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北条得宗家と執権職について

hanakotyanの回答

回答No.5

こんにちは。 鎌倉幕府の得宗が執権職に付かなかったのは、得宗の年齢が若かった事と北条氏の権力志向が原因だと思います。 時頼は病で執権職を継続不可であった上、嫡男時宗は当時5歳位でした。 つなぎで長時が執権になりましたが、早くに死去・・老齢の政村が時宗成人までのつなぎ・・・ ようやく時宗が執権となりました。短い間一生懸命政治をがんばりますが、若い年齢で死んでしまいます。 その子貞時は13歳で執権職に付きました。それは平頼綱という実力者がいたから若くして成ることが出来たのです。その後平頼綱は貞時に殺されます・・・。 その子供の高時にいたっても、幼年でつなぎが入りました。 時頼の権力が強かった事はほとんどの人が認める事ですが、貞時も引付衆を廃止して絶大な権力を持っていました。 2人とも北条氏以外のパートナーを持っていなかった事、北条氏以外を除外していた傾向があったのでしょう。身内に頼らざるを得ない状況だったのでは無いかという印象を持ちました。 時宗が名君として評価されているのは、北条氏以外にもパートナーをきちんと持って政治を行っていたからなのかもしれませんね。

nyanny
質問者

お礼

ありがとうございました。 側近の実力者の有無は、主君の政治生命に係わります。しかし、どうも北条氏の権力基盤がよくわからない。有力な分家(北条氏)が多かったのでしょうか。 ということは、ある程度それら分家に「餌」を与える必要があり、それが貴殿の言われるパートナーにとっての「執権」という一つのステイタスではなかったのか? という気がします。

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