• 締切済み

集団と同調について

日本人は空気というか雰囲気を第1に考えて動くような風習があるように思うのですが(もう古いのかも? )、外国では集団というものがないのでしょうか? 一人、一人の性格が個別化する現代社会、集団というものは消えてしまうのでしょうか? それについて私はどう変化していったらいいのでしょうか・・・? 「集団と同調について」を哲学の目線で教えて下さい。よろしくお願いします。 カテ違いでしたらごめんなさい。

みんなの回答

  • MayWind
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.5

日本人が集団に基準を置きやすいのは、単一民族だからという分析があります。多民族の集団では、価値観をまとめるために宗教が発達しています。 現代は、個人主義が行きすぎた時代と言うと、反論される方も多いと思いますが、これにはいくつか理由があります。人間は食べ物や水が十分に得られないような過酷な環境では、集団で協力して生き延びようとしますが、恵まれた環境では、多様性を重視するようになります。つまり個人主義に偏りやすくなるんですね。生物学を学んだ人なら分かると思いますが、厳しい環境では適応を重視し、快適な環境では多様性(将来の環境の変化への対応)を重視するようになります。もう一つは1953年のDNAの発見が大きな影響を与えていると思います。人間の性質を個々の遺伝子に還元して考えていくという発想です。これに対して1990年以降、一般に複雑適応系の理論が浸透してきました。これによって、人間は遺伝子だけでなく(人間の他者を含めた)環境の影響を非常に強く受けていることが認識されます。 これらのことから言えることは、人間は(利己的)遺伝子(=個人)だけによって決まっているのではなく、他者との関係(環境=社会)によっても強く影響されている事です。ですから、個人と集団とはバランスを取って行くべきもので、どちらに偏ってしまうのも間違いと言えるでしょう。 以上を踏まえて、例えば国際政治などを考えた時、21世紀において重要なのは、国連のような国際協調と国家のアイデンティティーの両方であると言われています。世界の統一(個がなくなる)でも、国家主義(個中心)でもなく、コスモポリタニズムとナショナリズムのバランスが重要だと言うことです。 人間が自分の価値観だけでなく、周囲の人の価値観によっても決まると言うことが理解して戴けたら、独立性・独自性と協調性・同調のバランスを取って行かれると良いと思います。

回答No.4

お礼ありがとうございます。 前回の補足を書きます。 「メイクも自分の顔から離れたらきれいだと思っている。」と前回書きました。 あくまでメイクをしたことのない男の視点からの意見ですが、 みんな同じように、眉を剃り、まつ毛を貼り付け、目の周りを黒く塗って同じような顔に仕上がっています。もちろん、一人一人違うのですが…。また、そのメイクを落とした顔を見て男性はギョッとすることもあります。 もっと、自分の顔を活かしたら輝くと思うのですが。もちろん、全ての女性がそうと言うわけではなく、中には魅力を感じる「顔」をした方もいらっしゃいます。個性を潰すメイクでなく、逆に個性を活かしたメイクをすればいいのにと思います。 >なんだかいつも輪から抜けていたと思います。つまり同調するのが苦しかったのです。 僕は、父の仕事の都合上、2年に1度転校してました。なので故郷もないし、幼馴染もいないし、そういう環境で育ったせいか、人間関係も希薄です。毎回友達を作ったり、その学校の流行に合わせたりするのが苦痛でした。振り返ると孤独な思い出がほとんどです。 別に人が恋しいわけではなく、みんな仲良ししていると、そこから抜け出したい衝撃にかられるんです。みんな一緒がいやなんです。 転校するたびにイジメの危機があります。そこではっきりノーと意思表示すればイジメられることはありませんでした。友人関係も恋愛もいつもストレートな僕は、いつも一人で空回りしている感じです。空気は読めますが、それに従うのが嫌で、逆に壊したくなります。 日本だと、何か本当のことを言うのがタブーな気がしてなりません。それよりも、冗談を言い合ってふざけている方が【安全】です。何か、お互い五分五分ぐらいでしか付き合っていない感じがするのです。 お酒の席だとそれがなくなり、なんでも話すのですが、お酒が入っているので記憶があるのかどうか微妙です。(笑) あと、このように匿名だと本音が言えちゃいます。それが本心なのに、いざ人の前に立つと心を閉ざして愛想笑い。そういうのって疲れます。自分がぶれているからそうなるのであって、ストレートに生きていれば、ストレスなんてほとんどなく、気持ちいいですよ。^^v 同調についてですが、同調や調和などという一般常識に疑問を持ちます。日本とアメリカの関係はまさにアメリカに合わせている同調だと思います。依存している関係では、本当の調和はありえない。そうでなく、お互いが自律していて、フェアにぶつかり合うからこそ、調和が保たれるのです。なのに、多くの人はぶつかり合うのを避けます。お互い妥協し合い、堕落して、そういう不明朗さ、ずるさ、倦怠さに腹が立ちます。猛烈にぶつかり合い、その中でお互いに平気でふくらんでいけばいいと思うのです。 岡本太郎の言葉で、「大体、みんな個性的であることをおそれる。そのくせ、ちょっとひねって、自分をいささか生かそうとする。だから、萎縮しながらお互いが殺しあってしまうのだ」とあります。 もしよかったら、この本を読んでみてはいかがでしょう? 「自分の中に毒を持て」岡本太郎 青春文庫467円+税 僕はこの本で、人生変わりました。 この本を読むまで、ひっそりと孤独に、自分の個性を守っていたのですが、この本を読んで「僕と同じだ!」と驚きました。書いてあることが僕の心の中を読み取ったかのように、著者の意志と同じだったのです。まるで知己に出会ったような気分でした。その出会いから、僕は個性を守るのでなく、押し出すことを学びました。 まさに!集団や同調について書いてあります。例えば「日本という国では、オリジナリティーを持つことが許されない。」とか、「あまりにも独自であるということは極めてケシカラヌことであり、恥ずべきことのように扱われる。」とか、その理由を歴史の中から、「あえて独自な表現や不協和な主張をして村の安定秩序を乱すやつは村八分にされ…」という具合に、日本の集団について書いてあります。「誰だって、つい周囲の状況に甘えて生きていくほうが楽だから…」とか他にも恋愛についてとか、とにかく凄いですよ!常識にとらわれていたら理解できないので、覚悟して読んでください。(笑) それではまた!

回答No.3

こんにちは! 僕もこのような疑問に悩みました。^^ 今でも多くの人が個性を潰し、社会に依存していると思いますよ。僕は、個性を潰す社会ではなく、個性の集まりである社会を望みます。 確かに昔に比べて、これほど自由で個性を尊ぶ時代はなかったでしょう。しかし、自由になればなるほど、自律しなければならない。そこには、孤独との闘いがあるし、みんなと一緒の方が楽で安心もできます。現状多くの人が、個性的でありたいと望んでいても、結局、個性を潰す結果になっています。学歴社会もそうだし、メイクやファッションにしてもみんな同じだと思います。ファッションなんて制服と同じでつまらないとジョン・ライドンは言っています。どこにいっても流行。メイクも自分の顔から離れたらきれいだと思っている。サラリーマンなんて、みんな同じ風にしか見えない。個性を失った顔ばかり。全然魅力的じゃない。 日本は、歴史、地理的にそのような状態にあります。日本の歴史は、輸入でなりたっていて、豆腐も洋服も呉服も全部中国や西洋からの輸入品です。日本の古都とされる京都や奈良も、平安時代あたりの、中国からの輸入です。地理的に狭く島国で、長く鎖国をしていたこともあって、今もなお、日本人の意識は世界でなく世間です。常に他人の目を気にしてます。お互いが監視しあっているのです。 人間は、本能的に社会的な存在だと思います。一人暮らしをして、自分のために料理をして、食事をしてみて下さい。何か虚しく感じませんか?その料理を恋人のためや友達のためとなれば楽しく、そしておいしく感じます。 どの仕事にしたって、直接的、間接的に関わらず、必ず人のためにやっています。それが、人間が社会を形成し仕事をする理由だと思います。 なので、個性を重視する社会になっても、社会という形態はなくならないと思います。 人間は、母から産まれ、親なしには生きることもできません。やがて自我が芽生え、一人で遊んでいたのが、友達と遊ぶようになって、社会を意識します。おそらくそこで、自分を知るんだと思います。(他人が存在しなければ自分を認識することができないと思います。) 小学校辺りから社会のルールが明確に存在します。(校則など)そのように集団生活をして、お互いが学び合い、人間関係のあり方や常識を身につけるのだと思います。 そして、思春期。異性を意識するようになって、若者の精神は混沌とします。恋愛を通してそこでまた、他人と出会って自分を確立するように、異性と出会って、そこに自分を発見するのだと実感します。 やがて社会に出て、仕事をして自立していくのですが、そこでまた、強大な社会と個性の自我とのぶつかりがあります。そうやって人間は成長していくのだと思います。 つまり、自分以外の他人と激しくぶつかることによって、個性が成り立つと思います。ですから、山にとじこもり、俗世から離れ、仙人のように孤立して生活することは、孤独では孤立です。自分の狭い世界だけにとじこもり、それが純粋であると錯覚しているのだと思います。僕は逆に、社会に強烈に自分をぶつけていってこそ、自分というものが純粋でありえると思います。 長くなってすみません。書き出すとキリがなくて…。 仕事をするにいたって、我慢しなければならないことがたくさんあります。思ってもいないのに、いらっしゃいませ。謝りたくもないのに、頭を下げたり、尊敬もしてないのに、上司を敬ったり…。そうやって、ストレスをためて自己疎外になっていくのです。誤魔化しあいの社会だと思います。日本は礼儀正しい国と言われますが、心のない礼儀ほど無礼なことはないと思います。その点、海外はさっぱりしていて、コンビニに行っても、店員は携帯で話しながらレジをしたりいたって無愛想です。しかし日本人である僕が、わざと日本語っぽいイントネーションの英語で注文したら爆笑してました。自分に素直だと思います。 「同調について」の解答ですが、 冒頭に書いたように、どちらかといえば、日本は個性を潰す社会*で、海外は個性の集まりの社会だと思います。 本当はもっともっと書きたいのですが、あまりに長いので、また機会があったらよろしくお願いします。 *個性を潰す社会というより、個性を生かさない、認めない社会だと思う。

hallo25
質問者

お礼

お返事どうもありがとうございます≦(._.)≧ >メイクも自分の顔から離れたらきれいだと思っている。 私自身の理解が足りないので、ここの部分をもう少し詳しく教えて頂きたいです。 >日本人の意識は世界でなく世間です。常に他人の目を気にしてます。お互いが監視しあっているのです。 これは私も共感しています。 <小学校辺りから社会のルールが明確に存在します。(校則など)そのように集団生活をして、お互いが学び合い、人間関係のあり方や常識を身につけるのだと思います。そして、思春期。異性を意識するようになって、若者の精神は混沌とします。恋愛を通してそこでまた、他人と出会って自分を確立するように、異性と出会って、そこに自分を発見するのだと実感します。 集団生活に置いて、今考えると 私自身は、学校などで人間関係のあり方を学べませんでした。なんだかいつも輪から抜けていたと思います。つまり同調するのが苦しかったのです。 私事ですみませんでした。 >海外はさっぱりしていて、コンビニに行っても、店員は携帯で話しながらレジをしたりいたって無愛想です。しかし日本人である僕が、わざと日本語っぽいイントネーションの英語で注文したら爆笑してました。自分に素直だと思います。 やはり海外と日本の文化は少し違うみたいなのですね。素直に感情を表に出したり、言葉にしたりする事って素敵な事(表現間違っているかも)なのに日本人はどうしてそういう事がなくなってきているのでしょうね。そうするとストレスが溜まる一方なのに・・。 また、機会があればご意見を伺いたいです。 参考になります。

  • seinzeit
  • ベストアンサー率38% (119/312)
回答No.2

失礼しました。変換ミス訂正します。 これらが何も社会って→これらが何もない社会って 未来の理想系とし→未来の理想系として

  • seinzeit
  • ベストアンサー率38% (119/312)
回答No.1

>外国では集団というものがないのでしょうか ないわけありません。集団の在り方はさまざまに変化するでしょうが、人がたくさんいれば、絶対に集団はできます。たとえば「家族」「会社」「学校」も集団です。これらが何も社会って、ちょっと想像できませんよね。 >一人、一人の性格が個別化する現代社会、集団というものは消えてしまうのでしょうか 上記の通り、まず消えません。ただ、その在り方が変化するだけです。 哲学ではなく社会学になってしまいますが、たとえば…テンニースという人によると、近代化によって集団のあり方はゲマインシャフト(自然に発生して感情的に繋がった集団)からゲゼルシャフト(契約などで発生した理性的な集団)へと移行してきたとされています。 http://www.mirai-city.org/data/sociology.html テンニースによると、未来の理想系とし「ゲノッセンシャフト」という集団が挙げられています。個が確立されたからこそ、互いに尊重しあって生活できるような新しい共同体のことです。可能かどうかは別として、一つの目標としてこのような集団を創る努力はやってみても無駄ではないと思います。

hallo25
質問者

お礼

お返事どうもありがとうございます≦(._.)≧ >哲学ではなく社会学になってしまいますが、たとえば…テンニースという人によると、・・・・ よく考えれば社会学でしたね^^; 哲学は難しい所ですね・・。 >個が確立されたからこそ、互いに尊重しあって生活できるような新しい共同体のことです。可能かどうかは別として、一つの目標としてこのような集団を創る努力はやってみても無駄ではないと思います。 暖かいアドバイスありがとうございます。 でも、言葉を返すと、日本人の考え方(特に古い世代の方)は未だ古い考えをお持ちで、個を確立する事に対して拒絶すると思います。その考えが若者との考えの違いで反感を買ったり買われたりする事になると思います(特に女性に関して)。

hallo25
質問者

補足

URLの所はまた改めてじっくり読ませて頂きたいと思います。

関連するQ&A

  • 個別指導か、集団塾か・・・

    今、個別指導の塾に通っている、高1です。(今年から高1)中3から塾に通っているのですが、集団塾に変えようかと思っています。個別指導だと、分かるまで教えてもらえますが、大学は国公立大学に受かりたいし、ライバルがいる方が、私は負けず嫌いな性格なので、いいのかなぁと思っています。でも、今まで集団塾に通った事がないので、どうゆう感じなのか教えてほしいです。あと、今、代々木ゼミナールという塾を考えています。通った方がいたら雰囲気とか教えてほしいです。

  • 集団でのコミュニケーションについて

    表題の通り、集団でのコミュニケーション(職場の飲み会を想定ください)について質問させていただきます。御意見・アドバイスいただければ幸いです。 質問内容は、「飲み会でのトークや立ち振る舞いで、人の価値の大部分を判断する人がいる」ことについてです。つまるところ、私は飲み会でのトークが苦手なのですが。 それに付随し、「飲み会で人の何が分かるか?また、何が分からないか?」です。 思いつく内容としては、 分かること ・空気を読む力(瞬間的な人心把握力) ・トークの幅(発想力、独創性) ・興味 ・性格 分からないこと ・専門性の深さ ・業務スキル(プロジェクト推進力等) 人間である以上、集団統率力(現代風だと空気が読める力)は重要な素養とは思います。ただ、それが全てでないと思っている以上、こういった人をいまいち理解しきれません。よろしくお願い致します。

  • 集団や組織で動くのが苦手でもできる仕事はありますか?

    集団や組織で動くのが苦手でもできる仕事はありますか? 私は、集団や組織で動くのが非常に苦手です。 高校もなじめずほとんど行かず、それでも大学に進学したものの、 最初につまずいてしまい、ほとんど一人で授業を受けたりしていました。 (気の合う友達はいました) 社会にでてからも、組織になじめず会議等が苦痛の上、ずっと一人だけ 浮いた存在として見られ、組織特有の同調圧力に神経をすり減らして、 精神病にもなりかけました。 宴会の類も気疲れする上、個人的には何が楽しいのかがわかりませんし、 それだったら周りに迷惑もかけるだけなので、極力参加しないようにしています。 こういう言い方をしますと、我ままであるとか、我慢は誰でもしているから 当たり前だといったご意見もあるかと思いますが、それも重々承知致しております。 また、集団が苦手といいましても、決して「人間嫌い」というわけではなく、 どちらかというと人と接してお話をしたり、さしで飲みながら真面目な討論したり するのは好きな方で、二人などの少人数でしたら大丈夫なのですが、 なぜかはわかりませんが同じ人でも人数が増えると途端に辛くなります。 また、集団行動が苦手な人の書き込みを読みますと、空気が読めない、思いやりが足らない等のコメントがございますが、自分では逆に周りの空気を考えて考えて言葉を選んで 慎重に発言をするようにしています。それがかえって周りからは、 バリアを張っていると言われ、あまりよく思われない場合が多くあります。 マイペースでそっとしておいてほしいところを、 (その方が、自分的にも生産性があがるし、集中できます。責任感はある方なので、 任された仕事はやります。) 盲目的に足並みをそろえてくださいなどと言われるのが、 本当に苦痛でしかも精神的に疲弊してしまいます。 そこで、自分の生き方を真剣に考えまして、 このような組織や集団ではなく、なるべく一人、もしくは少人数で完結できるような 職業はないものかと考えております。 もともと物を作ったり絵を描いたり、一人で黙々と対象に向き合うことは好きで、 ひとりでできる物つくり等の職業は考えております。 わがままであることは承知の上、みなさんにアドバイス等をいただきたく 書き込みをさせていただきました。 些細なコメントでも結構ですので、何かいただけましたら、幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 集団で浮いてしまう…

    テンションの高い友達同士で集まっても自分だけ無言になってしまうんです…。 周りの友達は、空気を読みつつ、会話をとぎらせないように(自然に)場を盛り上げようと面白い話をしてくれているのですが、私だけ何も喋ることが思いつかずただ相槌を打って笑っているだけで、完全に浮いています。 たまに何か喋ったとしても会話をとぎれさせて場を凍らせてしまったり、全然見当違いのスベった発言をしたりで…泣 せっかく話を振ってくれても、私が間違った反応をしたり面白くない反応だったようでシラけてしまいます… 私変わってるんです… 1年くらい一緒にいるのに、緊張しているというか…地に足がついていないかんじです… 遊んで帰ってからは、「あんなこと言ってしまった」という反省や楽しくなかったなーという気持ちで終わり、つらいです… しかし学校の友達とは普通に楽しく明るくしゃべれるし、居心地がいいのです。 たぶん性格的に合っているんだと思います。みんなそこまでテンションが高いとゆうわけではなく、わりとまったりと…でも盛り上がる時は盛り上がる…そんなかんじの雰囲気です。 リラックスして喋れます。 …と書きましたが、この場合は少し特殊かもしれません。 基本的に私は集団からは浮く方だと思っています。自分はみんなとは何か違うなと感じます。 前者と後者で違いが出るのは性格が合わないだからだと思います。ですが前者の友達もみんな私に優しくしてくれるし、誘ってくれるし、輪から離れたくはないんです…。 だからこそ私もみんなと盛り上がって話したいんです。 誰とでも打ち解けられるわけではない、不器用な自分が嫌いです。こんなことで社会人になってからやっていけるのか不安です…。 こんな私はどうすればいいのでしょうか… 私と似たような境遇の方、誰とでも盛り上がれる方…その他どなたでも結構です。 上手な話のしかた、テンションの上げ方、笑いのセンス、などなんでもいいです。 何かアドバイスや思ったことを教えていただけると嬉しいです。 文章がまとまっていないですが……すみません

  • 楽しむことが出来ない

    ディズニーランドのような遊園地とか花火大会とかみんなでワイワイするイベントが何一つ楽しくありません。 それらに同行することがとても苦痛です。 全てのことを一歩下がって冷めた目線で見てしまいます。感情的になることが苦手で合理的じゃない物や、間違った物を見ると正したいと強く思ってしまいます。殆んどは 空気を乱すので心にとどめますが。 周りに馴染むことが出来ずとても辛いです。一人は好きですが、時々とても寂しくなります。感情を表に出してみんなと同調出来る人が羨ましいです。 只今学生なのですが、自分はこれから社会で生きていけるのでしょうか? このような性格は変えることが出来るのでしょうか。

  • 集団で愚痴を言われている

    ご質問が長文になったり乱文になる箇所がありますがどうかご回答お願いします。 参考までに年齢は12歳です。 A型です。 今とても困っていることがあります 4人程度の集団で僕に向けて愚痴を言っていると友達に言われました。 その報告してくれた友達も、3人程度の集団の友達なのですがどちらの味方なのかわかりません。 僕は昔から「女っぽい」と女子に言われ、いたって普通小学生なのですが 今の状況では男の友達より女の友達の方が多いような気がします。 女の方が友達と思っているか分かりませんが、そんな気がします。 では、本題に入ります。  4人程度の集団で愚痴を言われて、最初は2人程度だったのですが、仲が良かった友達に  ちょっと遊びのつもりで「ドS」な事をしてしまいました(僕の友達と一緒に)  ここまでなら「ごめん」でいいのですが  仲が良かった友達が僕の友達を「体育の時間にメンバーから省き」その子だけ1人になってしまい  大変、かわいそうでした。  なんで省いたのかとS君に聞いてみたら「R君に騙された」と言っていて  「なんでR君に騙されたの?」と聞いてみたら、「R君がその子(名前を記載しません)の事が嫌いだ から」と言っていて。  その日は、僕とその友達でいらいらしていました。  そしてクラスへ戻ったとき、さっき聞いたS君が「なんでさっき怒ってたの?」と聞かれ  口には出しませんでしたが「こっちが怒ってる意味わかんないの?」と思いました。  でもそんな事は言わずに「さぁ~」と言って受け流しました。  その次の日からS君と仲が悪くなり、4人の集団で僕の事を「きらいだ」とか愚痴を言ってきます。  そして、こっちも友達と一緒に愚痴を言っています。  S君に使い分けられてる感じがしてストレスがたまります。  このままでは友達がいなくなってしまうかもしれませんよね? そして、その僕と一緒に愚痴をつぶやいていた友達も、その4人の集団と遊んでいます。 更に僕がいらついたのは僕の事を「あきた」と言われてしまいました。 最高にいらついたのでその4人集団の近くに行き「ていうかさ、友達も大切にできなくてそれにあきたとか言うのって最低だよね~」と周りに言ってるかのように言いました。 僕も人のこといえないのですが、友達のことを「あきた」なんていうのは信じられません! 4人集団は S君が「O型」 です OとOて相性が合うんですかね? 考えれば考えるほどストレスがたまるのでここらへんにしたいと思います。 僕は、なるべくS君としゃべりたという雰囲気を出しましたが 全然受け入れてくれないどころか、僕の向いている方向と逆の方向に向き始めて 「あぁ~このパターンは・・・」と思い、気まずい関係になりました。 長文・乱文になってしまいましたがご回答をお願いします!   <まとめ>  4人の集団で愚痴を言われてこっちも愚痴を言ってるのだがこれでいいのか?  S君に使い分けられて困っている。  僕のことを完全に無視する  僕の友達を伝言板代わりにする  S君は人を小ばかにしたり、冗談が通じないのはいいのですが、陰口が非常に多い  S君はいつもしゃべっている友達のことを影で愚痴っている。   <対処方法>  現在は、ほっといてます。  皆さんはこのばあいどうすればいいと思いますか?   <どう思いますか? 対処方法・思うことも是非投稿お願いします。 ご参考にさせてもらいます。  

  • 集団ランチを断るには?

    派遣経歴通算6年目、中短期中心の事務職派遣スタッフです。 これまで、こんなことで悩むことはなかったのですが…現在の就業先で困ったことになったため、相談させてもらいます。 ずばり、就業先の方(社員さん&派遣さん)からの会議室ランチ(集団ランチ)のお誘いを断る、絶妙なコトバはないでしょうか? たまに外食に誘われるとか、相手が一人二人ならいいのですが、会議室などに皆で集まって取り留めなく会話しながら食べる、というのが性格的に完全にNGです。誘われない為には、さっさと外食に出てしまえばいいと友人には言われましたが、金銭的にそれはきついので…自分の机で食べる市民権を是非得たいです! 今の会社では、お昼を一緒に食べないだけで、非常にオフィスの空気がギクシャクしていてびっくりです(女性は役職以外、部署も関係なく全員が一緒に食べているのも初めて見ました)。今までの就業先ではお昼を一緒に食べようが食べまいが、仲良くお仕事して終業後お茶したりとかもしていたのに… こんなことは今までになく、ただびっくりしていましたが…次の就業先のためにも、是非、円満にひとりランチする方法を会得したいです。 ご意見はいろいろあるかと思いますが、皆で食べるのも楽しいですよとかそういうのではなく、どうぞ、円満にお断りできるようなコトバや方法はないかとお願いしたく思います。 ひとりランチをされてる皆様の体験談やご回答をお聞きできれば嬉しいです。

  • 集団的過剰同調とは??

    集団的過剰同調とは、どういう意味ですか??

  • 《日本人は集団主義的》という通説は誤り!?

     次のような研究成果が明らかにされています。  明証にもとづくご見解・ご議論をさらに広い視野から得られればさいわいに思います。  ▲ 「日本人は集団主義的」という通説は誤り   http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html      ・高野陽太郎:『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』 2008  §1 心理学的研究  「世界で最も個人主義的だ」と言われてきたアメリカ人と、「世界で最も集団主義的だ」と言われてきた日本人を比較した研究を集めた。  ・集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。  ・自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」に関する実験研究が(高野自身の研究も含めて)5件。  ・自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。  これら計22件の研究の結果をみると  ・通説に反して、「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、  ・通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。   ・一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。  § 2 言語学的研究   日本人論は、日本語の特性に注目して、「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」と主張してきた。  これに対して、2人の言語学者(筑波大学の廣瀬幸生教授、カリフォルニア大学の長谷川葉子教授)による共同研究は、日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした。  たとえば、「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。たとえば、「母は寒い」とは言えない。  日本語は、内集団の中でも自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。  §3 教育学的研究   学校での「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多かった。  ところが、近年の実証的な研究を通覧したところ、アメリカでも「いじめ」は発生しており、発生率も日本より低いとは言えないことが明らかになった。学校での発砲事件も、「いじめ」への報復として起きたケースが多いのではないかと推定されている。  「いじめ」が原因となる自殺も、欧米諸国の多くで報告されている。したがって、日本の学校での「いじめ」は、「日本人の集団主義」の証拠と見なすことはできないことになる。  §4 経済学的研究   経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。   しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。  ・小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。  ・三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。  ・「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。  ・また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。   §5 エピソード   日本人論は、個別のエピソードを主な論拠としてきた。  そこで、エピソードは日本人論の通説を支持しているのかどうかを検討するために、新聞や雑誌に掲載された集団主義・個人主義に関連するエピソードを調べた。その結果、「集団主義的な日本人」という通説に一致するエピソードと同様に、「個人主義的な日本人」や「集団主義的なアメリカ人」を表すエピソードも多数見つかることがわかった。  このことは、エピソードについても、公平に調べてみれば、日米間にはっきりとした違いは見られないことを物語っている。  日本人論において通説に合致したエピソードばかりが取り上げられてきた理由は、自説に合致した事実ばかりに注意が向く「確証バイアス」という思考のバイアスではないかと推定される。  §6 過去の日本人   日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができたのである。  たとえば、生徒が学校側と対決する「学校紛擾(ふんじょう)」と呼ばれる事件。明治初期に西洋式の学制が定まるのとほぼ時を同じくして発生し、ある教育雑誌には、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されている。こうした事件は、「和を尊重するタテ社会的な集団主義」という従来のイメージとは全く相容れないものである。  §7 オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説   欧米人、とくにアメリカ人は、自らを形容するために、ポジティヴな意味で「個人主義」というレッテルを使うことが多い。異文化に属する日本人に出遭ったとき、その「個人主義」の対極にある「集団主義」というネガティヴなレッテルを天下り的に貼りつけたのではないかと推定される。すなわち、「日本人 = 集団主義」説は、オリエンタリズムの一種として成立したと考えることができる。  §8 「日本人 = 集団主義」説が広まった理由   この通説は、戦後間もない時期に出版された、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』によって世間に広まったと言われている。この時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、戦時中に日本人がとった、見まがいようのない集団主義的な行動を脳裡に甦らせ、この主張に頷いたのであろう。   しかし、歴史的な状況をみると、昭和初期から第二次世界大戦終結までの時期、日本人は強大な外敵の脅威にさらされていた。外部からの脅威に対抗するために、団結を強めて集団主義的に行動しようとする傾向は、日本人にかぎらず、人間集団に見られる一般的な傾向である。「世界で最も個人主義的」と言われてきたアメリカ人もその例外ではない。第二次世界大戦中の言論統制や敵国からの移民の強制収容、冷戦下の赤狩りといった歴史的事実がそれを物語っている。  §9 ステレオタイプ文化論  しかし、ステレオタイプ的な文化論の危険性は、日米間だけにとどまるものではない。グローバル化が進展する現代の世界では、異なる文化が接触する機会は飛躍的に増大している。それとともに、異なる文化(たとえば、欧米文化にとっての「イスラム」)を異質化する文化ステレオタイプの危険性も増大していると考えなければならない。  文化ステレオタイプについて認識を深めることは、現代の世界にとって重要な課題であると思われる。  今回の研究は、集団主義・個人主義の日米比較という具体的な事例の分析を通じて、「文化差」の認識に潜在するさまざまな歪みとその危険性を明らかにする結果になった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 家族のように集団としてあることが自然本性そのままのすがたである場合や  (い) 事業をおこなうとき人びとの知恵とチカラをあつめまとめてそのように《集団志向》――言いかえると 《分業かつ同時に協業》なる形態――において行動する場合や  (う) あるいは単純に野球のようにチームプレイをふつうとするならやはり集団志向になる場合が考えられます。果たしてそのとき 個人はそこに埋没してしまうのでしょうか?  (え) あるいは逆に戦時社会にあっては 集団主義をすでに超えて統一的かつ統制的な全体主義となりますが その事例も 別に日本人ひとりの特徴だとは考えられないということもあります。  日本人とその社会が 《集団志向》を持ち得るのとは別に 《集団主義》であると見るのは まったくの偏見ではないだろうか? ご教示ください。

  • 一人っ子の、性格についてです。

    一人っ子の、性格についてです。 初めまして! 最近、一人っ子にあまり良いイメージを持ってない人が多くいることを、ネットで知りました。 私は、一人っ子です。 私は、小学校や中学校のとき、対人関係がうまくいかないことがありました。 今は気をつけてますが、 昔は、自分の価値観を人に押し付けたり、説得したりしました。 また、好かれてる子に嫉妬して、あら探しをしました。 あと、バカをやったり、ボケたりして、注目されようとしました。(人気のある子が天然系だったので) 私も天然になりたくて、自分には無理のある、偽りのキャラになろうとしました。 空気を読まないでボケたり、笑って誤魔化そうとしたりしました。 他にも、負けず嫌いだったり、人を上から目線でみたりしました。 一人で出来ることは一人でやります。 ほんと最悪でした。 友達からは、しっかりしてるとか、明るいと言われます。 勉強が出来るように見えるそうです。 あと、中学の時に通ってた塾は、個別指導でした。 勉強が苦手だったので、比較されたくない、順位を付けられたくないという思いがありました。 今でも変わっていないのですが、 親には、かっこ悪い所は見せたくありません。 授業参観などは、見に来てほしくありませんでした。 こんな性格は一人っ子というのも関係しているのでしょうか。 一人っ子の方が皆こんな性格だとは思っていません。 気を悪くされたら、すみません。 本気で悩んでます。 兄弟のいる方、兄弟がいるなかで学んだことなどあったら教えて下さい。 一人っ子の方の意見も待ってます。 長々と失礼しました(^_^;)