を飛ばすよりも詳細に成果が出ている地球の構造とかを加味して、天文単位に「物理的な測量単位」的な側面をもたらす成果が何か出るかもしれません。 一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。 今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。

  • 科学と思想の真理性の違い

    科学と思想の真理性の違いって何なのでしょうか? 言語が介在する思想は、言語自体が恣意的なため、言語によって組み立てられた思想などは真理はない・・・。 そう考えると、私自身、科学は何が思想と違うのかがぼやけてイマチチよくかわらなくなってしまいます。 反証可能性があるかないかが分かれ道なのでしょうか? そもそも科学は真理なのか?も伺いたいです。 専門家のみなさん、また詳しいみなさん、よろしければ回答をお願いします。

  • 科学的真理?カールポパー?について

    ~いわゆる「科学的真理」は、 帰納的飛躍(inductive leap)という直感過程によって設定された仮説にすぎず、その妥当性は反復的反証(falsification)努力の失敗によって、消極的にのみ確認できる。~ 今日、塾の英語授業時に、 カールポパーについての話がありました。 先生は↑に書いた文章くらい、 大学で本当に学問を志す者ならば このような難解な文でも、もしそれが初めて見るものだとしても、手に取るように把握できる と言っていました。 自分は後から説明を聞いてわかったようなものの、最初みたときはちんぷんかんぷんでした。 大学ってもんはこんなにレベルが高い(?)のですか? 今年受験ですが一抹の不安をおぼえました。