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菅原道真の和歌の、文法的な解釈について

kankasouroの回答

回答No.4

 ヤは上代には「はやし言葉」でした。アソレソレみたいな感じですね。そこから感動、詠嘆の助詞へと変化し、やがて反語、疑問の意味が出たとされます。岩波古語辞典におつきになればかんたんに知れます。

Kamonohaji
質問者

お礼

そうですね。すると、「や」は、この歌では、「呼びかけ」とか「感動・詠嘆」の間投助詞から「疑問・反語」の係助詞への過渡期的な姿で、「は」のように主題を取り立てている働きをしている、と考えてよいのでしょうか。

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