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少数意見か、多数意見か

物事に対してはいつも、多数意見とその反対となる少数意見があると思いますが、だいたいは多数の意見のほうが正しいのでしょうか? それとも、実は少数意見のほうが本当のことを言ってるのでしょうか? どちらだと思われますか?

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12101)
回答No.7

再度の「質問者からのお礼」をありがとうございます。 >今になって直近の世界大戦の日本のことを考えると、少数意見のほうが合ってたような気がします。少数意見の中の真実を葬るという行為が、とても危険なような気がするのです。 ⇒同感です。 現実では、トラシュマコスが言ったように「時の権力者が正義の何たるかを決める」ことや、カーライルが言ったように「8対2の多数をもって議を決する」のが通常の実態ですね。まあ、普段はそれを認めるのもやぶさかではありませんが、時には、命を賭しても主張すべきこともあると思います。ただ、実際に「命」の問題になると、降りざるを得ない状況を迫られるのでしょうね。それでも、最大限、「自由からの逃亡」(E・フロム)は避けたいものです。そういう考えの人が大勢いたら、直近の世界大戦は変わっていたのかも知れませんね。

nyaran-8
質問者

お礼

いつもご回答ありがとうございます。 確かに「命」の問題になってくると、屈せざるをえません。 うまく立ち回って生きるというのも有りだと思います。それでも屈せず自分の意見を通すという勇気は、私は持ってないです。 >そういう考えの人が大勢いたら、直近の世界大戦は変わっていたのかも知れませんね。 これについては、私もそう思います。

その他の回答 (6)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.6

それは「正義は本当に正しいのか」という話にもなると思います。 例えばウクライナ戦争で、ロシアが悪でその「悪の帝国」と戦うウクライナは「正義の軍隊」だとするのはすごーく話が理解しやすいじゃないですか。で、正義を助けろ悪をやっつけろでウクライナにどんどん武器を与えて、でもロシア人だってみんな嫌なやつというわけじゃなくて、命令だから戦ってるって兵士も一杯いるわけで、そういう人たちをどんどん殺すのは「悪の味方をしているんだから殺されてもしょうがない」と片付けていいものなのか、そしてそうやって正義を支援していてもウクライナ人も沢山死んで、家や財産や家族を失う人たちが大勢出てきて、それを「正義を守るための仕方がない犠牲」で片付けちゃっていいのかというのがありますね。 ただ、いつも必ずではないですが、全体としては概ね多数意見のほうが正しいことが多いのだと思います。だからこそ民主主義は多数決システムになっていて、今の政治体制では民主主義国家のほうが国民の生活が豊かな国が多いですね。 ただアフガニスタンのような、民主主義国家が上手く回るための基礎ができていない国にいきなり民主主義を行ってもただただ混乱するばかり、というのはありますね。 ミャンマーも政治経済的には軍事政権のほうが安定しているという一面があります。スーチーさんの民主政権は腐敗もまた酷かったというのは事実でもありますから(なんでもかんでも賄賂を要求されてたみたいです)。

nyaran-8
質問者

お礼

>いつも必ずではないですが、全体としては概ね多数意見のほうが正しいことが多いのだと思います。だからこそ民主主義は多数決システムになっていて、今の政治体制では民主主義国家のほうが国民の生活が豊かな国が多いですね。 言われてみればそうですね。 私は今、あることに関し少数意見派にいますが、観念して多数派に入るべきですかねえ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12101)
回答No.5

「質問者からのお礼」をありがとうございました。 >私はあることに関し、少数派の言い分が理にかなっていると意見したところ、それは間違っていると多数派の人たちが押し寄せました。 多数派はものすごい圧力で、聞く耳を持たず押し寄せました。自分たちの考えには一点の間違いもないという感じでした。 それを聞いていると、だんだん自分が間違っているのかと思えてきたところでしたので、質問いたしました。 ⇒そうでしたか! いや、それは立派ですね。それに比べて、私は残念なことこの上ない記憶があります。実は、だいぶ昔ですが、ある重要な会議で私一人が大劣勢の少数意見を主張していて、ほぼ全員が「敵」でした。しばらく紆余曲折がありましたが、とうとうある時、気おくれし、矢折れ力尽きて、大勢の軍門に下ったのでした。 当の多数意見は、ある一人の女性の失態を咎め、厳しく責任を追及するというのが主旨で、その話が俎上に乗ると皆が決まって彼女を被告人・罪人扱いするような雰囲気が続いたのです。とうとう、ある時彼女は、そのことを苦にするあまり、自らの命を絶ってしまいました。それを知って私は、慙愧の涙とともに、なぜあの時自分を投げ出して、辞職も辞さないくらいの決意をもって、自説を主張しなかったのかと残念でなりませんでした。 それ以来私は、多数決主義や同調圧力の横暴、大樹のかげに寄る・勝ち馬に乗る風潮、ダブルスタンダード・付和雷同する心的態度などに疑いの念を抱くようになりました。そして、遅れ馳せながらも、数に物を言わせて異分子・マイノリティ・少数意見を無視する傾向を強く自戒するようになりました。

nyaran-8
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 そうだったんですね・・・ しかし現実問題、少数が多数に勝つのは難しい話ですよね。 私も同じ立場なら、同じことをしていたと思いますよ。 ただ今になって直近の世界大戦の日本のことを考えると、少数意見のほうが合ってたような気がします。少数意見の中の真実を葬るという行為が、とても危険なような気がするのです。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.4

その「自分で見極めて!」 二極化とは限りませんよ どっちも不正解な場合もありますし。

nyaran-8
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 そうなんですけど、多数意見に勢いがありどっちが正しいのか判断しかねてます。 おっしゃるようにもちろん、両方不正解はありますね。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12101)
回答No.3

以下のとおりお答えします。 >物事に対してはいつも、多数意見とその反対となる少数意見があると思いますが、だいたいは多数の意見のほうが正しいのでしょうか? それとも、実は少数意見のほうが本当のことを言ってるのでしょうか? どちらだと思われますか? ⇒その昔、ある先哲はこう言いました。 「8対2の多数をもって議を決すべきか。(いや違う)愚者は多数派の中にこそ多いのだ」と。なるほど、うべなるかな、というところがあるように思います。そういえば、頑張って少数意見を張るのはしんどいことでしょうね。白い目で見られたり、睨まれたり、ときには迫害されたりするという身の危険を感じながらも、それを押して、信念に基づいての発言でしょうから。すごく分かる気がします。 何でも多数意見をもって決めるのが民主主義の根本理念とされますが、ある意味、それがかえって民主主義の欠点であったり、盲点であったりということが言えるかも知れませんね。それを手玉にとって悪用する者が出てきやすい構造だからでしょう。事実、ポリュビオスという古代ギリシャの哲学者は、「政体循環論」の中で《民主制の後には一員制(独裁制)がやってくる》と言っています。うべなるかな、雄弁と派手なパフォーマンスで成り上がって独裁者(的な政治家や指導者)がよくいますよね。 明治の「万機公論に決すべし」(五か条の誓文)は、「十分に議論を尽くして」というのがその真意だったと考えます。現代でもその精神は変わらないはずで、特に重大な議題ほど、多数意見も少数意見も含め、喧々諤々議論を尽くして、決められることを願いたいものです。

nyaran-8
質問者

お礼

私はあることに関し、少数派の言い分が理にかなっていると意見したところ、それは間違っていると多数派の人たちが押し寄せました。 多数派はものすごい圧力で、聞く耳を持たず押し寄せました。自分たちの考えには一点の間違いもないという感じでした。 それを聞いていると、だんだん自分が間違っているのかと思えてきたところでしたので、質問いたしました。 実に奥の深いお話ありがとうございます。

回答No.2

物事の【正しい】は多数派や強い方(勝った方)が正しい事になります。 戦争や抑止力などは、多数派より専門家の意見を尊重した方が上手くいくや正しい事が多いです。

nyaran-8
質問者

お礼

そうですね。戦争や抑止力でいくと少数意見が合ってた感じがあるような気もしますね。 ありがとうございます

  • samkim1
  • ベストアンサー率12% (55/433)
回答No.1

それは分かりません。 マスコミが報道すると、それを見た人の大半はそれが嘘でも信じるし、逮捕されると無実であっても大半は犯人扱いされます。 多い少ないでは判断は出来ません。

nyaran-8
質問者

お礼

そうですね。おっしゃる通りです。お返事ありがとうございました。

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