• 締切済み

邪念について(長文です)

本当は大好きなのに、そのひとのことをとてもひどく考えてしまうことがあります。また悪口や自分にとってイヤな言い方をされたとき(相手は冗談で言ったのかもしれませんが)、「なんであんなこと言うんだろう?、腹が立つ」と思ってしまいます。家族や親しい友人には「なんであんなこと言ったの?」と確かめることができるけど、例えばお店で店員に言われたり、あまり親しくない人に言われたりすると、夜ひとりでいるとき、そのひとのことをやはりひどく(悪く)考えてしまいます。 そうしたことだけでなく、例えばテレビに出演しているひとに対してひどいことを思ったり、道ですれ違ったひとの容貌についてとんでもないことを考えたりしてしまいます・・。口に出してはいないので、混乱を招くことは無いのですが、それなりに自己嫌悪です。家族や親しい人にこのことを訊くと「親しい間柄でも腹が立つときはあるし、誰だってムシャクシャすることはある」と言います。そのとおりだと思います。 でも頭(理性)でわかっているのなら、どうして「邪念に支配される?」という同じ過ちを繰り返すのでしょうか。人間の感情や感性は複雑なもので、理性では抑えきれないことは確かにあるでしょうが、それでも僕は物心ついて20年以上人生を生きてきました。どうにかして邪念をうまく抑えて(管理?して)なるたけ良念のもとに行動したい。 馬鹿みたいな質問かもしれませんが、『ひとってどう生きれば良い』のでしょうか。『ひとはどう考えるのが望ましい』のでしょうか。 長文になってすみません。

みんなの回答

noname#9165
noname#9165
回答No.6

「邪念」そのものについて、とすれば、宗教や心理学、社会学から深く切り込んで行かないと語れませんし、また語り尽くせませんので、上記の質問文からの私見と個人的経験談として書かせていただきます。 例えば、上記にあげられた、 >本当は大好きなのに、そのひとのことをとてもひどく考えてしまうこと >また悪口や自分にとってイヤな言い方をされたとき >お店で店員に言われたり、あまり親しくない人に言われたり そんな時に、厭なやつだと思ったりすることは、ごく普通で健康的な反応であると思います。夜な夜な相手をひどく思うことが3日続いたとしても、それを行動にすることなく、自分の内部の苦悩のみで、完全に終わらせている(あるいは終わっている)なら、その邪念は、良念に変わることはなかったとしても、昇華されたと考えるのが妥当ではないかと。 しかし、 >例えばテレビに出演しているひとに対してひどいことを思ったり、道ですれ違ったひとの容貌についてとんでもないことを考えたりしてしまいます・・。 こちらは、少々自らを教育し、戒めるべき邪念かと考えます。 本来、人は邪悪な生き物で、神はいつの時代も平等を創りません。しかし、だからこそ、あたえられた叡智と良心を持ってして、「考える」ということを諦めないなら、それこそが、あなたが求めている「良念のもとに行動」できることにつながるのではないかと思います。 素晴らしい御質問だと思いました。

tenkanosyohu
質問者

お礼

実は僕の知っているひとに邪念を抱かずにはいられない、抱くことを宿命づけられたひと(ありていに言えば、そのひとは心の病を患っています)がいます。そのひとは、ふだんはそのようなことを言うひとではないのに、邪念に襲われる?と悪口を言ってしまう(または言いそうになるらしい)のです。心・精神の病は身体の病と違い、まだ未解明・不透明な部分が多いのだろうとは思いますが、そのひと(と同じ病の皆さん)の心はなぜ邪念に支配されるのか?ということについて考えるとき、神とは恐ろしい存在だと僕は改めて思います。邪心にも「内なる邪心(心の病のように制御不可能なもの」と「外なる邪心(他人に対する憎しみのように場合によっては制御可能なもの)」があるのかもしれません。 返事ありがとうございました。参考になりました。

  • eviko
  • ベストアンサー率37% (325/865)
回答No.5

^^大丈夫だよ!だって貴方がブスだって思ってる子貴方が言った通り貴方の感覚でそう思っただけで、みーんなが同じ様な好みだったらこの世に子供が居なくなってしまうもんね♪とか言ってる私の超どめんくいでした^^ 男は顔!と言い切ってた時期有りました、でも今のダーリンは全然格好良くないです(あっ本人にも言って二人で笑ってますから大丈夫ですo(*^▽^*)o ) 今のダーリンに出会う為に私面食いだったのかなぁって思うんだ、今まで顔でしか選んでこなかったら気づいたら自分も同じだったし、本当は好きじゃなくてタイプなだけだった(その時はちゃんと好きだと思ってたんだよ^^) 色んな自分がいるけど、否定しても全然意味なんて無い。 それよりもそうやって考えられる自分を誉めて育ててあげた方がずーっと自分の為になるって思う。嫌な所って誰にでも有る、それはどうしようもない事なんじゃなくてそこに気づいてどうしていくかだと思う。でも直すんじゃなくてそこの裏に必ず有るいい所を伸ばしてあげたらいいと思うんだ。 自分の悪い所みても気づく事はあるけど凹むし、時間も掛かるし手間ばっかり掛かる。自信なくなるし、無くなると益々悪循環になったりする。 だったら全部の自分を許して受け入れてあげて、それから必要の無い物を手放して行けば良い。 ブスだなぁって思ったら、そう思った自分を責めるんじゃなくて、ブスだって思いっぱなしじゃ無くそんな風に思ってる自分に気づいてる事を誉めてあげる。(悪い事だとは思わないけどね、タイプじゃないんだもん)そしてブスだと思って無い人も必ずいるし、私みたいに彼はぶっちゃいっくだけど~でもとってもとっても大好きで一番大事な人でどんな事より一緒に居る事が一番大事って思ってる人が居るんだなぁって思ったら自分もそうゆう人とめぐり合うよ。逆に顔で選んで何が悪いっって気もするだよね、顔で選んだら後はお終いなんじゃなくて、その人とどうゆう関係をきずくかのほうがずっと大事だもん。 いろんな体験通してしか解らない事って有るし、自分の価値観でしか生きられないから自分の価値観の中にやわらかい葦の様な軸をシッカリもってたらそれでいいんだと思うよ^^

tenkanosyohu
質問者

お礼

返事ありがとうございます。「かわいい・かわいくない」と「好き・嫌い」は自分では混同してないようで、混同してるような・・。難しいとこですけど。ひとの容姿だけでなく、「草花や美術品の美しさをどう観るか」に対してもひとそれぞれ印象の持ち方が違うだろうし、いろいろと自分が感じたこと(感性)に対して、素直にそれを受け止め、その感情と向き合うことが大切なのかもしれません。 僕にはまだ自分のなかに確固たる価値観が無いのかもしれません。

回答No.4

こんにちわ。 いい人がいるものですね・・・。 わたしも若い頃は、そんなこと気にせず、やりたいようにやってきましたが、年を重ねると、自分の感情に罪悪感を感じたりしてしまいます。 ただ、わたしはもし神がいるなら、一番残酷なのは神だとおもいます。 誰でも平等で、誰にでも優しく、誰でも許す・・・それこそ残酷です。 人って、敵がいるから、周囲の人を大切だとおもえるし、愛しいと感じられるんだとおもいます。 人も動物ですから、テリトリーを侵そうとするものがいれば、両手を広げてあげられないようにできています。 本当に自論ですし、誤解を承知で書かせていただきますが、わたしは障害を持った人を、かわいそうだとおもいたくありません。 明日は自分がそうなるかもしれないし、障害を持って生きるということを実践している人に、わたしは足元にも及ばないほどの人生経験しかないのです。 かわいそうなのは、そんな辛さをしらない私の方かもしれません。 人を笑うことはいいことだとはおもいませんが、その人にとっては、それで得していることだってあるはずですし、その人だから愛しいとおもう相手もいるのですから、哀れみを受けても、嬉しくもなんともないでしょう。 キムタクから、あなたが『タレントにもなれなくて、苦労したね。』と言われたりおもわれても、余計なお世話じゃい!でしょ? あなただから、キムタクにはないいい面を持っているのですから。 人間の立場を、上下で捕らえるから、罪悪感になるのだとおもいます。 不細工だろうが、病弱だろうが、人間として上下と見るのは悲しいものです。 きれいな人が好みなら、それはいいことだとおもいます。 きれいな人が上で不細工な人が下、という見方が、罪悪感を生んでいるのだとおもいますよ。 みんなが一列だとおもってみてください。 その中で、受け入れられるタイプ、そうじゃないタイプが人それぞれあります。 そして、障害をもった方も、一列です。 できないことは助けますが、わたしができないことを助けてもらうことだって、必ずあります。 何を書きたいのか分からなくなってきましたが、わたしは、邪念が人類を成長させたという面もあるとおもいますし、必ずしも邪念がないことが、正しいとは言い切れないってことです。 誰にでも邪念を持たず...が、かえって人を立ち直れないくらい傷つけることがあります。 ただ、その優しい気持ちは持っていていただきたいと感じました。 成長していくにつれて、その受け入れられるタイプが広がっていくことが、本当の成長なのかな?とおもいます。 長々ゴメンなさい。

tenkanosyohu
質問者

お礼

返事ありがとうございます。 >邪念が人類を成長させたという面もあるとおもいますし、必ずしも邪念がないことが、正しいとは言い切れないってことです。 この一節がとても印象に残りました。でも邪念が全く無ければ、邪念が生きている全ての者の心から無くなってしまえば、天国など無くてもこの世は楽園なのに・・と思います(天災はどうしようも無いかもしれないけど)。アダムとイブじゃないですけど、私たちは本当はもっと賢くて素晴らしい存在だったのではないかと。所詮妄想ですが・・。 みんなが一列だと考えるのは良いことだと思います。うまく言えませんが「多様さを尊重しつつ、調和・協力すること」が大切というか。 ちなみにキムタクは好きです。マジでかっこいいから(笑)

  • eviko
  • ベストアンサー率37% (325/865)
回答No.3

邪念を持ってる・・って言うと凄い響きだけど大好きな人の事ムカツいたりする事や貴方と同じ事思うより酷いこと考えたりします^^ でも、その気持ちの裏側にそうじゃない自分も居ます。 例えば親と感情的に許せなくて喧嘩になって罵詈雑言を吐いたとしても、誰かに言われると逆にそんなところばかりじゃない!って思ったりしませんか? 募金する時本当にその人の為だけに募金してますか?私は自己満足の為にしてる部分も有ります、でも本当にお役にたってたら良いな、って思いもあり、どちらも本当の気持ちで、そしてどちらが良くてどちらが悪いかって言ったらどちらも良くも悪くも無いんだと思ってます。 それよりも偽善者だと言って募金をしない事の方が私は・・・って思ってしまいます。 どう考えても、何を感じても良いんだと思います、大事なのは気持ちです。すれちがいざまに「ブス~」ってのが悪くて「素敵だな」って思う事がいい事・・? 人間はいい面も悪い面ももってる諸刃の剣で、そしてどちらを生かして生きていくかだと思います。 私は幸か不幸か・・お金をよく拾います。その時内心では届けたくないんです、潔く届けるんじゃなくて「う~私のバカ!何で届けるんだよ~やめとけよ~自分だってお金ないじゃんか~」って自分も居ます。でも「自分のお金じゃないじゃん。」って自分もいてどっちの自分で生きていくことが好きか、後悔しないか、なんだと思うと届けざるを得ないんです。 お巡りさんに見付からなかったらもらえるんですよね~って確認したりして・・本当セコイとか思うけど届けた後は泣きながらもどこかスッキリした自分がいます。 それで良いって思ってます。もし届けなかったら凄く後悔するしどうしていいか解らないから。 そして誰の事も365日好きで居る事なんて無い。でも好きな気持ち大事にしてたらそれでいいんだと思うな。 聖人君子と遊んでもつまらんよ。人はどう考えるか、よりも自分の正直な気持ちとどう向き合って行くかの方が大事で、その正直な気持ちに嘘を付かないで生きる事が望ましいんだと思いますよ^^ 感情で気持ちを見失う事もなく、感情を気にしすぎることも無いよ、だってそれが人間だもん♪ と思って生きてます。自分と向き合うとの自分の中に軸が出来るので楽になると思いますよ^^

tenkanosyohu
質問者

お礼

返事ありがとうございます。でも街歩いててスレ違いざまに「ブスやな」とか思ってしまうと、自分が男なんでどうしても「やなヤツやな、オレは・・」と内心思ってしまいます。でもかわいいコを見ると逆にときめく。ブスなコ(僕にはブスに見えて他のひとにはひょっとすると美人に見えてるのかもしれませんが)はブスに生まれたくてブスに生まれたわけではないのに、かわいそうな気がして。かわいいコとブスなコがいて性格的な面が大差ないなら、やはりかわいいコと付き合いたいと思ってしまう・・。 神様はなんでこんなふうにしたんやろと思います。もちろん年を重ねていくに従って、その女性の内面の良いところが姿・形にも少しずつ反映されていくでしょうし、ブスでもその人と何度も接するうちに「いいコやな」って思えてくると時々「かわいいな」と思うこともあります。でも僕は基本的に外見から入ってしまう。こんなんでええんかなって・・。

  • garibar2
  • ベストアンサー率23% (29/123)
回答No.2

邪念を抱くこと自体は、人間としては自然なことだと思います。 ただ、無駄に邪念を抱いても、自分が疲れたり嫌な気持ちになるだけです。 以下に、僕なりの邪念との付き合い方を書きますので、良かったら参考にして下さい。 1.無駄な邪念を抱いてしまいそうな場所にはなるべく近寄らない。(例えば、僕はTVは見ません。無駄に邪念を抱いてしまうので…) 2.いくら敬遠していても、いつ自分の中に邪念が生まれてしまうか分かりません。自分の価値観をエコヒイキせずに、常に、謙虚な姿勢、客観的な視点を持つこと。 3.もし、邪念を抱いてしまった場合は、まず、それが自分の狭量さや視野の狭さから来るものでないか、常に自己批判的に行動する(2で述べた客観的な視点を鍛えておかないと、これは難しいです)。 4.邪念の原因が自分にはないと思うなら、その原因がどこにあるのか、理性的に分析しようと努める。そして、その分析から得られた知識を、自分の行動や思考に還元する。 次は、もうこういう場所や人には近づくまい、こういう話題はするまい…、など。 ただ、「うわー、不細工な顔やなー」とか「こいつアホやなー」とか、嫌な気分になるどころか面白がれる程度の邪念は、シリアスに考えずに素直にゲラゲラ笑っておいたほうが人間として、健康的だと思います。

tenkanosyohu
質問者

お礼

返事ありがとうございます。参考になります。 >嫌な気分になるどころか面白がれる程度の邪念は、シリアスに考えずに素直にゲラゲラ笑っておいたほうが人間として、健康的だと思います。 そうしてるんですけど、笑ったあとに時々「ええんか、笑っても?」とか思うんですよね。お笑いのひとは笑ってほしいから、おかしなこと言ったりやったりしてるわけですけど、不細工な人は「私の顔不細工やから笑ってほしいの」とはあんまり(というか全然)思ってないわけですよね。極端な例になってしまうかもしれないけど、例えばハンセン病で苦しんだ方々とか、ほんまに苦しまれたと思うんですよね。「そういうのは極端すぎる。そういうのとはまた別の次元の話や」と言われるのかもしれないけど、彼らは好きでそのような病気を患ったわけじゃない。でもそこには確かに同じ人間同士の間で「差別」があったわけで。「神様は何が言いたいんや、こんなことして」と思ってしまう。 すいません、ループしてしまって。

  • chimney
  • ベストアンサー率34% (68/198)
回答No.1

良念というものを邪念を邪念足らしめる自分の心だとすると、 邪念を持たない人間というのが果たしてこの地上に存在するのかどうか怪しいものです。 例えばあなたの友人が大事な約束を忘れたとします。 ここで腹が立つことは邪念でしょうか。 腹が立っていても一言のいやみで済ませるのは良念でしょうか。 腹を立てていることを相手にぶつけることは良念でしょうか。 腹立ち紛れに相手に殴りかかることは邪念でしょうか。 あなたは生まれながらの聖人でもないし、何年も苦行に耐えてきたわけでもない。 またそういった人間が邪念を全く持たないかというと、それは誰にも分かりません。 私もそういうことはよくあるのですがそういう自分でもいやになる邪念が浮かんだときは 「それはこっちに置いといて」 というふうにこれは邪念である、と自分の中でけりをつけます。 要するに実際に言動に移す対象から除外することを意識的に行うのです。 そしてその邪念が浮かんだ原因を探して、どうしてその邪念が浮かんだのか、そしてその邪念にも正当性はあるのか、自己中心的な判断からきているのか、などを意識的に分析してみてはどうでしょう。 私は普段はそこまではしませんが、今まで自分が邪念だと思っていた思考にもそれなりの理由があったのかも知れません。 例えば「人間はこう生きるべきだ」「人間はこう考えるのが望ましい」という指針があったとして、それがあなたの良念と違っていた場合、どうしますか? 第一「人はどう生きるべきだ」などという規範が存在しうるのだとしたら世界にこんなにもの宗教が存在し、多くの人から支持をされているわけがありません。 結局法律や社会秩序の外にあることについては自分の判断でやるしかないのです。 しかしあなた個人として「私はこう生きる」という答えを見つけたいという気持ちを持ち、自分の邪念や良心と葛藤していくことはプラスになりこそすれマイナスになることはありません。 きっとあなただけの答えが見つかると思います。 長々と書いてしまいましたが、何かの参考になれば。

tenkanosyohu
質問者

お礼

返事ありがとうございます。参考になります。おっしゃるとおり世界は多様で複雑なもので、人種や宗教、国家が違うからこそ、戦争や紛争が起こるのだとは思います。しかし、もし邪念(をどう規定すれば良いのか、僕にはわかりませんが)が無ければ、真に世界の平和を望むのならば、殺傷してまで敵と対立しようとは思わないのではないかと。 イスラムの世界では、大きなジハード(内なる自分との戦い)と小さなジハード(外なる異教徒との戦い)があるそうですが、大きなジハードにいかなる時も依っていれば、イラクがアメリカとあそこまで対立することもなかったのではないかと。アメリカもまた、キリスト教の「汝の隣人を愛せ」の精神を何らかの形で全うしていれば、戦争は回避できたのではないかと。 すでに起こってしまったことは仕方ありませんが、私はひとりひとりの人間がそれぞれの心に宿る平和の精神をもっと大事にし磨くことで、争い事はもっと少なくできるのではないかと思います。 「人間いかに生くべきか」と問う時、その答え方は無限にあると思いますが、「異教徒を滅ぼせ」とか「隣人をこらしめろ」という生き方・考え方は誰もが「おかしいわ、それ」と感じることができるはずです。 長くなってすみません。

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