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銀閣(慈照寺)の庭を造ったのは善阿弥か?
ほとんどの文献や銀閣を紹介したホームページの情報では銀閣の庭を造ったのは当時被差別の民衆であった河原者の「善阿弥」であるという記述が載っています。しかし,京都部落問題研究所のHPのコンテンツの中に,「銀閣寺も河原者によって作られたという確たる証拠はなく,善阿弥という庭造りで名を成した河原者を重用した足利義政が,善阿弥の死後,銀閣寺(東山山荘)を造営し,庭木の選定や収集に河原者を使っていたので,ひょっとすると庭のコーディネイト全体を河原者にまかせたのではないかとの推測はなりたつが,史料上確たる証拠はない。」とありました。善阿弥の死後に作られたのなら,庭を造ったのは善阿弥という定説は覆るわけですが,孫の又四郎が携わったという話も聞いたことありますし,実際はどうなのでしょうか?
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史料から確実に言えるのは (1)善阿弥というおそらく河原者であると思われる庭造りの名人がいた。 (2)足利義政は善阿弥を重用していた。 (3)そのほかにも善政は庭造りに河原者を用いることが多かった。 (4)善阿弥は銀閣寺の着工直後に亡くなった。 ということです。以上の四点をできるだけ矛盾なく組みあわせた上で、可能な限り合理的で飛躍のない推論を加えてゆくほかないわけですが、その「可能な限り合理的で飛躍のない推論」が人さまざまなので諸説があるわけです。 そもそも銀閣寺造営にあたって義政が善阿弥を起用していたかどうかが不明であり(もしかしたら起用されなかったかもしれない)、しかも着工直後に善阿弥が没したとなれば、善阿弥が直接銀閣寺の造園にかかわった、あるいは影響を及ぼした可能性は極めてひくいといわざるを得ません。それ以降のことについては所詮想像しかなりたちえないというほかはないでしょう。もし善阿弥が銀閣寺に起用されていなければ、息子が遺志をついで……というのもありえない話になります。
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- junt
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室町時代の庭は、『庭者』『山水河原者』と呼ばれる人々が造園の主体となった。当時の日記類に登場する者のうち最も有名なのが義政に寵愛された善阿弥であり、将軍家の同朋衆として奈良大乗院、相国事蔭涼軒、慈照寺などの作庭に従事した。善阿弥は泉石の名手と謳われ『蔭涼軒日録』の筆者は『善阿弥築くところ、其遠近峯カン、尤も奇絶たる也、これに対するに飽かず、忽然として帰路を忘る也』と記している。善阿弥は、義政が東山山荘(銀閣)の造営に着手してから5ヶ月後に97歳の高齢で没している。子の小四郎や又四郎らが父祖の意を汲んで完成したのが今にみる慈照寺(銀閣)の庭である。 平凡社 『別冊 太陽18 京都』より
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回答ありがとうございます。なるほど。5ヶで月没しているのですか…そうなると庭の作成に携わったという説は信憑性にかけるということでしょうか?
お礼
ありがとうございます。あくまでも推論の域ということですね。でも多くの紹介文等では作者は「善阿弥」となっている場合が多いですね。