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苦行僧という言葉がありますが、仏教僧も?

苦行僧という言葉がありますが、仏教僧もキリスト教の聖職者も、苦行っぽいことを自らに課しているケースが多くないですか? でも現代人風に考えれば、楽しく生きてもいい、むしろ「楽しく生きる」ことは「良い人生」の条件の1つじゃないですか? 「楽しく生きるべし」みたいなことを、ブッダもキリストも、なんで正面切って言ってくれなかったんでしょう?あるいはどこかでそういうことを、言ってますかね?

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.2

以下のとおりお答えします。 >苦行僧という言葉がありますが、仏教僧もキリスト教の聖職者も、苦行っぽいことを自らに課しているケースが多くないですか? ⇒はい、多いです。滝行、座禅、修道院での自給自足なども、みな苦行の変形でしょう。 >でも現代人風に考えれば、楽しく生きてもいい、むしろ「楽しく生きる」ことは「良い人生」の条件の1つじゃないですか? ⇒そうですね。そのことにいち早く気づき、主張した唯一の学者がニーチェだったと思います。彼はキリスト教を「死の宗教」と呼んで批判し、排撃しました。 >「楽しく生きるべし」みたいなことを、ブッダもキリストも、なんで正面切って言ってくれなかったんでしょう?あるいはどこかでそういうことを、言ってますかね? ⇒昔は生きられる保証がなかった。生きられても常に苦しかった*。だから、多くの宗教が生きることに執着しないで済む方法を考えた。あるいは、死後の喜びに期待を持たせるような教えを編み出したのだと思います。 *中世ヨーロッパでは、今日の城主が一夜明けたら奴隷の身分に蹴落とされていたなどという不幸が日常茶飯でした。日本の戦国時代もそれと似たり寄ったりですね。また、江戸から昭和の初期にかけてあった「姥捨て」の因習は、働けなくなった老人を排除する儀式でした。働けない人を養えるほどの余裕がなかったわけです。欧米の「魔女裁判」などもこれと似た側面があったそうです。 被害を受けたのは老人だけではありません。木彫り人形のコケシは「子消し」と関係がある呼び名だという説があります。昔は中絶する技術はありませんでしたから、妊娠するとみな生まざるを得ませんでした。それで、生まれた赤子の口を塞ぐなどして、葬り去ったのです。コケシは、せめてその子の形見だったといわけです。もう少し良心があると、水子地蔵などを供えたんですね。 話はこれで終わりません。上で「葬り去った」と言いました。どこに葬ったと思いますか? お墓? いいえ、畑のうねです。肥料にしたのです! それほどに、生きるのが大変だったということです。そう考えると、確かに、「楽しく生きよう」というような余裕も発想も出てこないわけが分かるような気もしますね。

rameznaam
質問者

お礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

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その他の回答 (3)

回答No.4

a) 仏陀は、苦行しないように教えていたと思いますが。 b) 宗教は大抵、世俗の快楽主義の対極に位置するものと言えるでしょうから、楽しく生きよというような教えは、普通、宗教には無いでしょう。楽しく生きるのが一番得意なのは、宗教にほとんど関心の無い世俗人たちでしょう。 c) 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(ヨハネの手紙 一 2章)

回答No.3

 楽しく生きられる人には、宗教は要らないかもしれません。どちらかというと、本当は楽しくないけど、周りに合わせて楽しく装っている人に、「本当にそれでいいんですか?」と宗教が問う時に、問題である自分の苦痛と向き合いなさい、そうすれば本当の自分が開けますよ。ということかもしれません。  自分の苦痛と向き合う事を多々させられています、ここでキレている職場問題でも。

  • jack-a3
  • ベストアンサー率38% (305/800)
回答No.1

その宗教が目指す生き方が「楽しく生きる」じゃないからじゃないですか? キリスト教はどちらかというと「清く正しく生きる」が目指すものですし、仏教(原始仏教)に至っては「この世を生きる苦行からの解脱」を目指してます。

rameznaam
質問者

補足

だからなんで「楽しく生きる」方を目指さなかったんでしょう?

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