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福沢諭吉の征韓論

shigekomoの回答

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  • shigekomo
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回答No.5

福沢が私財を投げ打って支援したというのは、後に甲申事変(近代化革命)を起こす、金玉均を始めとする開化派朝鮮人(独立党)です。慶応義塾や陸軍学校などへの50名程の朝鮮人留学生を世話しています。 金玉均の日本視察の折には、自宅を滞在拠点として提供し、井上馨等の日本政財界要人を紹介して彼との会談を実現させています。金らに近代政治学の初歩や、近代国家の独立自主という概念を伝えたのは福沢でしょう。 また福沢は銀行に口利きして朝鮮への融資を世話し、開明派はこれを印刷機購入などに当てました。福沢が朝鮮に派遣した弟子が朝鮮初の新聞「漢城旬報」発行を実現しています。これは漢字ハングル混じり文の新聞で、一部の両班層だけでなく、より広く朝鮮人に世の中の情報を知ってもらおう、という福沢の配慮です。 福沢は当時、文化の啓蒙による朝鮮の革新を期待しており、改革を「武力ではなく、資金の移入を端緒に学問によって実現させるべき」と主張しています。 しかし、当時中国(清)の属国であった朝鮮を清の近代独立国家へと改革する独立党の革命、甲申事変が失敗に終わり、福沢の努力はすべて無に帰してしまいます。福沢が育てた独立党も多くが殺され、金玉均も日本亡命後に朝鮮人に暗殺されました。初めは革命に理解を示していた朝鮮皇室ですが、土壇場になり清軍の介入に恐怖して清への服従を選んだことが、失敗の最大の原因です。日本政府もこの革命に協力したのですが、清との国力差はまだ大きかったため、限定的な協力しかできませんでした。 こうして朝鮮近代化の可能性は完全についえ、前近代的な国家形態が日韓併合まで続きます。こうした朝鮮の体たらくに失望した福沢が起こしたのが「脱亜論」です。 維新建国後しばらくは、日本は朝鮮に近代国家として独立してもらう事を望んでいました。まだ国力が充分でない日本にとって、朝鮮半島に直接大国の清やロシアの影響力が及び日本の安全補償が脅かされる事を危惧したためです。かつての元寇の折、元は朝鮮支配の後に日本侵略を現実的に計画しており、この再現を避ける必要がありました。近代化朝鮮と協力して東アジアでの自主独立を守っていこうとしていたのです。 西郷を始めとする当時の「征韓論」というのは、決して朝鮮を侵略して占領しようということではなく(当時そんな国力は日本にありません)、日本が黒船の圧力により近代化したように、朝鮮に軍事的政治的圧力をかけて近代化させよう、という話です。西郷は自身が外交使節として朝鮮に赴こうとしてました。これに対し福沢は学問を浸透させての朝鮮近代化を図ったわけです。 しかし、朝鮮は清やロシアへの依存心を捨てることなく、まともな近代化を実現できません。日清戦争、日露戦争と勝ち続け列強の仲間入りをした日本にとって、もはや朝鮮に「自主独立のパートナー」として期待する必要はありませんでした。日本が切磋琢磨している間に無為に過ごした朝鮮は、当時の帝国主義世界では敗者となることが歴史的必然です。 長くなりましたが、福沢が主張したのは征韓論ではありません。脱亜論もこれとはあまり関係ありません。アジア侵略を肯定する論、というのはデタラメです。当時の国際社会の常識自体が「弱肉強食」だからです。韓国併合とは、日本も国際基準の列強国となった結果です。 福沢が示した朝鮮近代化への情熱、朝鮮への愛情をまったく無視し、近代化を実現できなかった自民族の無能を省みることなく、自分勝手な「歴史認識」を押しつけ、12歳の子供に平気で反日をぶつける・・・それが今の韓国です。独立記念館とやらでどんな展示をご覧になったとしても、どんな目に遭われたとしても、一切気に病む必要はありません。

noname#119854
質問者

お礼

頭の悪い私にも噛み砕かれた回答に心より感謝申し上げます。教科書問題の大きな時期でしたが、刺されるような目線は今もって忘れられません。  でもどんな時も日本人としての誇りだけは失いたくないと思います。早くwebで聞けばよかったです。ありがとうございました。

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