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釈迦と法華経の本当の教え

noname#12704の回答

noname#12704
noname#12704
回答No.8

少し事実誤認もあるようなので、訂正を含めつつ失礼します。まず歴史的な観点から言えば1の方の言うことが正しいのです。ただ、この問題は発言者の宗教的な立場と不可分なので、本来であれば、発言者の立場の一切分からない掲示板には不向きかもしれません。新興宗教の方が、自分の信仰を歴史的事実として無知の人に語っていることもあり、個人的にはそれはいささか苦々しく思っておりますが、それも信仰の問題の難しさです。本来であれば名乗るべきと言いたいのですが、それも強制はできません。聞く人が、これをここで聞くことへの限界として認識して置いて欲しいことです。客観公平的に論じようとすればするほど、歴史的とか文献学的とか、客観研究の上に立った思想考察になるんですが、そうなると限定的な発言にならざるを得ません。 前置きが長いですが、法華経は、インドで出来た経典です。サンスクリットという古代インド語の経典も出てますし、注釈書もインドで出来ております。ただ中国に伝来してきてから、一部変わった部分と、付け加わった章がありますが、インドでできた経典であることには違いありません。 質問者さんは、経典が後からいろいろできたことは認識されていますね。法華経は、大乗仏教という仏教の経典ですが、この経典と、それができる以前の仏教の経典を比べるとまずかなり明確な違いがわかります。同じ点より、違う点がなぜ明確になりやすいのかというと、この経典は、1さんが、6で触れるように、それまでの仏教に対してあらたな思想を盛り込んでいるので、独創性を強調する方向にあるからです。新しいものは、古いものとの違いを強調することで、新しくデビューします。ただし、それを釈迦の真意とした点は、今の時代の独創性とは概念が違います。 その独創性というのはいくつかあると思いますが、まずは永遠のブッダへの信仰です。日本の新興宗教をはじめ、まぁ~、永遠の仏陀という言葉が大好きなんですけど、もともと涅槃に入った仏陀に対して、永遠の仏陀なんておかしな表現です。でも、そういった信仰を出したのです。永遠の生命とか、今言いますでしょ。そういうのは原始仏教では考えていないんです。どうでも良い問題。 次に、永遠の仏陀が、永遠に救済してくれる。救済の重視。これも原始仏教・・歴史上の釈迦の思想・・にはないですね。自分で修行すること、仏は教えても救わない。救われるか救われないかは自分で決めることです。 永遠の救済に預かるにはどうすればいいのか、仏の永遠を信じること、法華経を信じること。信仰の徹底的重視。内容を理解しなくてはいけないといいますが、法華経自身は内容を理解してなんて言いません。とにかく頭ごなしに信じる世界です。信じなさい、これも現代日本の仏教ではあたりまえですが、釈迦は言いません。少しは言うのですが、納得した上での理解というニュアンスで、激烈な信仰とは異質のものです。とにかく信じればいいとか、唱えればいいとか、写せばいいとかいいません。法華経が宇宙スペクタクルなのは、仏の永遠性と絶対性を強調したからです。これも原始仏教とは違います。 それと、救済という新しい宗教的理想像にあう、宗教人格をたくさん用意しました。菩薩です。大乗仏教以外にも菩薩という言葉はありますけど、ちょっと意味が違いますから今は置いておきます。目指すべき宗教的人格としては救済し、信者としては救済されることを理想としたということです。 法華経の制作者たちは、これを理想として、それまでの仏教へ異議申し立てをしたのです。歴史的視点から見れば、どちらが正しいとかは言えません。ただ違うだけです。しかし、今私が並べた「違う点」も、人によっては違うと判断しないので、やはり内容に踏み込むと完全に客観的なことは言えないのです。ただ、まぁ、大まかには認められると思います。 原始仏教の内容ですが、それは1で紹介された本を読んでみるのが良いです。とくにダンマパダとスッタニパータ、下記URLなどが参考になるでしょう。 だいたいは、釈迦の思想を、「根本仏教」という言い方をして仏教界共通の理解としています。四諦・八正道、で検索してみてください。だいたい分かると思います。大乗教徒も根本仏教そのものを否定したはずではないんですが、枝葉になってしまって普段は意識の外にあるといった感じなのかもしれません。仏陀の永遠性と言われた方が、現代の日本人には一般には受けが良いようです。

参考URL:
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhammapada-jp.html

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