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陪臣
6dou_rinneの回答
- 6dou_rinne
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岩国吉川家は陪臣ではありません。 幕府から正式に大名としては認められていませんでしたが(関が原の時の因縁から毛利本家が認めさせなかった。)、待遇としては大名格で参勤交代もしていましたし、毛利家も陪臣としての扱いはしていませんでした。
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お礼
御回答ありがとうございます。 おっしゃる事はよく分かります。確かに幕府には大名とする意思もありましたが、吉川家が大名となったのはあくまで幕末に朝廷から認められた時ですし、大名・旗本として直の御奉公をしていない以上、陪臣と呼ぶのは必ずしも間違ってはないのではないでしょうか? それぞれに対する幕府からの呼び方は、毛利家に対しては「その方の家来吉川…」、吉川家に対しては「その方の本家松平大膳太夫…」と使い分けていたらしいですし… 従五位下に叙任されてない点(これについては御三家附家老や加賀八家より扱いが劣っていますよね)、伺候席がない点、あくまで防長二国は支藩領も含めて一円に毛利本家に領地判物を与えられている点などが大名格というのに私はやや抵抗があります。 赤坂に三千五百坪程度の江戸屋敷を持っていた様ですが、諸大名の様に中屋敷や下屋敷は拝領していなかったのではないでしょうか。