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北条得宗家と執権職について
rczdの回答
5代目執権北条時頼のとき、康元元年(1256)に初めて得宗でない執権、北条(赤橋)長時が誕生しました。 時頼は二十歳にして寛元四年(1246)に執権に就任し、就任早々前将軍の九条頼経らの陰謀を退け、翌年の宝治合戦で三浦泰村らを滅ぼしました。この結果、執権(=得宗)の権力が更に強まったものと思われます。 時頼は三十歳の康元元年に執権職を辞し、長時に職を譲りました。政権争いから約十年経過し、政権内外から時頼の実力を認められ、執権であろうが無かろうが、その権力を発揮できる状況を作り出したものと思われます。 では、なぜ時頼が執権職を辞したか。ここからは全くの推測ですが、それ以前・以後の天皇家も似たような状態ですが、公式の役職に就いている限り、儀式なり決まり事なり、やたら煩わしい状態であったのではないかと思います。それより自由の身で権力を専断する事ができるのであれば、それに越したことはありません。 これ以降、執権と得宗(北条家嫡流=最高権力者)が分離していきました。執権は元々政所別当の中の実力者という意味合いであったようですが、時頼の頃には裁判機能を担う役職に変質していったようです。
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どうも有難うございました。 「執権=裁判(司法)機能」ですか。なるほど。 ということは、鎌倉末期に得宗家が再び執権職になったのは、気ままな立場でいる余裕がなくなった、という感じですかね。