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物心がつくとは どういうことか? (存在論)

 わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。  ひとは誰でもそうなのか。  そのとき われとなんぢとは  物心を 分かち合っているのか。  いやいや ひととひととも  もともと仲がわるかったのか。  ことばは はさみか。糊か。  ことば はさみか? 糊か?  情感は?  知性は?  あるいはただのズレか?  もともと仲が良かったが  ズレが出来たということか?  ただそれだけのことか?   世界という生命は  すべてをつなげているのか?  それにわれもなんぢも  つらなっているのか?  それとも もともと  互いにお呼びでないのか?

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回答No.6

 物心がつくとは煩悩の始まり。  人の成長は欲望と共に。  欲望が煩悩を成長させ、人を成人へと成型する。  成人は煩悩の塊。  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  なぜ拭おうとするのか。不思議だ。    やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と拭おうとするのだ。  子は親を忘れていても、親はいつも子の事を気遣っているもの。  その親の呼びかけに気付く子は親の元に駆け寄り安心を手にいれる。  ☆ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  こんなことを考えました。  

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむ。おもしろそうですね。  ご回答をありがとうございます。  ★ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  ☆ 質問者は ここで(この質問では) 跳躍者――つまりもっと言えば飛躍者――となります。  ○ ものごころがつくその同じ時点で 煩悩ないし無明ないし生存欲を持つと同時に 共生の種をも持ったか? さらには みづからの魂にその共生の種をみづからが植えたか?  ★ ~~~  やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と〔おのれの《心の曇り》を〕拭おうとするのだ。  ~~~~~  ☆ というふうに――成長期の或るときに―― 行動を始めるのは もともと 物心がついたときにその種を植えていたからか?  ★ ~~~  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  ~~~~~  ☆ つまりは この初めの線引きそのことにおいて人は 世界の中から浮かび上がらせたおのれと同じ存在を ほかにも見止めていたのか? 共生の相手だと知ったのか?  世界という地に線を引いて――つまりは ものごころをつかせて――おのれを図として浮かび上がらせたそのことは 切り離したと同時に つながっていた。もしくは 切り離し行為そのものにおいて つながりを確認したのか?  ★ 物心がつくとは煩悩の始まり。  ☆ と同時に その無明を明知へと転換するむしろヰルスを仕込んでおいたのか?    人は ものごころがついたとき おのれを世界からほんとうに切り離したのか?  むしろつながっていることを確認しただけなのではないか?  世界の中に位置づけられているおのれを見たとき 母や父や 婆や爺を見て すでにおのれの子や孫をも見たのだろうか? これらを見たとき 共生を始めていたのか?    地と図とであるなら そして人はそれぞれが自分としての図であるのなら みんな地続きであるのではないか?   そうなると では 人は  ○ 人は おのれがこの世界‐内‐存在(《 In-der-Welt-Sein 》)であることを どこで・どうして忘れるのか?  という主題に変わって行くであろうか?

その他の回答 (21)

回答No.22

よかったらブラジュロンヌさん一緒になにかビジネスしませんか? 何にも決まっていないしどうやるのかもわかりませんが。 もしくはいい人知りませんか? 失礼でしたらすみません。 教えてgooも知っている人も減って淋しいですね…

bragelonne
質問者

お礼

 ちょっと OKWave のサポート担当の方からクレームがつくような話になって来た。  ブログか フェイスブックがいい。  わかった?

回答No.21

最近淋しいから一緒に何かをする友達、仲間が欲しいと思います。 でも遊んでもお金はなくなるから仕事をしてお金を稼ぐ仲間が欲しい… インターネットではそんな人はみつからないのかな… どうしていいのかもわからない

bragelonne
質問者

お礼

 そうやって徐々にあたらしい方向に向かうのさ。  わたしが さびしいと感じて でも掘り下げて話をする相手が欲しいと思った時――友だちはけっこういたけれど―― 見つからなかったとき(たとえば同人誌を探し出していくらか話し合いを持ったことまではあったのですよ) けっきょく書物の中で対話をするかたちになりました。  それでもあなたは むしろ事業のほうへ向いているのですね。  だったら そのような心づもりをもって踏み出すことでしょう。  インタネットでは どうなんだろう。うまく行くかどうか。何ともわたしは いま分かりません。経験も判断材料もありません。フェイスブックで そういうやり取りをしていることは知っています。(じっさいわたしも 会員にさえなっています)。がわたし自身は 行動を起こしていません。  つまりわたくしもどうしていいか分からない口ですが 問題は ひとつにそのこころざしを しっかりと持つこと。つねに そう心がけていること。ひとつに 積極的に行動すること。

回答No.20

そうなのかもしれません。 いろいろと相手をしてくださって、ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 またお話しすることもありましょうが それでは ひとまづ お元気で。  と応じますが 振り出しに戻っただけのようです。

回答No.19

市役所は税金を払うところで、お金をくれるところではありません。 納税には行きました。

bragelonne
質問者

お礼

 そうか。よかったね。  どうもあなたは 相談するというのではなく ただ何かを書いていればいいのかな。  それとも ここでは 出来ない相談なのか。  話があっちこっち行くみたい。

回答No.18

あーあ、明日一千万円が手に入らないかな… どうせなら一億円? って税金どうなるんだ。現実は一万円の支払いも困ってます 。 孤独だなあ… すみません。

bragelonne
質問者

お礼

 いいよ。いつでも 話に来ることくらいは 何でもないさ。  互いに人間として 切り‐結びしているってことさ。  そう言えば 孤独を思うことは わたしからはなくなっている。もう十年二十年 いや三十年くらい。  その点は めぐまれている。恩恵。  市役所に行って相談するのも まづは 手始めだということは ずっと前から言われていたろうけれど やったの?

回答No.17

今月は今までになく心がどうにかなりそうで自分で危険を感じました。 お金もありません。 せめてお金があればと思いますが… とにかくこの2つですね今の私は… 今月でジエンドかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 休みを取っても うまく行きませんか?  動けるのなら 誰に対してでも 話を持ちかけてみては どうですか?  自尊心をなくす必要はありませんから でも正直に現状をうったえ 助けを乞うしかないでしょう。  雨をしのぐ屋根はあるが カネはわたしにはない。  あとは 話し相手になるだけ。

回答No.16

私がこうしてなにか書き込むこともなにか世界に良い影響を与えたんでしょうか? お金をなくし時間をなくし健康をなくし無用な争いを産んだだけで孤独だったのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 いらっしゃい。  ただし なんですって?  ★ 私がこうしてなにか書き込むこともなにか世界に良い影響を与えたんでしょうか?  ☆ なるほど。あくまで相関関係があるであろう。ということですか。相関関係があったから こうしてここにいるということでしょうか。  ★ お金をなくし時間をなくし健康をなくし無用な争いを産んだだけで孤独だったのではないでしょうか。  ☆ 分かった。過去は過去としよう。  あるいは まだまだ言い足りないのなら みんな言葉にして表わしておこう。どうか?  ★ 孤独  ☆ は 誰も例外なく そうだよ。ただし 孤独に徹して行くと 人間は 孤独関係にあると知るようになる。わび・さびとかも言います。わびしさのきわみ。心が錆びついてしまった。そこから 金属だと別だが 人だと心がまだ死んでいない。水が湧いてくるといいね。泉の水が。  燈心がともるといいね。  《なくした》ものは だいたい同じようだから。

回答No.15

 生命とは?という問いは大きすぎる問題ですが、無機質の“活動”しなくても“その状態”を維持している、に対して有機質は活動する(栄養摂取など)ことによって“その状態”を維持し、あるいは成長させ、「死」に至る“物質”である、としても・・・・・、  やはりそこには“こころ”と云うものの在る事を意識せざるを得ず、「宇宙の本体は絶対の大心霊体である」とするならば、この世は精神の意志(ちから、エネルギー)による現象と言ってみたく、無機質さえ精神の現れ、物質にさえ精神は宿る、と言ってもよいかと思います。  そう考えれば有機質の活動は精神の活動、とも言えます。  太陽とか地球とかは物質の持つ引力の結果の集合体だとすれば、生命の栄養摂取という活動による成長も物質の集合活動、集合し続けようという活動。  そして、精神さえも“集合、成長”するのかもしれません。  その始まりが・・・・・物心(ものごころ)。  物質が引力によって個体となるならば、心も精神の引力による集合体、あるいは集合力。その集合体の“活動”を生命と言う。  だから、「物ごころ」は成長する。  こんな考え(単なる思い付きです)はどうですか。    

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ○ クヲリア    ということをおっしゃりたいのでしょうね。これについてはわたしもあまり知らないのでよわってしまいますが まづは直前のもぐさんとのやり取りも参考にしてみてください。例のぷしゅてくすさんの見解を 活かせるものなら活かしたいとも考えます。  モノ(素粒子など)は同じもので出来ているけれども 出来上がった存在は 人間としては 無生物と違うことはもとより ほかの生物とも違うようである。動物の中には かなり近いものがいるといった見解も耳にしますが おそらくその動物が何をしたいかを考えたりほかの同種の存在と話を交わしたりするというまでに到るには 埋めがたい溝があることでしょう。  でも 生命としては 同じようだとも言われる。  というところから 迫って行かれたのだと思います。    さすがにわたしも プリンタが口を聞いたり心を通わしたりすることはないと思いますが 生命としての《地――つまり モノの時空間――》である世界との切り結びするありさまに関心があります。  飛躍する者としてさらに こんな話を引いてみます。  ▼(谷川健一:乱舞する神々) ~~~~~  大昔 森羅万象がアニマ(霊魂)をもっていた時代 植物も岩石もよく言葉を話し 夜は炎のようにざわめき立ち 昼はサバエが湧くように沸騰する世界があった。存在するのは善意にみちたものばかりとは限らなかった。  夜は蛍火のようにかがやく あやしい神がいるかと思えば 昼はサバエのように悪い神がうろついた。サバエは稲の害虫であるウンカをいう。日本列島の到るところ つましい存在と見られる青水沫(あをみなわ)さえ 自分を主張して異議を申し立てた。  日本列島の到るところ 動植物はいうまでもなく 岩石や火や水までも人間と同じように喜怒哀楽の感情をあらわにし 生き生きと動いていた光景を 『日本書紀』は次のように活写する。    葦原中つ国は 磐根 木株 草葉も なほよく言語(ものい)ふ。    夜は熛火(ほほ)の若(もころ)に喧響(おとな)ひ 昼は五月   蠅(さばへ)如(な)す沸き騰がる。 (神代・下)  ・・・(中略)・・・  しかし絢爛たる闇の絵巻をくりひろげた夜の挑発者たちが退場を余儀なくされる時が訪れた。それは葦原の中つ国に支配権を確立することを目指す者たちが現われたことによる。    然もその地(くに)に 多(さは)に蛍火の光(かがや)く神    および蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神有り。    復(また)草木ことごとくによく言語(ものいふこと)有り。   故 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 八十(やそ)諸神   (もろかみ)を召し集(つど)へて 問ひて曰く       吾 葦原の中つ国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(は      ら)ひ平(ことむ)けしめむと欲(おも)ふ。        (神代・下)  (谷川健一:日本の神々 § 3  1999)  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 蛍火やウンカなどは じつは人間であり 〔自分たちから見て〕まつろわぬヤカラだったという側面もありますが 草木や岩石が口をきいたとも言っているようです。  ★ ~~~~  物質が引力によって個体となるならば、心も精神の引力による集合体、あるいは集合力。その集合体の“活動”を生命と言う。  だから、「物ごころ」は成長する。  ~~~~~  ☆ 究極のイメージとしては クヲークが同じならば 万物は相互に関係しあっているのでしょう。相互補完性といった規定については なぜ補完なのか――つまり 人間の自由意志をほかのモノとは別にどこまで認めるのか――の論点があると思いますが どうなりましょう?  そして 生命といった観点ですね。  引力ないし重力は 人間の意志にかかわると見ることも わたしはして来ていますが 果たしてどうなのでしょう。

  • MOG777
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回答No.14

お互いにそろそろ睡眠の時間でしょうから手短にかきます。 >( c )は 知識がふるくなることを言っていましょうか? いや分かりませんが。 例えば、時がガリレオ以前に戻ったとします。すると天動説の方が我々には理解しやすいわけで、そうなるとその証拠というのを至る所で見つけてくるわけです。 要は、色眼鏡(概念)でみるとそれらしく見えてくるということです。 > (あ‐3) では 《ことば》は どうか? 同じでしょうね・・・ > (い) ( d )の《社会の外側》とは何を言うのか? それは 大きく《世界》ではないのか?  例えば、アラブ社会と欧米社会は価値観において互いに断絶しているでしょう。 > (い‐1) けれども《社会の内側》も じつは 世界につつまれている。世界の内にある。《われ》も同じくである。 例えば、プリンターという存在。 それは私たちと同じ素粒子でできているのかかわらず、私たちを認識できません。 それは紙とパソコンからの信号などのみ認識できます。 そして、もしプリンターが宇宙を認識できるならば、プリンターとして使いにくいことこの上ないでしょう。 ここらへんは難しいですね。まとめます。

bragelonne
質問者

お礼

 こまあすさん お早うございます。  まづ 次のふたつの見方の対比は どうでしょうか?  (K)★ ~~~~  例えば、プリンターという存在。  それは私たちと同じ素粒子でできているのかかわらず、私たちを認識できません。  それは紙とパソコンからの信号などのみ認識できます。  そして、もしプリンターが宇宙を認識できるならば、プリンターとして使いにくいことこの上ないでしょう。  ~~~~~~  (y)●(回答No.15) ~~~  生命とは?という問いは大きすぎる問題ですが、無機質の“活動”しなくても“その状態”を維持している、に対して有機質は活動する(栄養摂取など)ことによって“その状態”を維持し、あるいは成長させ、「死」に至る“物質”である、としても・・・・・、  やはりそこには“こころ”と云うものの在る事を意識せざるを得ず、「宇宙の本体は絶対の大心霊体である」とするならば、この世は精神の意志(ちから、エネルギー)による現象と言ってみたく、無機質さえ精神の現れ、物質にさえ精神は宿る、と言ってもよいかと思います。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく  ★ 私たちと同じ素粒子でできている  ☆ から出発しているものと思われます。そのあと見方が分かれる。そしてさらにそのあとでは わたしは No.1での問いを持ちます。  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~  (1)  ▼ 〔* ものごとについての〕無= 無限不確定性の潜在 としての認識可能性における  ☆ という・言うとすればその舞台は 《われ》と地続きなのでしょうか?  〔《モノは どこまで人が探っても 確定しない。限りなく不確かである。ただし その不確定性としてじつは存在している》 という舞台ないし世界は 人間と地続きなのか?〕  のちに切り出されて来る《われ》と 時空間として なおも 連続していましょうか?  (2)  連続しているけれども 人には・われには 分からないということでしょうか?  ▼ 原理的確定を伴わない“いい加減な”捉え方  ☆ しか 人間は ものごころがついたあとは 出来ないということでしょうか?  (3)   けれども もしそうだとしても――つまりは もう環境世界との連続性は断たれたとしても―― では何故 もとは 地続きだったと分かるのでしょうか? 脳細胞とそのはたらきから分かりましょうか?  (3-1)  ▼ 最初は条件反射的に環境と一体であった精神活動  ☆ これは 地続きであり連続していたということでしょうか? そこまでは言えないのでしょうか?  (4)  ▼ 徐々に客観的対象として分離され、その主体としての自我の目覚め=自己存在の客観視も可能になる。  ☆ これは 理論的に言っているのみであって 実際には ここに言うところの  ▼ 客観的対象〔として分離され〕 / 〔自己存在の〕客観視〔も可能になる〕  ☆ は 言わばただ類型的に(近似値としてのように)そうだということでしょうか? それとも 実際にそういう能力が 人間に開発されうるという意味でしょうか?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりまだ分かりません。もっとも  ★ それ(プリンタ)は 紙とパソコンからの信号などのみ認識できます。  ☆ というときの《認識》は 人間の行為能力としての認識とは別だと考えますが。おそらくクヲリアの有無によって違うでしょう。  上のように《切り結び》のあり方についてのきわめてあいまいな捉え方をしているにも関わらず 次の事柄については むしろはっきりしています。  ★ ~~~~~   > (い) ( d )の《社会の外側》とは何を言うのか? それは 大きく《世界》ではないのか?   例えば、アラブ社会と欧米社会は価値観において互いに断絶しているでしょう。  ~~~~~~~  ☆ そうなんですが・つまり現象としてそのとおりなのですが いまはかなり抽象的な《存在》という観点からものごとを見ようとしています。すなわち それによっては 違う見方が出来るという立ち場です。  ○ (世界における存在どうしの《ものごころ》時点での《地続き》の問題) ~~~~  1. 価値観や世界観に対しては 存在が先行する。  2. 存在は どの民族においてどのような歴史的な伝統の中に育っていようと 生まれたあと《ものごころがついた》というわれの誕生においては 世界と切り結びしている。その世界は じんるいにとって同じひとつの共通の世界である。  3. おそらくここで (あ) いわゆる宗教がすでに集団を前提として人為的に持たれるようになった人工の・想像の産物だということ (い) 個人の信仰については 存在という次元で共通の類型が見出されるということ。としての勝義諦の議論が 必要であり有効であるとなりましょう。【Q:神とは何か】。  4. プリンタを誰がどれだけ持つか 誰が発明し誰がつくり誰が売り誰が買うか そうして誰がどれだけもうかったか。――これらについては 論争やらあるいは戦争までをおこなって勝ち負けを決めているようである 現状は。それは 互いに地続きであるゆえにこそ起こることだと言えるか?  ~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~   > (あ‐3) では 《ことば》は どうか?  〔* 《ものごころ》が世界とわれとを切り‐結びしているのと〕同じでしょうね・・・  ~~~~~  ☆ 《ことば》論は にわかにそのままその議論に入れないという感覚を持ちます。保留です。

  • MOG777
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回答No.13

補足要求に応えていただきありがとうございます。 > 1. ヒトは 動物と違って 《ことば ないしその概念としての意識》によって 自然環界やほかのヒトと われとを 分けている。 ことば ないしその概念は社会的な約束事であり、それらを使うという特徴において 人間は社会的動物であり、他の動物とは異なるということですね。 > 2. ただしこの《ことば による呼びかけ合い》は 互いを切り分けた線を超えて 互いを結びつけることができる。 社会的な約束事や共同幻想を受け入れることにより、社会を構成する部品として他の部品と協働することが可能になるということでしょうね。 > 3. その結びつきとしての《きづな もしくは互いに地続きであること》は あんがい動物の場合のそれを共有しているかにも思われる。動物のような本能はすでにほとんど壊れているかも知れないが その余韻は残っていて その余韻によってだけでも 互いに図たる存在が 世界たる地を基礎として 地続きでありうる。 「認識的宇宙」といった個人的用語を振り回すことは個人の妄想の世界だけで可能であり それらは地続きであることとは言えません。 「素粒子論的宇宙」といったある程度の規模の集団で使われる用語のみ互いを結びつけることができます。 とはいえ、それも社会的な約束で決められた用語であり、そういう概念を用いて世界を観ると汲み取れない情報もでてきます。 > 4. ことばを介してのマジワリという意味で《社会的な》であり あたかも自然および第二の自然たる社会から成る世界において 互いに地続きであるという意味で 《動物》でもある。 あくまでも同じ世俗諦(社会的な共同幻想・約束事)を共有する社会のなかで結びつけるだけで、その社会の外側や世界との断絶は深まります。 > 5. 《ことば ないしその概念としての意識》によって身の周りに引いた線を 同じくその《ことばによって 互いに呼びかけ合う》というとき しかもさらには《ことばを超えた場からナゾの何ものかによって 呼びかけられる》ことがある。これを 第一義のことば(声・ヒラメキつまり 直感および直観)とする。つまり 勝義諦である。そのきっかけである。 勝義諦は普遍的な真理という意味です。それがどうやって得られるのかを述べるのは誰にでも荷が重いものです。述べないことが賢明でしょう。 ひとまず、「ことばは範囲の内には糊で外には鋏である」とう結論で満足すべきでは?

bragelonne
質問者

お礼

 もぐさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  次の箇所がむつかしいです。  ★ ~~~~  ( a ) 「認識的宇宙」といった個人的用語を振り回すことは個人の妄想の世界だけで可能であり それらは地続きであることとは言えません。  ( b ) 「素粒子論的宇宙」といったある程度の規模の集団で使われる用語のみ互いを結びつけることができます。  ( c ) とはいえ、それも社会的な約束で決められた用語であり、そういう概念を用いて世界を観ると汲み取れない情報もでてきます。  ~~~~~~  ☆ ( a )は ふつうですね。自分のあたまの中の観念であり その観念の世界をまだ出ない。  ( b )は 事実認識として共有しうる・また共有されている知識ということでしょうか。あたらしい仮説が現われれば またそのあたらしい知識の共有というかたちになるだけではあるが それとしてわれわれ互いを結びつけることができる。それによって 生活の共同性が成り立つ。  ( c )は 知識がふるくなることを言っていましょうか? いや分かりませんが。    ★ ( d ) あくまでも同じ世俗諦(社会的な共同幻想・約束事)を共有する社会のなかで結びつけるだけで、その社会の外側や世界との断絶は深まります。  ★ ( e ) ひとまず、「ことばは範囲の内には糊で外には鋏である」とう結論で満足すべきでは?  ☆ ここで気になるのは 《内と外》という概念ですね。    (あ) ものごころは われの周りに線を引いた。この線の内と外を明らかにした。  (あ‐1) この内と外とは 地(世界)と図(ひと) あるいは 図(ひと)と図とで それぞれ切り離されているが 世界という地を基礎として地続きであるように思われる。つまり 切り‐結びしている。  (あ‐2) つまり ものごころは はさみであると同時に糊である。  (あ‐3) では 《ことば》は どうか?  (い) ( d )の《社会の外側》とは何を言うのか? それは 大きく《世界》ではないのか?   (い‐1) けれども《社会の内側》も じつは 世界につつまれている。世界の内にある。《われ》も同じくである。  (い‐2) それとも   ★ 同じ世俗諦(社会的な共同幻想・約束事)を共有する社会   ☆ というのは単に《社会》というのとは 別なのか?  ★ 勝義諦は普遍的な真理という意味です。それがどうやって得られるのかを述べるのは誰にでも荷が重いものです。述べないことが賢明でしょう。  ☆ これは まあ 追々 必要になったところで触れればよいでしょう。  こんなところでしょうか。(あ)と(い)が 分かりにくいです。

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     わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心(ものごころ)という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。    いやいや そんなことはないだろうか。           *  次のように描かれる《世界とわれとの未分化》なる昔の世界と いまモノゴコロがついて見ている現実世界とは どう同じでどう違うのか?  そこでは 世の中を人間たる自分たちによって思うように動かそうと心得た者どもの出現が 世界の貌を変えるキッカケだったと哲学している。か?  ▼(谷川健一:乱舞する神々) ~~~~~~~~~~~~~~~  大昔 森羅万象がアニマ(霊魂)をもっていた時代 植物も岩石もよく言葉を話し 夜は炎のようにざわめき立ち 昼はサバエが湧くように沸騰する世界があった。  存在するのは善意にみちたものばかりとは限らなかった。  夜は蛍火のようにかがやく あやしい神がいるかと思えば 昼はサバエのように悪い神がうろついた。サバエは稲の害虫であるウンカをいう。  日本列島の到るところ つましい存在と見られる青水沫(あをみなわ)さえ 自分を主張して異議を申し立てた。    日本列島の到るところ 動植物はいうまでもなく 岩石や火や水までも人間と同じように喜怒哀楽の感情をあらわにし 生き生きと動いていた光景を 『日本書紀』は次のように活写する。    葦原中つ国は 磐根 木株 草葉も なほよく言語(ものい)ふ。    夜は熛火(ほほ)の若(もころ)に喧響(おとな)ひ 昼は五月蠅    (さばへ)如(な)す沸き騰がる。 (神代・下)  ・・・(中略)・・・  しかし絢爛たる闇の絵巻をくりひろげた夜の挑発者たちが退場を余儀なくされる時が訪れた。  それは葦原の中つ国に支配権を確立することを目指す者たちが現われたことによる。    然も その地(くに)に 多(さは)に蛍火の光(かがや)く神     および蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神有り。        復(また) 草木ことごとくによく言語(ものいふこと)有り。    故 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 八十(やそ)諸神    (もろかみ)を召し集(つど)へて 問ひて曰く       吾 葦原の中つ国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(は       ら)ひ平(ことむ)けしめむと欲(おも)ふ。                                (神代・下)  (谷川健一:『日本の神々』 § 3  1999)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このひとつの哲学について どう思うか?  神々の国・にっぽんは いかなる貌と姿であることを あなたは欲するか?

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

  • 意志、理性、感情、? 言葉の共有!

     通常、人の心の能力、作用を表すのに「意志、理性、感情」という言葉を以て、三つの働きを表現していて、ほとんどの人は、この表現に疑問を持っていないと思います。  私も今、こうして質問として取り上げてみようと思うまでは、さしたる疑問を持つことはありませんでした。  でもよくよく考えてみると《?》と思ったので次のように提案してみたいのです。  “意・理・感”にはそれぞれに“性”という言葉を付けてみてはどうでしょうか。  “意性・理性・感性”というように。  そしてそれぞれの性に、意には志を、理には解を、感には情を、付けて「意志・理解・感情」として“思索”するというのが、言葉の使用を“共有”することになるのではないのか、と思ったのです。  どうでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     (1) まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。  《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ あやまち得る内容  《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容   ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた  (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。   すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。     誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。  (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。    (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。  (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。     《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。     《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと     思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。  (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。   スサノヲ感性語宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ》   というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。  (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      身のやましさ(恥づかしさ)反応と共なる心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。   ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?      人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《オシエや規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。  (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。   ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと    受け取られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの部下の所為にしなさい。     ・・・》  (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がっているのではないか?  これを問います。もしそうなら どうすればよいでしょう?

  • 邪念について(長文です)

    本当は大好きなのに、そのひとのことをとてもひどく考えてしまうことがあります。また悪口や自分にとってイヤな言い方をされたとき(相手は冗談で言ったのかもしれませんが)、「なんであんなこと言うんだろう?、腹が立つ」と思ってしまいます。家族や親しい友人には「なんであんなこと言ったの?」と確かめることができるけど、例えばお店で店員に言われたり、あまり親しくない人に言われたりすると、夜ひとりでいるとき、そのひとのことをやはりひどく(悪く)考えてしまいます。 そうしたことだけでなく、例えばテレビに出演しているひとに対してひどいことを思ったり、道ですれ違ったひとの容貌についてとんでもないことを考えたりしてしまいます・・。口に出してはいないので、混乱を招くことは無いのですが、それなりに自己嫌悪です。家族や親しい人にこのことを訊くと「親しい間柄でも腹が立つときはあるし、誰だってムシャクシャすることはある」と言います。そのとおりだと思います。 でも頭(理性)でわかっているのなら、どうして「邪念に支配される?」という同じ過ちを繰り返すのでしょうか。人間の感情や感性は複雑なもので、理性では抑えきれないことは確かにあるでしょうが、それでも僕は物心ついて20年以上人生を生きてきました。どうにかして邪念をうまく抑えて(管理?して)なるたけ良念のもとに行動したい。 馬鹿みたいな質問かもしれませんが、『ひとってどう生きれば良い』のでしょうか。『ひとはどう考えるのが望ましい』のでしょうか。 長文になってすみません。

  •  感・理・意・・・など、心の仕組み(?)について。

     人の心は、理性、感性、意志、と言う言葉で表す三つの働きがあるとされていますが、「記憶」と言う働きはどのような位置づけになるのかと、時々考えたりしています。  今日、思ったことは理性、感性、意志、の“性や志”を取り除いて“理・感・意”とした場合、どうなるかと云う事です。  「感」には感覚と感情という言葉がありますが、感覚は物理的な反応としました。  感情は精神的な反応、でよいと思いますがその内容は物理的な“感覚”に反応して起こる「情」と精神的な“刺激(好悪など)”を受けて起こる「情」とがあるように思います。  また、感覚は生理的に、感情は心理的に、とも受け止めてみました。  「理」についてはどうなんでしょう。  理性、と言う言葉に対して理解という言葉を当てるのは適当でしょうか。  理解とは物事を解釈し判断すること、でよいかと思いますが、理性とはそうした能力(働き)の事を言っているように思います。  そう思うと、理性とは物事を理解する働き、と受け止める事になるのですが、これで良いでしょうか。  「意」については辞書では“思い”とありますが、これに「志」が付くと“力(ちから)”を感じます。  この“力”は言い換えれば行動する、と言うことだと思います。今、能動という言葉を思い出しました。     「感」を受動、とすれば「意」は能動、であると。  そして、「記憶」という心の持つ能力です。  生物すべてにあると思われる「記憶」という心の働き、“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・  なんてことを考えてみましたが“回答”いただけますでしょうか。  よろしくお願いいたします。        

  • 「直観」と「直感」の違い、その差って何ですか?

    frauさんという人が、どっちも同じだと言っています。 ふつう哲学では、「直観」という言葉は使いますが、「直感」という言葉はあまり使われません。 「直観」という言葉が哲学で使われるようになったのは、中世の聖アンセルムスからで、アンセルムスは、「直観」を二通りの意味で使っていました。 一つは、直観的認識は、現に目の前にあるものについての知識という意味。 もう一つは、いかなる直観的な認識も先行する認識に限定されていない、論証的な認識の反対という意味。 カントが「直観」という時、後者の意味に使っていました。 要するに推論によらない知識を「直観」と言っていました。 そしてカントは感覚を「感性的直観」といい、そして時間・空間を非感性的「純粋直観」と言って直観的に知られると言っていました。 それを批判したのが、パース。彼は言っています 「私たちは直観する能力を持っているかどうかを直観的に判定する能力を持っていない」、と。 また、「私たちは直観と直観以外の認識とを区別することができない」、と。 そしてパースはカントのいう感覚も、時間・空間も、直観によって知られるのではなく、推論によって知られるものだと言っています。 デカルトは「われ思う・コギト」を直観によって知られると言いましたが、パースによればそれも間違い、推論だと言っています。 「直観」という言葉はひじょうに便利な言葉です。 それを私は「知性(理性)で知った」と言えば「なぜ?」と聞かれますが、それを「直観で知った」と言ったら、「直観か、だったらそれ以上追及してもしようがないな」となります。 だから何でも、それを直観で知ったと言えば、人から批判されるのを防止できます。 改めて、お聞きします、「直観と直感の違い、その差って何ですか?」 そして、そもそも「直観」って何ですか?

  • 人間ではないモノは存在するのか

    カテゴリが合っているかはわかりませんが、失礼します。 ずばり、現世には人間外のモノは存在するのでしょうか? 例えば、河童や天狗などの妖怪、一般的には『存在しない』といわれているモノです。 自分はこのようなものに興味があり、存在を信じています。もちろん、超常現象なども信じています。 ですが、見たことが一度もありません。なので、このような形で質問させていただこうと思いました。 現代では、未確認生物(UFOやツチノコなど)、幽霊などが広く知られていますよね。このようなものは見たことがある、信じている、という方がいますが、妖怪などは信じていない方が多いような気がします。 自分的には、幽霊がいるのなら妖怪などがいてもおかしくないと思うのですが、どうでしょうか? そして疑問に思ったことがあります。『神隠し』という言葉がありますよね? 神隠しに遭うと、その人はどこに行ってしまうのでしょうか? 神隠しに遭った場所の付近や、見覚えのない場所、若しくはその他の場所ということになるのでしょうか? 先ほど述べましたが、自分はそういう存在を信じています。見ることが可能ならば、是非見てみたいし、人間のように『心(理性/知性?)』を持っているのであれば、交友関係も築いてみたいです。 このような存在を信じる、見たことがあるという方は他にもいるのでしょうか?自分は可笑しいでしょうか? 少しややこしい質問ですが、自分が知りたいのは、 1、未確認生物や幽霊がいるのであれば、妖怪などもいるのではないか? 2、『神隠し』に遭った人はどうなるのか、又はどこに行ってしまうのか? 3、妖怪、精霊などの存在を信じている人はいるのか、このようなモノを信じている自分は可笑しいのか?そして、交友関係は築くことができるのか? となります。 みなさんの様々なご意見、ご回答をお待ちしています。