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元寇で戦った武士

NHKの歴史探偵で、元寇を取り上げていました。そこで、しきりにモンゴル軍と戦ったのは鎌倉武士だ、と言ってました。私も、昔、それを聞いて、てっきりモンゴル軍を撃退したのは、鎌倉あたりの関東武士だと思ってました。しかし、実際は勇敢な九州の御家人というのが分かってから、何故、元寇の時に戦ったのは、九州の武士だ、と言ってあげないのか不思議です。そりゃ、鎌倉時代の武士だから鎌倉武士と言ってるんでしょうが、何か解せないものが残ります。実際、現場となった博多湾の防塁を見た時は、九州男児に対して尊敬の念さえ持ちました。何故、九州の武士が戦ったと説明しないのでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.4

ウィキペディアを読んだところ、少なくとも弘安の役(二度目の元寇)のときは、伊予の御家人が戦闘に参加していたようです。 場所から考えると、長門や周防の御家人が一人もいないのもちょっと不自然な気はします。「来ていたけれど、積極的に戦わなかった」というのはあり得ると思います。九州の戦いですから、九州の武士団からすると「よそ者が出てくるところじゃない」という気持ちもあったと思います。ほら、よくアメリカの刑事ドラマでFBIの主人公が事件現場に来ると地元の保安官が出てきて「ここはウチの事件だ。FBIが出る幕じゃない」と追い返そうとする場面がありますよね。そういう地元意識は当時のほうがより強かったはずです。 当時の人々の「国」とは、肥前だったり肥後だったり筑前筑後のような、今でいうところの県単位です。だから元寇というのは「外国が攻めてくる」というより、現代で例えるなら「地球外からエイリアンが攻めてくる」という状況なんですね。中世以前の戦争だと敵の生首を投石器で投げるなんてことをやっていますが、我々もエイリアンやプレデターの生首ならそれができそうじゃないですか。そもそも「Alien」とは「異民族」という意味ですし。 今もし地球外生命体がロシアに攻めてきたら、果たして世界はロシアに援軍を送るのだろうかって話ですよね。 また結果として戦役は発生しませんでしたが、元軍の一部が長門や石見に攻めてきた可能性もありました。迎撃した日本側に九州武士の名前ばかりが目立つのは、おそらく長門や石見でも武士は動員されて防衛にあたっていたからだと思います。ウィキペディアでも、長門にも一部が侵攻したみたいだけど資料があまり残ってないからよく分からないというようなことが書いてありますね。 結果として元軍が上陸してくることはありませんでしたが、大きな戦役としては西日本の武士も動員をかけられたであろうことを考えると、戦ったのは九州武士だけと限定するのも「違う」となると思います。 また実際に戦った武士たちも、決して「愛国心」などという壮大なエネルギーに動かされていたわけではありません。愛国心(ナショナリズム)というイデオロギーが出てくるのは、どんなに遡ってもアメリカ独立戦争以降です。「自分たちで作った国を、自分たちで守ろう」と人々が目覚めるのはアメリカ独立戦争からなんですよ。 スイスの独立戦争までは遡ってもいいかもしれませんが。 じゃあ当時の武士団が何をモチベーションにして奮戦したのかというと、そりゃあ「恩賞」が目的だったからです。そしてその恩賞とは「土地」に他なりません。当時はまだ貨幣はゆきわたっていませんでしたから。 昔学校で習った「御恩と奉公」ってのはそういうことです。昇給が期待できるから仕事を頑張るのは当然じゃないですか。 ところが元寇は対外戦争でしかも防衛戦争だから、与える(相手から奪った)土地がない。武士団は「頑張れば恩賞が期待できる」と思ったから頑張ったのですが見返りがなく、当然御家人たちは大きな不満を持つことになりそれが鎌倉幕府滅亡の一因になったのです。 そもそも原稿のきっかけは、宋を追いやって中国王朝となった元が、日本に使節を派遣して「我々が中国の正当王朝になったから、臣下の礼をとるように」と幕府にいってきたのを、幕府は京都からも遠く離れた鎌倉にあったもんだから海外事情に疎くて「元?聞いたことないなあ。だってまだ宋はあるんでしょ?じゃあ臣下の礼なんてできないじゃん」と追い返してフビライに大恥かかせたからです。 間に挟まれた高麗は、元が日本に軍事行動を起こすなら自分たちが一番下働きを押し付けられることが分かっていたから必死になって中国の現状を教えて「形式だけ、形式だけ臣下の礼をとればいいだけだから!」と説得したのにこれですからね。 国際情勢に疎くて、変なプライドで国民を困窮させて・・・あれ?私、現代の話をしてましたっけ?

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。そのような種々の事情もあったんでしょうね。確かに、恩賞の事も読んだ気がします。それと、祖原公園という少し小高い丘に、モンゴル軍の陣地があった碑があったので、一部は上陸したと思います。現在の話? かもしれませんね(笑) ありがとうございました。勉強になりました。

その他の回答 (4)

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2180/4828)
回答No.5

>しきりにモンゴル軍と戦ったのは鎌倉武士だ、と言ってました。 実際は、元軍でなく高麗軍ですがね。 高麗王朝記にも「高麗国王は、何度も皇帝に日本侵略を進言した」と載っています。 「武器弾薬・食料・船舶を準備し、高麗軍が先陣を務める」とまで、高麗国王は述べています。 もちろん、韓国の「正しい歴史」には一言も記載がありませんが。^^; >てっきりモンゴル軍を撃退したのは、鎌倉あたりの関東武士だと思ってました。 鎌倉武士を単純に理解すると、鎌倉当たりの武士ですよね。 >何故、元寇の時に戦ったのは、九州の武士だ、と言ってあげないのか不思議です。 教科書の書き方と、文科省の方針なのでしよう。 そもそも、鎌倉武士=鎌倉幕府に奉公する武士(在郷含む)です。 まぁ、最近の歴史の先生は「教育改革=勉強するな世代」ですからね。 マークシート試験以外の歴史知識は、残念ながらありません。 >博多湾の防塁を見た時は、九州男児に対して尊敬の念さえ持ちました。 確か、高さが約3メートルで防塁の前には堀がありましたよね。 当時の技術では、多くの労働者が働いた事でしよう。 名もなき人達の成果です。 大坂城は、秀吉の命令で労働者が働きましたよね。 大坂城を建てたのは、名もなき労働者です。 今の大阪城天守閣は、大成建設が建てました。 >何故、九州の武士が戦ったと説明しないのでしょうか? 先に書いた通り、文科省・教員が「教育改革の被害者」なのと「マークシート入試の弊害」でしよう。

tahhzan
質問者

お礼

そうなんですか。なるほど。しかし、九州の人達は、先祖の尊い働き及び犠牲によって、日本が高麗のように奴隷国にならずに済んだという事に対して、文科省に進言でもしたらどうかと思いますがね…貴重なご意見、ありがとうございました。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (952/1524)
回答No.3

「九州武士」「九州武士団」という言い方をすると、九州の武士だけが戦ったかのうような誤解を招くからではないでしょうか? Wikipedia「元寇」に、「1271年(文永8年・至元8年)、北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じ、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた」などとあるように、元寇には東国の御家人も参戦しています。 「鎌倉武士」は、鎌倉幕府に属する武士、あるいは鎌倉時代の武士という意味で使われることばで、九州の御家人も東国の御家人も全部ひっくるめて表現できます。

tahhzan
質問者

お礼

そうなんですか。東国の武士も参加したのですか。それは、知りませんでした。いずれにしても、彼らのおかげで奴隷国にならずに済んだので、ありがたい限りです。ありがとうございました。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.2

鎌倉時代の武士というのはどこに住んでいたとしても幕府(当時そんな呼び名が無かったのは確かです。武士の政治を司っていた場所は「御所」などと呼ばれていました)に忠誠を誓い、「いざ鎌倉」の場合は幕府のために戦っていたわけですから間違いではありません。室町時代のように「寄合」とは大きく違うのです。

tahhzan
質問者

お礼

う〜ん…そうですかね… 何か、割り切れないものが残りますね…ありがとうございました。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 おそらく、ですが「大阪城を建てたのは誰ですか」「豊臣秀吉です」というのと同じなんだろうと思います。「残念でした、名前不明の大工さんや人足たちです」とは、ふつうは言わないです。  鎌倉幕府が総守護だかなんだかに任命され、板東の御家人が各地の守護・地頭に任命されて、ボスとして赴任しています。  例えば、薩摩の島津は鎌倉幕府に任命されて彼の地に行った由緒正しき鎌倉武士の子孫ですし、長州の毛利氏は「鎌倉殿の13人」でも活躍している大江広元の子孫です。  因みに毛利氏の兄の家系は越後に来て「北条(きたじょう)」を名乗って北条城の城主をしていましたが、謙信を裏切って武田についたり戻ったりして結局家名を残せず潰れました。  そういう彼らが、時の執権「北条時宗」の命令で任地の武士を引き連れて出撃したのですから、「元寇で戦った鎌倉武士」と言っても大きな間違いはない、と思います。

tahhzan
質問者

お礼

そうですか。詳しく説明を頂き、ありがとうございます。ただ、そうは言われても、何か釈然としないものは残りますね。現地の九州の人は、どう受け取ってるんですかね…とりあえず、日本の国難を九州男児だけで救ってくれた事に対して、感謝はしたいですね。もう、九州に足を向けては寝れないですね(笑) ありがとうございました。

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