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倫理って客観的じゃないでしょ?

m-taの回答

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  • m-ta
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回答No.8

 私も 倫理は基礎づけできない と思います。 ロールズも決して「基礎付け」ようとしたのではないと思います。 「原初状態」というものは「決して現実にはありえない。」 と述べた上で、「人が原初状態におかれたら、つまり、自分の性格や社会的地位 を何もしらなければ、平等と自由を望むだろう。」と言い、 読者の想像力を掻き立てているのだと思えます。 カントは、「理性によってなされる行為は、行為の結果では判断できない。 その行為をする時の内面が問題だ。」と言います。 しかし、この場合、倫理や道徳の客観的な評価はまったくできない ということになります。そうなると、「みなが理性の要請に従っている。」 という「目に見えない前提」を受け入れないことには、カントの道徳論 は基礎付けにならないと思います。  実際、われわれの時代だと、この前提を受け入れるのは難しいと思われます。 アリストテレスは、「善は誰もが求めているものである。ただし、善の内容 はそれぞれ異なる。」というように言います。彼は、そこで、個人の善と共 同体の善の一致を論じるのですが、これは、「私が大衆の教えてあげよう。」 というような「啓蒙」的な姿勢ゆえに可能なのです。 この倫理学では、最終的のは「俺の善は、みんなの善と異なる。」 と言えばそれまでなのではないでしょうか。 最近では、だいたい、個人と全体を対立項とみなし、個人を生を重視する サルトルやキルケゴール、ハイデガー等の実存主義的な倫理観か、 個人の善はと社会の善と同じものであるべきとする、ハーバマス等のどちらか が主流ですし、このどちらかの要素を含まずには、倫理学は無理でしょう。 ちなみに、レヴィナスは個人よりも他者を重視する珍しい立場と言えそうです。 倫理や道徳は言葉で表される限り、既にある倫理観や道徳観を描きなおすか、 新たな語を導入するかしかないと思います。 しかし、新たな語を導入したところで、 「共有」できなければ意味がないでしょう。 ですから、今は「基礎付け」る倫理学よりも、「役立つ」倫理学 が望まれていると言えそうです。 もし、倫理が成り立つ「条件」や「起源」を知りたいなら、 哲学の伝統よりも、「進化論」や「認知科学」のほうが ためになるでしょう。 哲学は、既にある現象を、それと同じ言語で描きなおす試み であり、「原因」を言い当てることはできないと思うのです。  こういった「反基礎づけ主義」とその帰結を考えたいならば、 リチャード・ローティの著作をおすすめします。

shunchi
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 僕の質問の意図を完全に理解して頂けているだけでなく 非常に分かりやすい回答で、勉強になりました。 反基礎づけ主義に関しても非常に興味があります。 以前ローティーの「哲学と自然の鏡」を読もうとしてやめて しまった(値段高くて…)ので、こんど図書館に入荷リクエスト してみようと思います。 今回は、納得できる回答を頂けたことと共に、教えてGoo!の 哲学分野でコミニュケーションが正しく成立したことに感動(笑) しました。 ありがとうございました。それでは。

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