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暮らしの少数派と多数派

暮らしの少数派と多数派ということについてですが 例えば、若い頃の家庭環境や、多忙な環境を過ごしてきた場合は、 その忙しさや張り詰めたスケジュールなどが沈静化すれば、それが幸せで、そこには問題が無いと思いがちになる気がします。 逆に、落ち着いた環境などを過ごしてきた場合は、そこに潜む問題も知っていることから、忙しさの中に達成という幸せを見いだしていくということがある気がするのですが、その働きには、 こうした落ち着いた環境とは反対の、多忙な環境で過ごしてきた人々の、「幸せを求める働き」が、 物事を達成しようとする、落ち着いた環境からの「達成しようとする働き」の人々とは逆行する働きになっているということなのではないでしょうか。 タイトルの暮らしの少数派と多数派というのは、多忙な環境からの意見は、幸福を得るために問題を沈静化させるという幸福の概念。 落ち着いた環境からの意見は、幸福を得るために、ではなく、幸福を得るために「は」沈静化ではなく、解決のための達成を求めるという多忙を求めていくのではないかという感じです。 暮らしの少数派と多数派、少数派は、弱いという印象がありますが、問題の解決を求めていることを多数(多忙)派からは中々わかりずらいのかもしれません。 何故なら、問題を知識や勢力などのそれこそ多数派で沈静化させることが解決だと思っていることに対し、 大人になっても問題は出てくるのに、問題を解決しようとせず、誤魔化しや上辺で沈静化をはかる人々を見て、多数派がおさめたい事態を少数派が解決を望む事は、多数派には事を「荒立てている」ように見えるのだと思います。 要するに、日常的にある問題でも、解決と誤魔化しでは過程が違ってきます。 その誤魔化しが、多数派となっているようにも思います。 誤魔化しは、物事のバランスや折り合いというものからはかけ離れ、結局は表面上で解決を装って、事態の沈静化を図っているのです。 長文になってしまいましたが、 暮らしの少数派(平常)と多数派(多忙)、問題の解決と沈静化の衝突。 皆様はこれらに対し、どのような印象、意見を持たれますか?

みんなの回答

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.3

回答2gouzigです。 Mychuoさんのコメントの最初に、「gouzigさんは社交性を持ちながらも、こうした少数的な意見に耳を傾けられるというのは、回答文にもありますように、問題の改善や解決を、お若い頃の経験に持たれているからなのでしょうか?」とありました。 私は子供の頃から「大人たちの教え」に疑問を感じていました。例えば学校の規律や授業の内容にです。何故そうなの?そうしないと何故駄目なの?という疑問です。社会人になってもその疑問は多々ありました。特に「努力・忍耐」です。多くの人達が学校の勉強や会社の仕事で努力と忍耐を押し付けます。努力と忍耐を否定するわけではありませんが、結果が伴わなくても努力と忍耐を示せば誉められるのですね。 そういうことにも抵抗がありました。ですからこのような考えは日本では好まれないのですね。 しかし、私が管理者になる頃からは若い世代からは好まれましたね(笑)。 私が何故社交的で友人も多いかというと、旧来の多数派の人達から攻撃されても「自分の考えで社会は悪くならない」という考えなので卑屈にはならず明るく生きているからですね。 最近親しくなった同世代の人達からは「長く生きて来たけど、あんたのような人に始めて会った」とよくいわれます。確かに自分のような人はあまりいませんね(笑)。

Mychuo
質問者

お礼

重ねての回答ありがとうございます。 大人たちの教えに疑問、ですか。私は、学校の規律などには寧ろ疑問を持ちませんでした。それは、与えられたものとしての規律や教材というもの自体には、それほど罪悪を感じなかったからです。 むしろ、他のものに気を削がれていた気がします。それは私の場合、家庭だったわけですけど。だから私の場合社会の中だと、努力・忍耐型になるのかもしれません。 私が社会や家庭などに疑問を持ったのは社会に出てからでした。疑問ではなく、確信でしたね。まあ、確信も疑問も似たようなものかもしれません。 多数派と少数派、と私は表現しましたが、その双方の間にある垣根は、非常に曖昧であるからこそ「はっきりとした曖昧」になっていると感じました。 どちらからも学ぶべきところはあると思いますが、しかし、その垣根に生きる人たちもいます。 問題を抱えたまま、問題に縛られ、どっちつかずになっているような人たち。 つまり、疑問に答えを求めていくことや、答えに努力をすること。その中で、「取り残される感情」というものがあると思います。 そういう感情になりたくないから、そう動いている。そうにも関わらず、そういった感情から離れるだけで、感情を見ようとしないことが多い。 その感情から離れるように、多数派と少数派が分かれるような感じになっていると思ったりもします。 まあ、私もキツキツの管理者には縛り上げられたくはないかもしれないですけど(笑)

Mychuo
質問者

補足

文の終わりの方で、「感情から分かれるように多数派と少数派に分かれる感じになっている」 と書きましたが、多忙と平穏から多数派と少数派になったという話と、矛盾していると感じたかもしれません。 要するに、多数派の中でも感情は必ずしもそっちにいくわけではないということ。 原因に属しないというのであればこの場合、多忙や多数派ということが、必ずしも感情の分け隔ての原因になってるわけではないということになるかと思います。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.2

とても興味深いご質問ですね。 私はかなりのおじさんです。 ご質問に具体例がないのでMychuoさんの云いたいことが分かりにくいのですが、私はあなたと同じような問題意識を持っているかもしれません。 何故ならば、私は社交的で友人も多いのですがあなたのいう少数派に属すると思っているからです。 ご質問にある「多数派には事を「荒立てている」ように見える」との指摘は私もよく感じています。 先日このサイトに「日本人はなぜ議論を避けるのか」という質問があり、それに対する回答に「今までの環境を変えたくないから」という意見がありました。そうなんですね日本人の多くは「問題を解決したくない、新たな考え方を導入したくない」という気質が大勢を占めているのです。議論をすると現状のいろんな問題点が浮き彫りになってしまうからですね。 私は自分が生きやすいように問題はどんどん改善する、解決するという考えですが、これは学生時代やサラリーマン生活でかなりの抵抗を受けました。 ご質問にある多数派とは「何も変えたくない」という多くの人達を指しているのかなと感じました。 この多数派は自然発生的に生まれたのではなく、国や地域の権力者達が自分達に対する抵抗勢力が生まれないように長い年月にわたって恣意的に教育してきた結果だと私は見ているのですが。

Mychuo
質問者

お礼

私も男性です。なんでしょうかこれは(笑) 質問に、具体例がなくわかりずらかったかもしれないですね…。 gouzigさんは、社交性を持ちながらも、こうした少数的な意見に耳を傾けられるというのは、回答文にもありますように、問題の改善や解決を、お若い頃の経験に持たれているからなのでしょうか? 解決や改善をするというこの場合の少数派でも、社交性は持てるということになりますね。貴重なご意見だと思います。 >「日本人はなぜ議論を避けるのか」という質問があり、それに対する回答に「今までの環境を変えたくないから」という意見がありました。そうなんですね日本人の多くは「問題を解決したくない、新たな考え方を導入したくない」という気質が大勢を占めているのです。議論をすると現状のいろんな問題点が浮き彫りになってしまうからですね。 問題点が浮き彫りになるから議論をしたくないというのは、それで問題を起こし、今までの環境を変えたくないから、ですか…。それだと本末転倒な気もしますが。 議論をして、せっかく問題点が浮かび上がるのにそうしないのは「今までの環境を変えたくないから」「新たな考え方を導入したくないから」というのは、 現代発達した文明などがありきの暮らしに付随する行動パターンや考え方が、新しいものを導入しなくてもいい、と思わせる一つにあるのかもしれません。 要するに、議論の甲斐が、恵まれた生活環境の中では生まれずらい、ということも原因の一つにあるのかもしれません。 >ご質問にある多数派というのは「何も変えたくない」という多くの人達をさしているのかなと思いました。 そうですね。お察しの通りです。 きっと、トラブルが起こってから議論をすると思うんです。でも、そこでの突発的な問題意識の発生は焦りも伴うかもしれなく、それが、問題の浮き彫りを沈静化しようとする働きになるのではないかと思いました。 回答にあります「国や地域の権力者達による自分達への対抗勢力が生まれないようにする働き」 なのだとしたら、それは少数意見への対立が生まれた事例になりえることですね。

回答No.1

なるべく問題から正面から取り組み解決していきたいと思っていますが、誤摩化すことも現実にはあります。トータルでは、常識的で破綻のない生活をできれば、いいな、と思ってます。浅いかもしれませんが、それだけです。

Mychuo
質問者

お礼

私も同感です。正面から取り組んで全てうまくいくことはなかなか、ないものですよね。 今回の質問は、問題への正面への取り組みや、その、側面などの視点を書いてみましたが、常識や破綻に気をつけるというバランスも、相当に必要なことだと思いました。

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