• ベストアンサー

福沢諭吉の征韓論

 韓国の独立記念館に行った時に、高校生の方がなぜ「天は人の上に人を・・・」の人が征韓論を唱えたか知っている方教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shigekomo
  • ベストアンサー率39% (38/96)
回答No.5

福沢が私財を投げ打って支援したというのは、後に甲申事変(近代化革命)を起こす、金玉均を始めとする開化派朝鮮人(独立党)です。慶応義塾や陸軍学校などへの50名程の朝鮮人留学生を世話しています。 金玉均の日本視察の折には、自宅を滞在拠点として提供し、井上馨等の日本政財界要人を紹介して彼との会談を実現させています。金らに近代政治学の初歩や、近代国家の独立自主という概念を伝えたのは福沢でしょう。 また福沢は銀行に口利きして朝鮮への融資を世話し、開明派はこれを印刷機購入などに当てました。福沢が朝鮮に派遣した弟子が朝鮮初の新聞「漢城旬報」発行を実現しています。これは漢字ハングル混じり文の新聞で、一部の両班層だけでなく、より広く朝鮮人に世の中の情報を知ってもらおう、という福沢の配慮です。 福沢は当時、文化の啓蒙による朝鮮の革新を期待しており、改革を「武力ではなく、資金の移入を端緒に学問によって実現させるべき」と主張しています。 しかし、当時中国(清)の属国であった朝鮮を清の近代独立国家へと改革する独立党の革命、甲申事変が失敗に終わり、福沢の努力はすべて無に帰してしまいます。福沢が育てた独立党も多くが殺され、金玉均も日本亡命後に朝鮮人に暗殺されました。初めは革命に理解を示していた朝鮮皇室ですが、土壇場になり清軍の介入に恐怖して清への服従を選んだことが、失敗の最大の原因です。日本政府もこの革命に協力したのですが、清との国力差はまだ大きかったため、限定的な協力しかできませんでした。 こうして朝鮮近代化の可能性は完全についえ、前近代的な国家形態が日韓併合まで続きます。こうした朝鮮の体たらくに失望した福沢が起こしたのが「脱亜論」です。 維新建国後しばらくは、日本は朝鮮に近代国家として独立してもらう事を望んでいました。まだ国力が充分でない日本にとって、朝鮮半島に直接大国の清やロシアの影響力が及び日本の安全補償が脅かされる事を危惧したためです。かつての元寇の折、元は朝鮮支配の後に日本侵略を現実的に計画しており、この再現を避ける必要がありました。近代化朝鮮と協力して東アジアでの自主独立を守っていこうとしていたのです。 西郷を始めとする当時の「征韓論」というのは、決して朝鮮を侵略して占領しようということではなく(当時そんな国力は日本にありません)、日本が黒船の圧力により近代化したように、朝鮮に軍事的政治的圧力をかけて近代化させよう、という話です。西郷は自身が外交使節として朝鮮に赴こうとしてました。これに対し福沢は学問を浸透させての朝鮮近代化を図ったわけです。 しかし、朝鮮は清やロシアへの依存心を捨てることなく、まともな近代化を実現できません。日清戦争、日露戦争と勝ち続け列強の仲間入りをした日本にとって、もはや朝鮮に「自主独立のパートナー」として期待する必要はありませんでした。日本が切磋琢磨している間に無為に過ごした朝鮮は、当時の帝国主義世界では敗者となることが歴史的必然です。 長くなりましたが、福沢が主張したのは征韓論ではありません。脱亜論もこれとはあまり関係ありません。アジア侵略を肯定する論、というのはデタラメです。当時の国際社会の常識自体が「弱肉強食」だからです。韓国併合とは、日本も国際基準の列強国となった結果です。 福沢が示した朝鮮近代化への情熱、朝鮮への愛情をまったく無視し、近代化を実現できなかった自民族の無能を省みることなく、自分勝手な「歴史認識」を押しつけ、12歳の子供に平気で反日をぶつける・・・それが今の韓国です。独立記念館とやらでどんな展示をご覧になったとしても、どんな目に遭われたとしても、一切気に病む必要はありません。

noname#119854
質問者

お礼

頭の悪い私にも噛み砕かれた回答に心より感謝申し上げます。教科書問題の大きな時期でしたが、刺されるような目線は今もって忘れられません。  でもどんな時も日本人としての誇りだけは失いたくないと思います。早くwebで聞けばよかったです。ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (7)

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.8

ご参考にどうぞ。 「脱亜論」本文 http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html 【「脱亜論」は著作・論文の類ではなく、『時事新報』明治18年3月16日付の社説に対する通称です】 現代語対訳「脱亜論」(スピノザ猫の「新・脱亜」) http://supinoza.blog.ocn.ne.jp/datuaron/ ・意訳「脱亜論」(isa訳『福澤諭吉の「脱亜論 」』) http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/200506100000/ ・林思雲氏「福沢諭吉の『脱亜論』を読んで」の感想 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Column/2005/c20050411-2.htm

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.7

ご参考にどうぞ。 「脱亜論」本文 http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html 【「脱亜論」は著作・論文の類ではなく、『時事新報』明治18年3月16日付の社説に対する通称です】 現代語対訳「脱亜論」(スピノザ猫の「新・脱亜論」) http://supinoza.blog.ocn.ne.jp/datuaron/ ・意訳「脱亜論」(isa訳『福澤諭吉の「脱亜論 」』) http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/200506100000/ ・林思雲氏「福沢諭吉の『脱亜論』を読んで」の感想 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Column/2005/c20050411-2.htm

noname#119854
質問者

お礼

林思雲氏の感想に心打たれます。立場を変えれば同じだとはいえ申せませんが。ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.6

日本は清国・朝鮮に対して欧米列強に対抗するためにも、国家の近代化を促そうとしていたが、当時は国と国は平等という考えはなく、特に歴代支那王朝は「朝貢体制」、つまり国(支那王朝)と属国(朝鮮・日本など)という考え方でした。  このような国家観・政治体制の大陸国に対し、日本が国力をかけてまで近代化を促すのはもはや無為であり、逆に国益につながらない。「脱亜論」は、自主独立や近代国家建設を目指そうとしない両国に対して、“もはや日本は前近代的な大陸国の影響圏を脱し、独自路線で近代化を推し進めるべき”という考えです。  現在でも「東アジア共同体」という発言がなされますが、少なくとも民主的国家体制・同等水準の経済力がなければ非現実的でしょう。そういう意味では海洋国家である日本には、現在でも「脱亜論」という考えはまだまだ考察すべき理論だと思いますね。 

noname#119854
質問者

お礼

今、もう一度アジアを見直してみようと思います。 ありがとうございました。  

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.4

 福沢諭吉も「征韓論」者ですね。西郷隆盛を強く支持していたはずです。板垣退助なども「征韓論」者であったことを考えても、当時の民主主義と並ぶ進歩的な考え方だったのだと思います。  向上心を持たず富国強兵に努めようとしない怠惰な国家は日本が征服して進歩させなくてはならない、というようなことだと思います。帝国主義の中で植民地などの他国の支配下にならないためには自ら帝国主義国家にならなくてはならなかった時代、富国強兵は国家としての義務と考えていたのではないでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

「脱亜論」は、結論的に朝鮮や中国を侵略してもかまわない、ということなるので、そういう意味では「征韓論」と表現しても、まったくの間違いとはいえないかもしれません。

noname#119854
質問者

お礼

ありがとうございます。もっと早くこのサイトで聞けばよかった。韓国の学生の一言がず―と気になりました。12歳だった私にはさされるような目線にすくんだことを今も忘れられません。もう少し研究してきちんと韓国の学生に答えられるようになりたいです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • AUGQX-MAN
  • ベストアンサー率28% (39/139)
回答No.2

征韓論を唱えたのは、西郷隆盛ですね。 (明治維新後、生活が苦しくなった元武士階層の  不満をそらすために、朝鮮を攻めようと唱えた  ものですね。) 福沢諭吉が脱亜論を唱える前は、中国(清)や朝 鮮と連合して西洋の列強の干渉をはねのけるよう になろうと考えていました。 しかし日清戦争後清や朝鮮の弱体ぶりを見て、 「日本だけでも西洋化を進めて、列強のように強  くならないと・・・」 と考えるにいたったという事です。 しかし、福沢諭吉は日本に来た革命派の朝鮮人の 世話をしたり、韓国語の新聞の発行を援助したり していました。

noname#119854
質問者

補足

脱亜論だったんですね。福沢諭吉は日本に来た革命派の朝鮮人の世話をしたり、韓国語の新聞の発行を援助したりしていました。 なんですが革命派の挑戦人お名前教えてください。(ご存知でしたら)

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

福澤諭吉は征韓論ではなく、 脱亜論じゃなかったっけ?   「朝鮮のような恥ずかしい国は無視して、  欧米の仲間入りをしよう」 という趣旨だったような気がします(^^;        

noname#119854
質問者

お礼

征韓論でなく脱亜論だったのですね。独立記念館で日本の子供が見学することが珍しいというより韓国の学生には意外だったのでしょう。12歳でしたから。 ありがとうございます。調べなおします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 征韓論

    西郷隆盛の征韓論政変が1873年で、大韓帝国が1897年、征韓論のときは、韓国はないはずなのに征朝論じゃなくてどうして征「韓」論ですか?

  • 「征韓論」をとなえた理由を簡単に言うと?

    こんばんは。 初めまして。 さっそく質問させていただきます。 「征韓論」についてなのですが、 この主張をとなえた理由を簡単に言うとすると、 なんと言えばいいのでしょうか? 教科書を読んで考えてみて、 「新政府に対する士族の不満を解消できると考えたから。」 でいいかな?と思ったのですが、 「征韓論」をとなえた理由として合っているのでしょうか? 「使節が殺害されれば出兵の口実となり、新政府に対する士族の不満を解消できると考えたから。」の方が良いでしょうか? 付け加えた方がいいことなどありましたらアドバイスを下さい。 よろしくお願いします。

  • 征韓論はダメで征台論はヨシ?

    征韓論は西郷や薩摩士族の運命を左右しての国を上げての論争になっていたと思われますが、征台論での征台の役はワリカシカンタンに当時出兵が行われたように思われますが、征韓論はダメで征台は良しとする何かがあったのでしょうか? 征韓論の時との時間差でその後に国力が増強されていたので勝算があったのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 福沢諭吉は間違っている

    「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言ったのは誰だっただろう。もちろん福沢諭吉だが、もしかしたら私も酔っ払ったときに、年に1度のホームレス運動会でパン食い競争に出場したときにも叫んだかもしれないが、もうそんなことは、どっちでもいい。 天とはなんだ。自然そのもののことだろうか。そこに起こっている神的な意志のことだろうか。とにかく、この言葉は完全に間違っている。だから慶應義塾大学の出身者も、ほぼアホで埋め尽くされているのだ。 「天は人の上に人を造らず」まあまあな言葉だ。しかし続きが悪い。 「人の下に人を造らず」これは正直、必要ない。人の上に人を作らないのだから、当然、人の下に人を造れるはずがない。人の下に人を造ったら、下の人から見ると自動的に上の人ができてしまい造ったらパラドックスになる。だから福沢諭吉の下の句は二度手間なのだ。 日本にとって不必要なもの、二度手間なものがあれば、財布の中に福沢諭吉が一人もいないが、福沢諭吉より下の人なら数人入っている私に、誰か教えてください。 https://www.youtube.com/watch?v=Ray4SeegoKc

  • 西郷隆盛はなぜ征韓論者と言われるようになったのか

    西郷隆盛は征韓論者ではなかったのになぜ誤解され、 歴史教科書でもそのように記述されるようになったのか背景をご存じの方 よろしくお願いします。

  • 征韓論(明治維新)について

    あえて、(明治維新)と記述しました。そうしないと、とんでもない誤解を生じると困るので。(*^_^*) 幕末・維新の頃の本を読んでいますと、「征韓論」というのが出てきます。私なりに、おおざっぱに理解したところでは、その背景として (1)不平士族対策 (2)ロシアの南下に対応する対策 というのがあったようです。  また、その時期、大久保利通をはじめとした欧米視察団が順次帰国しており、「征韓論」が留守番組と視察団組の対立の火種になったということのようです。 ここで質問なのですが、 質問1=征韓論を理解する上で、上記のおおざっぱな把握に、追加すべき重要な事項はありますか? 質問2=「征韓論」が出てきた背景としては、(1)と(2)のどちらが大きいと思いますか?感覚的なものでかまいません。(1):(2)=7:3などと回答していただければありがたいです。又、他にも要因があるのであれば、教えて下さい。 質問3=「ロシアの南下に対応する対策」というのは、何となく理解できますが、背景に、いくらかでも「不平士族対策」があったとすると、いくら国内事情とは言いながら、客観的に見れば、「日本も帝国主義化(あるいは帝国主義化せざるを得なかったとしても)していた、のではないか?」と見られても、おかしくないですよね。「日本の帝国主義化」というのを否定する説明はありますか? 質問4=参考書により、「留守番組と視察団組の対立」と記述しているものもあり、「西郷隆盛と大久保利通の対立」と記述しているものもあります。極端に言えば、「征韓論」などはどうでも良いのであって、「主導権争い」の道具にされたに過ぎないと。このように考えると、「佐賀の乱」も何となく理解できるような気もするのですが、この「対立」というのは、どのように理解すれば良いのでしょうか?単純に、「留守番組が、視察団組の留守中に勝手に振る舞った」結果の対立なのでしょうか? それとも、もっと根深い対立があったのでしょうか?

  • 「征韓論」と「台湾出兵」

    「明治6年の政変」で、「征韓論」を主張した、西郷隆盛をはじめとした留守政府組が破れ、大久保利通をはじめとした洋行組が、「内政優先」を主張し、復権しました。 しかし、「内政優先」を掲げ、「征韓論」に勝利したにもかかわらず、時を経ずして、大久保利通や大隈重信は、多少にいきさつはありましたが、台湾出兵を実行します。 「征韓論」が政争の具に使われたという感じはしますが、征韓論の背景には、不平士族対策があったと聞いています。 (1) 当時の時代背景(不平士族対策)として、海外出兵というのは、避けて通れない道だったのでしょうか? (2) 「何故、朝鮮半島出兵ではなく、台湾出兵」だったのでしょうか?素人考えでも、国防上も、台湾よりも朝鮮半島の方が遙かに重要だったと思うのですが? (3) 政争に敗れたとはいえ、「死に場所を求めていた西郷」だっていたのですから、十分利用できたと思うのですが。同郷の西郷と大久保は、「明治6年の政変」以降、そんなことも、話し合えないほどの冷え切った仲になっていたのでしょうか? 頭の中が少し混乱していて、今は、ベストアンサーを選ぶ気分ではありませんので、適当な時期に、質問を締め切ります。それでもよろしければ、ご自由にご回答をいただければ、うれしいです。

  • 征韓論に言及した日本思想家について教えて下さい

    日本が朝鮮(韓国)に対して政治介入を行おうとしたことについて、 福沢諭吉の『脱亜論』以外に言及した日本の思想家はおりますでしょうか。 卒論で、征韓論に言及した思想家たち(比較研究)をテーマにしようと考えています。 お手数ですが、思想家及びその言及している書籍名を教えていただけたら幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 福沢諭吉の言葉

    福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉があります。 ずっと、人類平等を意味する言葉だと勘違いしていたのですが、最近になってその続きがある事を知りました。 続きを交えて極端に要約すると 「天は平等に人を作るけど、人間社会はそんなものじゃないよ。いい仕事について勝ち組になりたきゃ勉強するんだな。」 って意味でいいんでしょうか?

  • 倫理(問題) 福沢諭吉のことで・・・。

    カッコの穴埋め問題なんですが、カッコの中に入る言葉は何でしょうか? (2)は学問のすすめだと思うのですが、(1)だけ分かりません。 東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形に於て((1))学と無形に於て独立心と、比二点である。 ((2))とは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」ということばに示されたように、個人の自由と平等、独立の精神である。((1))学の精神とは、実証的な認識と合理的な思考にもとづくサイエンスの精神であり、「人間普通日用に近き実学」の精神である。

このQ&Aのポイント
  • 年賀状アプリからの印刷ができない問題について相談します。
  • 本体とiOS端末が同じネットワーク上にある事を確認してくださいというエラーが発生しています。
  • 年賀状アプリだけが印刷できない状況です。
回答を見る